第6話 羨望と嫌悪

 時は少しだけ遡る。


 ジョイア皇国、その皇太子ルキアノス――ルキアは、顔には出さないものの、ひどく苛立っていた。


 隣国アウストラリスの王、ルティリクスの『半年ほど遊学しないか? 王位継承の儀の立会人に、ジョイアの人間も加えたいし』という誘いに乗ってやってきたルキアに、謁見の間で王が紹介したのは、選りすぐりの衛兵たち。アウストラリス滞在中にルキアの護衛を担当する者達だった。護衛は連れてきたが念のために用意してくれるのだと言う。


 だが、その衛兵(当然男だが)はルキアを見るなり、滞在中の世話を受け持つ役割を巡って諍いはじめた。突如勝ち抜き戦の決闘が始まったが、王は面白そうに眺めるだけで、臣下の愚かな行いを止める気配は全くなかった。


 その様子を見てルキアは思い出す。父――ジョイアの帝であるシリウス帝だ――が、今回の遊学を酷く渋ったことを。


 王はルキアを嫌っている。それが大きな理由だった。だが、ルキア自身は、嫌われるような真似をした覚えは全くない。母が言うには、父と王が犬猿の仲だから、とばっちりを食らっているということらしい。


 王は、ルキアの母の兄。つまり伯父だ。頼りない父のことを、伯父は気に食わない――そういうことなのだろうと昔は思っていた。

 それでも伯父に嫌われているのは堪えた。ルティリクス王は、一代でアウストラリスの政を根本から変えた賢王だし、


(なにより――)


 ルキアは手を持ち上げて己の赤髪を、紅玉の耳飾りが光る耳にかける。この焔色えんしょくの髪を持つ者は、ジョイアには一人としていない。父は黒髪、母は金髪。妹二人は黒髪で、なぜかルキアだけが赤髪なのだ。そのせいで、彼は己の血筋を疑われることに慣れていたし、自らも納得できないでいた。


 本当の父親じゃないくせに。そう言って父に反抗したこともある。だが殴られた上に、『もし母さまを同じように傷つけたら許さないよ』と釘を刺された。父は昔から『母を守ること』を他のどんなことよりも優先する。穏やかな父が怒るところをルキアは初めて見たから、逆に疑いを強めてしまい、母には尋ねれられないでいる。


 そして、疑いは晴れないまま今に至る。だが、父や母に聞けなくても、真実を知る人間はあと一人だけいる。


(陛下。あなたは、もしかして)


 羨望と嫌悪の入り混じった複雑な感情を押さえ込みながら、王を覗い見たところで、勝ち抜き戦の勝者が決まったらしい。うおおおおと雄叫びを上げる男が鼻の下を伸ばすのを見て、ルキアは感傷的な気分を捨てさり、頬を引き攣らせる。


(やってられない)


 あまりの馬鹿馬鹿しさにうんざりしたルキアは逃亡を決めた。こういう時はどうすればいいか、対応は幼い頃から父に叩きこまれている。中途半端が一番いけない。いっそ最大出力の高熱で焼ききるのだ、と。


「た、たたた滞在中は、何でもいたしますので! なんなりとお申し付けくださいませ!!!!」


 上ずった声で挨拶をし、どさくさで手を取ろうとする兵に、


「ご丁寧にありがとうございます。ですが、やはり必要ありませんので、遠慮いたします」


 ルキアは渾身の笑顔を作った。すると衛兵が一度に呆け、勝ち抜いた兵が鼻血を出して倒れた。その場に居るもので正気を保っているのは王のみという状態で、ルキアはやすやすと謁見の間から飛び出ると、そのまま人気のない場所に移動して、さらに安全策を取ろうと木の上に登ったのだった。


 持って生まれた特殊な外見のせいで、こんな騒ぎは幼い頃から慣れっこだった。だが、ジョイアでは耐性がついている者が多いせいで、貞操の危機を感じることは少ない。国外に出るのは久々だったのでどっと疲れが出た。


(めんどくさ……やめておけばよかったかな)


 そう後悔した時だった。淀んだ胸の内を洗うような清涼な風が足下を流れた。同時に響いた軽快な足音を聞いて、ルキアは思わず風上を見た。すると一人の小柄な少女が、風をまとうようにして駆け抜けていく。


(あれは――?)


