第5話 果たし状と夕日を背負った青年

 その日、アリスはガサガサという葉ずれの音を聞いて外を見た。

 秋に入り、雨季を迎えたアウストラリスでは、樹木を揺らすほどの強い風は吹かない。窓から見上げると、予想通り、エマが窓から木に乗り移ったところだった。

 果汁の入ったガラスの器を慎重に置くと、かけたばかりの鍋を火から下ろす。飴作りは温度が肝要なのだ。焦がしてしまう。


 エマはアリスに会う時と同じように木を伝って降りてくる。「また愚痴か」と思ったアリスはやれやれとため息をつくと、飴の袋を持ち窓際に寄ろうとする。だが、ふと違和感に首を傾げる。


(こんな時間に降りてくるのって珍しいな。あ、宿題かな)


 日はまだ高く、一番西の尖塔の先をかすめたろころ。日暮れまで一刻はある。エマが降りてくるのは大抵夜が更けてから。夕食前というのは珍しかった。


 そう言えば、今日は授業でわからなかった事の質問をしに来なかったなと思い出すアリスの視界で、まとめた赤い髪が夕日に輝く。目を細めてエマの姿を凝視したあとに、アリスは目を見開いた。彼女が中庭に降りてくるとき、ドレスではなく、剣の稽古をするときと同じようなシャツにズボンという軽装をしているのはいつものこと。しかし、アリスに会うときに髪が束ねてあるのは珍しかったのだ。


(剣の稽古か?)


 目をしかめるが、逆光の上、薄暗くなっているため、視界がいまいち明瞭にならない。アリスは目を酷使したせいで視力が落ちているのだ。胸元から眼鏡を出してかける。明るくなった視界の中、よく見ると、エマの腰には剣は佩かれていない。

 

(気のせいか。そもそも、剣の稽古なら、堂々と正面から出ればいい。中庭に降りてくる必要がないし)


 気のせいかとほっとするアリスの目の前で、しかし、エマは途中で分岐した枝にぶら下がると、勢いをつけて塀の向こうに飛び降りた。


「エマ!?」


 予想外の行動にアリスは焦った。部屋着の上にガウンを羽織ると中庭に出る。だが、高い塀に阻まれて外にでることは出来なそうだった。エマを見習って木登りをしようかと一瞬思ったが、辛うじて冷静さを取り戻す。そして、自室に戻ると、見張りの衛兵を振りきって塔の正面から飛び出した。

 その勢いで中庭に接した塀のところまで駆けるが、エマの姿はもう見えなかった。


(塀を越えたってことは、見張りに見られずに外に出たかったってこと?)


 となると、エマの行き先を特定するのは難しいのではとアリスは顔をしかめる。

 王城に走っている道には要所要所で衛兵が立っているが、エマがそれを知らないわけがないからだ。

 そして、アリスの予想通り、衛兵に探りを入れても、尽くエマの姿を見かけていないという。となると、抜け道だろうか。


「どこ行ったんだよ――ああ、もう」


 大急いでエマの行動パターンを頭のなかで整理する。そして推理する。


(庭から出たってことは、衛兵には見られたくないけれど、僕には見られてもいいと思ってたってことだよね? じゃあ、兵には知らせたら、怒るってことか。あとあの服装で、剣を持っていないってことは)


「なんだか、いつになく無茶してないか?」


 そうつぶやいたアリスは、ふと記憶の隅を掠るものがあり、立ち尽くす。


『だって、逃げたら、怖がってるみたいで悔しいじゃない』


 瞼の裏で、ふくれっ面をした幼いエマがアリスを見上げて睨んだのだ。

 苛立ちを隠さないまま身を翻す。


(エマは、馬鹿だ。強さが仇になることだってあるんだよ)


 嫌な予感がして仕方がない。空を見上げると、西では尖塔が夕日を突き刺し、東では丸く白い月がのぼり始めている。

 


 *



 夕暮れ時の闘技場はガランとしていた。この場所は剣術大会など大きな行事が行われる時くらいにしか使用されないため、普段から人気がない。先ほど見回りの兵が去ったから、あと一刻は誰も来ないはずだった。


 それを狙って、ヘルメスはエマナスティを誘い出した。果たし状を出したのだ。勝負して勝ったら王位を譲ってやるという、あからさまな『口約束』。だというのに、なぜかエマナスティはやってきた。指定したとおり、一人で、剣も持たずに。


