第8話 王女の弓の指南役

 翌日、アリスはエマとともに射場に居た。ルキアがエマの弓の指南を自ら買って出たのだ。

 アウストラリスで使われる弓は、ジョイアで主に使われる長弓より少しだけ短くできているらしい。ルキアは自国から自分の弓を持ってきたらしく、手本を見せようと何本か引いていたが、弓は弦を張った状態で彼の身長より少し長いくらいで扱いが難しそうだった。なのに、全くはずさないどころか測ったように同じ所に矢が飛ぶので、既に数本矢が破損していた。

 対してエマの持つ弓は弦を張らない状態だと彼女の身長くらい。弦を張ってしまえばずいぶん小さく見える。ジョイア式の弓と比べて引きやすそうだというのに、彼女の矢は見事に一本も的にたっていない。


(こんな風に飛ばすのって、逆に難しいんじゃないのかな)


 アリスは綺麗に的の回りを囲んでいる矢を土から抜き去ると、矢の先についた泥を布で丁寧に拭う。そしてため息を吐いて矢を一つにまとめ、憂鬱のせいで重くなった足を的場から三十歩ほど離れた射場に向ける。

 射場には簡単な屋根がついただけ。矢道が垣根で区切られているだけの吹きさらしになっていて、外からも様子がよく見える。

 ルキアとエマはがらんとした射場に立っている。頭二つ分エマのほうが小柄。遠目から見ると同じ炎の色の髪と大地の瞳を持つ彼らは兄妹のようにも見えた。


(だけど、実際に兄と妹の関係に近いのは――)


 考えると歩みが止まりそうになる。そこに二人の声が聞こえてきた。


「武術大会に出るんだろう?」

「ええ。そこで剣術と弓術と馬術と……できれば武術全部で優勝して人気を稼ぐのよ。知っての通り、この国、昔から強い王に人気が集まるの」

「じゃあすべて的中させるくらいじゃないとだめだと思うけど、現状、二十本中〇中とか……先は長そうだな。今までなにをやってたんだ。基礎が全くなってない。幸い筋力体力は問題ないからよかったけれど」

「だってまともな師が居なかったのよ」

「陛下は? 剣は教えてくださったんだろう?」

「そもそもお父様は弓術がお嫌いみたいなのよね」

「あぁ、それ、おれの父上のせいかもな。あの人、剣はからっきしだめで母上のほうが強いくらいだけど、弓だけは神懸ってる。おれもまだ勝てないくらいだし。ひょっとしたら陛下は父に負けるのを嫌っておられるんじゃないのか?」


 ルキアの軽口に、エマが「お父様は、そんなに心は狭くないわよ?」とむっと声をとがらせると、


「いや、絶対そうだって」


 ルキアは楽しげにエマをからかう。

 指南を始めたのは今朝からなのに、かなり打ち解けている。距離が縮まっているのがあまりにわかりやすくて、アリスは居心地の悪さを感じていた。なにも知らない者がアリスとエマとルキアの三者を見たならば、邪魔者はきっとアリスに見えると思ったのだ。


(来なければよかったかな)


 エマに、せっかくだから一緒に習おうと誘われたものの、アリスは気乗りしない上にすぐに肉刺まめを作って潰してしまい、早々に練習から離脱した。剣をほぼ日常的に握っているエマはアリスよりも手の皮が厚いらしい。そういった些細な優劣にも腐りかけている自分の心の狭さが腹立たしい。

 エマたちのの背後から射場に足を踏み入れようとして、不意に飛び込んできた光景にアリスは立ち止まった。


「ほら、貸してみろ。まず弓の持ち方が駄目なんだ」


 そう言いながらルキアがエマの左手を取って、弓を握らせている。長い指がエマの小さな手を開かせ、手の皺をなぞる。


「ほら、小指の下の線があるだろ? その始点に弓の背を当てて――」


 二人の姿が刃のように胸に刺さる。動揺したアリスが見ていられなくて目をつぶった時だった。


「よお、アリスティティス」


 後ろから掛かった声に驚く。と同時にアリスの眉間に反射的に皺が寄る。低くてかすれた特徴的な声は聞き間違えようがない。

 振り向くと、予想通りの人影が木の影から現れた。だが、見るなりアリスは目を見張った。


「ヘルメス?」


 人影はひとつ。いつもくっついているミロンもエニアスも居ないのだ。どうやらエマの無茶な勝負は成果を上げたらしい。


「おまえが射場にいるって珍しいな。――なに? 雑用してんのか?」


 アリスは静かに肉刺の出来た己の手を見せて「珍しいことはするもんじゃないね」と肩をすくめてみせる。そうしながらもヘルメスの行動の意図を気にした。彼が射場に来るのも珍しいことだったからだ。