 見間違いようがない赤い髪に気づいたルキアは、木から飛び降りた。だが直後、


「そこにおられるのは、もしかして、皇太子殿下ですか?」


 後ろから近づいた人影に捕まったルキアは、捕まったか――と体をこわばらせたが、直後、見開かれた柔らかい茶色の瞳と目が合い、懐かしさに頬を緩ませた。



 *



 殺意に似た感情が、吹き込んできた突風に吹かれて消されてしまったと思った。

 落ち着きを取り戻したエマは、危なかった、そう思う。いくらヘルメスが悪いとしても、もし本気で切り取って不能にしてしまっていたら、さすがにただですまないだろう。ヘルメスが狼藉しようとしたと証言してくれそうな証人は居ないし、居たとしても、エマはまだ何もされていないのは事実である。


 こういった時に彼女を止めて、危機を救ってくれるのはいつもならばアリスだ。だが、今日駆けつけてくれたのは、どうやら違う男。夕日を背負って近づいてくる青年をじっと見つめていたエマだったが、彼の顔がはっきり見えはじめたとたん、呆然となった。


(え? おとう、さま?)


 エマはルキア――隣国の皇太子であり、かつエマの従兄であるルキア皇子――にもう六年会っていない。十歳の時に彼の成人の儀で隣国を訪ねた時に会ったっきりだ。だがそれでも彼をルキアだと思ったのは、彼の髪の色、そして弓の腕を聞いていたからだった。彼の父であるジョイアのシリウス帝は、あの父が認める(といっても認めるのは弓の腕だけだが)弓の名手だった。そして息子のルキアもその腕を受け継いでいると聞く。


 だから今目の前で起こったようなありえないような神業をやってのけるのは、二人しか思い当たらなかった。エマは赤く焼けた髪の色で彼をルキアだと判断した。……のだが。


 近づいた青年は、父ほどは大柄ではないものの、背が高く、引き締まった伸びやかな体をしていた。化粧を施したのではないかと思えるくらいに、目鼻立ちがくっきりとしていて、しかも完璧な線を描いていた。多少釣り上がった目は長いまつげが影を落としていて、言いようもない色気がある。一見すると女性にも思える柔和な顔立ち。だけど、輝く瞳の持つ光の鋭さは、女性のものとは思えない。その上、意志の強そうな凛々しい眉が、全体の印象をきりりと引き締めている。


 地面に伏せていたヘルメスを始め、三人組が一様に息を呑む。エマも息が止まりそうになっていた。

 幼心にも『きれいなお兄さん』という印象は抱いていたし、二十二になった彼が、大陸中の娘がその妃の座を望むほどに麗しいとは、風のうわさで聞いていた。

 だが、エマが心奪われたのはその美麗さにではなかった。近づいてきたルキアが持つのは父と同じ色だった。秀でた額にかかる赤銅のような赤い髪、肥沃な大地を思わせる茶色の瞳。なにより、この眉の形は、大陸で一番麗しいと有名なシリウス帝からではなく、母方の――つまり父の血を思わせた。


(叔父と甥だから似てるだけ。おかしいことじゃない。なのに、私、どうしてこんなに動揺してるの)


 胸が騒がしい。目を離せないでいるエマの前に、青年が辿り着く。彼が踵を合わせ靴を鳴らすと、砂が辺りに派手に飛び散った。


「うわっ――」


 再び砂を浴びたヘルメスが我に返って怒鳴る。


「お、おまえか、この矢は! なんてことしてくれる。おれは、おおお王太子だぞ」


 先ほどの衝撃はまだ去っていないらしく、ろれつが回っていない。しかもエマが『ルキア』だと漏らしたのに、皇太子だと察しもせずに愚かさを露呈している。背に矢を背負ったまま、そして失禁も隠しようがなく、情けないことこの上ないヘルメスに、ルキアは丁寧に、しかし蔑みを隠さずに言った。


「助けなかったら、このおてんばは、切り取っていましたが? 感謝して頂いてもいいくらいですよ」


 低くつややかに響いたその声に、エマはさらに動揺する。彼の声は、父の声に酷似していたのだ。


(ど、どうしよう、私……!)


