第10話 それは家族愛、だから
エマのアリスへの想いは、少なくともアリスがエマに抱いていた想いとは違うらしい。
『ただの家族愛だもの』
何度も耳の中で繰り返されるその言葉はアリスの心を抉り出し、地面に叩きつけて、壮絶な痛みを与える。
「は、はは……は」
乾いた笑いが口から溢れる。これほどに衝撃を受けると思っていなかった。切り捨てられて始めてはっきりと自覚するなどどれだけ愚かなのだろうと思う。
アリスは悔いた。
穏やかでいたい。感情に振り回されたくなどない。だが、本当は作業が何も手につかないほどに、彼らのことを気にしていた。
今日こそはエマが来るかもしれない。不安を殺すためにアリスは飴を作り続けたが、飴を入れた袋は既に七つになっていた。それでもアリスは飴を作った。今夜こそは必要になるかもしれないと思いながら。
だが、アリスの願いも虚しく、エマは現れず、それどころか、その日は時間通りに戻ってこなかった。いつも夕食後に鐘がなる前までの時間、エマたちは射場へ足を運ぶ。宵の八の鐘が鳴る前までに彼女が部屋に戻ると石の階段を駆け上がる音がするはずなのに、いつまでたってもあの小気味の良い軽やかな足音が鳴らなかった。
二人きりにしてしまったことをじりじりと後悔していたアリスは、宵の八の鐘と同時に火が着いたように部屋を飛び出し、エマを案じて探しに来たのだが……。
漏れてくる声に聞き耳をたてなければよかったと思った。
『おれの妃になるか、アリスの妃になるかしたほうが絶対いい』
アリスの不安は的中した。ルキアは一人で、抜け駆けをしようとしていた。しかも勝手にアリスの名を使い、勝手に巻き込んだ。
聞くなりアリスは喉が干上がった。どこかで期待してしまっていた。――アリスがいいわ。そう言ってくれるのではないかと。それが愚かな願いであると知りながら。
だが、ルキアの言葉にエマはこう返した。
『家族愛だもの』
――聞かなければ、何も知らない顔をして助けに飛び込むことが出来たのに。
*
ルキアの言葉で黙りこむしかなくなっていたエマは、「大丈夫ですか!?」という兵の声に顔を上げた。小さな舌打ちが上がり、目を瞬かせる。
「あいつ、逃げやがった」
面白くなさそうにルキアが言う。
「どういう意味? あいつ?」
だがルキアは「なんでもない」と小さく笑うだけ。
「このようなものが、つっかえておりまして」
兵が木刀を差し出してエマは呆れる。扉を封じていたのは、ずいぶん原始的な鍵だったらしい。
「立てかけていたのが倒れたのかしら?」
エマは首をかしげるが、そんな迂闊な真似は自分もしないしルキアもしないだろう。
「ふうん。つまり、故意にやったってわけか」
ルキアが注意深く木刀を観察する隣で、エマは鋭く兵に言いつける。
「近衛隊長を呼んで。犯人を探しておいて」
そうして、エマはルキアから逃げるように背を向ける。するとルキアが兵に向かって問いかけた。
「ああ。ちょっといいか」
「なんでしょう」
話しかけられた兵が恐縮した様子でびしりと背筋を伸ばし、居住まいを正した。兵はルキアの顔を見るなり、国一番の美姫にでも話しかけられたかのように顔を赤くする。そのせいで彼はエマの存在を忘れたらしい。倉庫の入り口で大きな身体を固まらせている。
「ちょっと、道を開けてよ!」
だが呆けた兵の耳にはエマの声は届かない。逃亡を阻まれたエマは大柄な兵の前で右往左往する。そんなエマの後ろでルキアが言った。
「確か、この国の武術大会も、優勝者には王から直々に褒美が出されるって聞いたけど」
「今はそんなことどうでもいいでしょう!?」
いいから退いて。私、ここに居たくないの! 叫び出したい気分で兵を睨みつけるが、エマの声はやはり兵の耳を素通りしてしまう。ルキアの声以外を受け入れることを、耳が拒んでいるのかもしれない。空恐ろしい。
「ああ、ええ。はい……ルティリクス陛下の御代から始まった習わしです。士気を上げるのと全体の技術の底上げが目的だそうで」
兵はなんとか正気を保とうとしながら頷いた。
「実はジョイアでもそうなんだ。ここでも何を望んでも許されるんだろう?」
ルキアはニヤリと笑う。
「昔から妹達を手に入れようと、国中から猛者がやってきて大変なんだ。だけど今のところは、おれと、あとはおれの乳兄弟が阻んでいるかな」
クスクスと殺人的な笑みをこぼすと、とうとう兵が茫然自失とする。話を続けようとするルキアを放置すると、エマは兵の脇を半ば無理矢理に通り抜け、自室へと足を早めた。
頭がぐしゃぐしゃだった。とにかくいますぐにでもアリスの顔が見たかった。そうして、いつもみたいに適当に愚痴を吐いて、飴をもらって安心したかった。
(――ちがうわ。私が女王になりたいのは、お父様に認められたいからだけじゃない)
耳にはルキアの声が張り付いている。必死で否定するけれど、瞼の裏で幻のルキアは美しく嘲笑い、耳元で『じゃあ、おまえはどうして王になりたいんだ?』と何度もエマの覚悟を確かめた。
「それでは、おやすみなさいませ」
湯浴みを済ませ、寝間着に着替えた後、女官たちはすべて部屋から下がる。部屋の外に控えてはいるけれども、音を立てなければ覗くことはないのは確認済だった。
エマは消灯された部屋でむくりと起き上がると、丁寧に毛布で人形(ひとがた)を作ってシーツでくるんだ。仕上げに赤い髪のかつらまでかぶせると、寝台の下に隠している簡素な黒い服に着替えて髪をまとめた。こうやって、寝室を誰にも気付かれずに抜け出す技には年季が入っている。
窓をそっと開けると冷たい風が吹き込んだ。
エマはいつもの様に窓から木を伝って中庭へ降り、小さく窓を叩いた。
「アリス」
だがアリスは何度窓を叩いても現れない。眠りの浅いほうなのか、いつもは小さな物音でも起きてくる質なのに、どうしたのだろう。
胸騒ぎが酷い。避けられているのかも――先ほどの懸念が胸に黒い色を纏って広がりだす。
一瞬のためらいの後、エマは扉を内側に押してみる。きいと小さな音を立てて扉は開いた。不用心にも――といっても中庭からの侵入はエマ以外にはあり得ないのだが――鍵は開いていた。まるで待ち構えていたかのようにも思え、エマはもう一度問いかける。
「アリス?」
一歩踏み出すと、厚手のカーテンの向こうで微かな物音がした気がした。それをめくり、中を覗きこんで、エマはどくりと胸が跳ねるのがわかった。
部屋の中央には大きな寝台がひとつ。そしてその上ではアリスが半身を起こして、おどろくほど冷めた眼差しでこちらを見つめていた。
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