「あなたこそまたエマにちょっかいかける気なのか? あんな目にあっておいて懲りないね」


 ヘルメスのような恥をかいたならば、アリスだったらもう二度とエマに顔を見せられないと思う。図太さに呆れを通り越して感心していると、彼は「うるせえな」と柄悪く怒鳴ったあと、ふふんと笑う。


「ふん、珍しく機嫌が悪いな。さてはあいつに居場所を奪われて苛立ってるな?」


 ヘルメスはアリスの肩越しに射場を覗きこむ。顎でルキアを指すと面白そうにアリスを見つめた。


「弓は不得手だから、奪われるも何もない」


 図星だったことを悟られたくなくてアリスは軽く流す。だが、ヘルメスは更にアリスを煽った。


「エマのやつ、一目惚れしてんじゃねえか? なにしろあの顔だし……おれもうっかり惚れそうになったくらいだ。いっそ連れて帰っちまえばいいのに」


 内心動揺しつつもアリスは涼しい顔を続ける。


「一目惚れもなにも、彼らは昔なじみだから」


 だから、どちらかと言うと、大人になって再会して、親愛の情が恋に変わるとかそういうやつ――そう冗談で流そうと思ったが、予想以上に胸が締め付けられて言えなかった。

 それに、ルキアに笑顔に不機嫌さがだだ漏れていると言われたことを思い出す。今、上手く笑う自信がない。というより、実は昔から笑えていなかったのかもしれないと不安になった。

 と、そのとき、


「ああもう無理。やっぱりこんな重い弓、引けない!」


 エマの文句が聞こえてきて視線をやると、ルキアがエマの背に回って彼女の肩に手を載せているところだった。弓を打ち起こしたエマの両肩をぐいと後ろに引っ張って、胸を張らせる。


「軽い弓だと的まで飛ばないだろう? ほら、腕で引くな。背中を使うんだ」


 そう言うとルキアは今度はエマの背中に手をやって、肩から背を大きく撫でる。両方の親指でエマの肩甲骨を押しているのだろうけれど、その手つきがまるで愛撫にも見えてアリスは動揺を隠すのに必死になる。


(というか、そういう目で見る僕がおかしいんだ)


 アリスは小さく頭を振ると、浮かんでしまいそうになる艶めかしい幻影を振り払う。


「そうだ、そのまま腰に力を落とせ」

「腰?」

「ああ。それは剣にも共通しているだろう? ほら重心がどこにあるか意識しろ」


 ルキアがエマの頭に顔を寄せ、後ろから彼女の狙いを確かめる。ルキアが真剣そのものの目で的を睨んでいる。エマも彼と同じ目をしてまっすぐに的を見つめている。頬が触れそうに近い距離に、アリスの心臓が勝手に跳ねる。

 きりりと弦が張り詰める音があたりに響き渡る。息遣いさえ邪魔になりそうな静寂の中、ルキアが言った。


「肘と肘を腰を中心に均等に外側に伸ばせ。左手親指を的の中心に押しむようにするんだ。そうしたら右手は自然に離れる」


 エマが静かに頷き、ルキアの言うとおりに的に向かって腕を押し込む。と、高い音を立てて矢が勢い良く放たれた。鋭い放物線を描いた矢は見事に的に的中し、破裂音を立てる。


「すごい!」


 エマがルキアに向かって破顔する。その無邪気な笑顔があまりに眩しくて、アリスはうつむく。


(あんな顔してるの、見たことない……いや、陛下に剣を指南してもらってる時と同じ?)


 アリスはルキアの顔を盗み見る。優美な顔立ちは違う。だが、目元ににじむ精悍さは陛下のそれだ。エマの大好きな父親のものと同じ。


(そして、彼らは従兄妹だ――婚姻可能な)


 気づいた時には足下から地面が抜け落ちるような感覚に陥っていた。もしかしたら顔色も蒼いかもしれない。唇を噛むとアリスは誤魔化すように前髪で顔を隠す。


「あー、いいな。手取り足取りってやつ? 武術だと堂々と触れられていいよな。勉強教えるときは触ったり出来ねえだろ?」


 くつくつと笑うヘルメスは何か誤解をしているらしい。

 僕は、エマの再従兄かつ保護者であって、それ以上の何者でもないよ――そう言おうとしたが、今の顔色では説得力がない気がして、結局アリスは黙りこんだ。

 アリスの反応がないのを見ると、ヘルメスは「役に立たねえな。腰抜けが……ま、おれはどっちでもいいんだけどよ」とつまらなそうに舌打ちしてその場を去る。アリスは肩の力を抜きつつも思わずぼやいた。


「……って、あの人一体なにしに来たんだよ?」


 不可解に思いつつも、アリスもいっそこの場から去ってしまいたいと思った。が、彼がいなくなればルキアとエマが二人きり。そう思うと足がその場に生えたかのように動かない。

 重石がのった心からは、今にもどろどろとした何かが溢れ出しそうで。その気持ちが一体なんなのか――気づかないふりはもう無理かもしれない、アリスはそう思った。

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