 これは父ではない。だが、父ではないということは、エマのものになりうるのだと、身体がエマの意志に反して叫ぶのだ。

 だが、そのルキアはこのような視線を受けることは日常茶飯事なのか。全く表情を動かさず、エマを一瞥した。そしてヘルメスには丁寧に返したくせに、ひどく砕けた調子で話しかけた。


「六年ぶりか? ああ……母親に似なかったみたいだな」


 安請け合いしすぎたか――と残念そうな響きにエマは目を瞬かせた。強烈に魅惑的な眼差しを向けられたせいもあるが、母と比較されるときは美しいと褒められるのが常だったため、それが賞賛の言葉ではないという意味だと気づくのに時間がかかった。


「…………は? 似てない?」


 ルキアはエマの顔から視線を下にずらす。そしてニヤリと笑うと言い直した。


「色々と、期待はずれって意味」


 瞬間、胸の動悸がぴたりと治まった。代わりに、なんですって――と頭に血が上りかけた時だった。


「エマ!」


 エマはルキアの後ろから駆け寄ってくる銀髪の男の影を見つける。三人組と同じ銀髪でも、彼の髪からは春の雪解け水のような柔らかさと清涼さを感じた。彼の柔軟で清廉な性格を知っているからそう見えるのだろうか。


「アリス!?」


 アリスの息が上がっている。閉じこもって学問ばかりに打ち込んでいるが、それほど彼は体力がないわけではない。つまり、息が上がるほどに必死で駆けつけたということ。

 彼の眉は、釣り上がりこそしないものの、いつもの穏やかさを失っている。エマはこれはまずいと怯んだ。普段怒らない人間が怒ることほど怖いことはないのだ。

 だが、アリスはエマに不満をぶつけることをせずに、ルキアと縫い付けられたままのヘルメスを見て大きく息を吐く。


「もうちょっと平和的に解決できなかったのかな?」

「おれのやり方だから、彼女がやらかすのを防げた。だいたい、文句を言う前に普段からもっとしっかり躾けておけよ。《保護者》の役目だろう?」


 ルキアが呆れたように睨むと、


「保護者?」


 アリスはむっと眼光を尖らせた。


「一度でもやってみてから言って欲しいんだけど」

「甘やかし過ぎてるからこうなるんだ」


 アリスは二つ年下だというのに、まったく物怖じせずにルキアと張り合った。ずいぶん気安い様子が気になって、エマは自分が話題になっているということを忘れて首を傾げる。


「ねえ、どうして二人そんなに仲がいいの? 交流あるの?」


 私の知らないところで?――と不快になりそうになったエマだったが、二人が同時に冷たい目を向けたので不平を思わず飲み込んだ。


「今、誰のことについて揉めてるかわかってて、そんな呑気なこと言ってるのかな」


 とアリスが言い、


「しおらしく反省もできないのか。一体誰に似たわけ?」


 とルキアが言った。刺々しい言葉にエマが「さっきから、一方的に失礼なことばかり――」反論しようと口を開きかけると、


「とりあえず部屋に戻ってから話をしようか。そうだな。まず、どうしてこんな馬鹿な真似をしたのか説明してもらおうかな?」


 にっこりとアリスが笑って遮った。邪魔しないで――と文句を言おうとしたが、できなかったのは、彼の目がまるで笑っていなかったからだ。

 エマはこの優しい再従兄はとこが大好きだけれど、腹に何かを溜め込んだような顔だけはどうしても苦手なのだ。


(あああ、これは、久々にまずいかも)


 背中を一筋の冷たい汗が流れていく。

 いつだっただろうか。アリスのこの笑顔が、瞬く間に憤怒の表情にすり替わったのは。

 それは大抵エマが奢った時。そして身を危険に晒した時だ。つまり、今回は完全に当てはまってしまう。


 思わず後ずさるエマだったが、どしんと壁にぶつかった。

 壁がなんでこんなところに? と不審に思って振り向くと、背後にニヤリと不敵に笑ったルキアが立っていて、エマの逃亡を阻んでいた。

 それぞれに不気味な笑みを浮かべた彼らは、エマの脇をガッチリと固めたまま、彼女を部屋へと連行した。

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