 石畳が敷き詰められた四角い演台に人影は四つ。一人は地面に倒されて呻いている。


「丸腰ならいけるって言ったのは誰だ」


 呻くヘルメスに、ミロンは「おまえだよ」と心の中だけで突っ込んだ。


「見くびらないで。本格的な体術はまだだけど、このくらい、最初の最初にお父様に習ったわよ?」


 そう誇らしげに応えるエマナスティの足下では、ヘルメスが足の間に手を挟み込んで悶絶している。青い顔で後退りするミロンをエマナスティは冷めた目で見つめてくる。

 エマナスティは一歩、二歩、とミロンに近づく。先ほどエマナスティの尖ったつま先は、狙い定めたようにヘルメスの股間に収まり、彼に砂を噛ませた。

 同じ目に遭わされると思うと、ミロンは全身から血の気が引いた。エマナスティは己を辱めようとした男に、躊躇も、容赦もしなかった。


「ミロン、エニアス、取り押さえろ」


 ヘルメスがうめき声で命じるが、どれだけ無茶を言うのだと思った。三人がかりで敵わないものを二人でどうしろというのだ。

 だが、ヘルメスは苦痛に歪んだ顔を根性で笑顔に変える。醜悪な笑みはミロンの頬を引き攣らせる。


「ミロン、おまえさっき手を緩めただろう。――俺が気づかないとでも思ったか? 裏切る気か? どうなるかわかってるだろうな」


 砂を吐き出しながら、ヘルメスが睨み上げる。

 血走った目を見て、これから陰湿ないじめにあうのが自分だと思うと、ミロンはぞっとする。

 エニアスがエマの腕に手を伸ばしながら「兄上の言うこと聞けよ」と促す。エニアスは、ヘルメスの手下の地位で得られていた恩恵を手放したくないのだ。

 だが、ミロンの考えは違った。退屈と卑屈を紛らわすためだけの関係。巻き込まれるのはごめんだった。


(共倒れとか冗談じゃない)


 と、怯んだミロンの胸に、エマナスティの声が刺さった。


「ミロン、あなた、どうしてこんなクズとつるんでるわけ? 男が集団で悪巧みとか最低。めちゃくちゃ格好わるい」


 真正面からの非難はミロンの胸を激しくえぐった。だが、うなだれそうになるミロンにエマナスティは微笑む。


「どうせつるむんなら、自分が尊敬できる人にしなさいよ。そうしたら、悪巧みじゃなくって、いい政策の一つでも出てくるんじゃないの。そっちのほうがずいぶん生産的よ」


 目を見開くミロンをじっと見つめたあと、はあああ、とエマナスティは長い溜息を吐く。そして今度は彼女の腕を握っているエニアスを睨む。

 汚いものでも見る目つきに、ビクリと全身を震わせたエニアスは慌てて彼女から手を離した。


「――それから、あなたもねえ」


 エニアスにエマナスティは向き合う。


「クズのおこぼれなんて、所詮クズよ。もっと美味しいもの食べたいって思わないわけ?」


 私が出すおこぼれのほうが絶対美味しいわ――エマナスティはそう言って魅惑的に笑う。


(もしかして……これは勧誘?)


 しかもエマナスティはかなり的確な餌を出した。退屈し、卑屈なミロンには刺激と名誉を。利益を追及するエニアスには美味しそうな餌の確約を。


 ミロンは思わずエニアスと顔を見合わせる。ヘルメスの下につくくらいなら、この小生意気な娘の下のほうがよっぽど楽しいのではないかと心をくすぐられたのだった。


(下を見るより、上を?)


 ミロンは平凡すぎて、自分で上にはいけない。だが、上を見せてくれるというのか。そう思った瞬間、ミロンは淀みきっていた世界に清浄な光が流れ始めるような気になった。


「おい、そいつらはおれのものだ。誘う気かよ、この淫売」


 汚い言葉を吐くヘルメスだったが、エマナスティは優位を知っているのか、負け犬の遠吠えくらいにしか思っていないようだ。


 どんと彼の顔の前につま先を下ろすと、ヘルメスの顔に砂がかかる。屈辱で頭に血が上ったヘルメスは、目の前の足首を掴み、バランスを崩したエマナスティをそのまま地面に押し倒した。


「寝技なら、身体が大きいほうが有利だ」


 いやらしく緩んだ顔でヘルメスがエマナスティを押さえつける。だがエマナスティは慌てず騒がず、地面からヘルメスを見上げるだけ。


 そして、ヘルメスを挑発するように言った。


「それ以上触ったら、今度こそ使いものにならないようにしてあげるから」


 一触即発だというのに、長いまつげで囲まれた大きな瞳は落ち着き払っていた。だが、彼女がまばたきをした次の瞬間、瞳は夕日を反射し、まるで血塗られた刀のようにギラリと光った。

 目だけで人を殺せそうだと思った。ミロンは思い出す。彼女が昔同じように三人組に楯突いたことを。

 ヘルメスはエマナスティをいじめ抜いた。身体に傷をつけたならバレるだろうからと、言葉で、態度でひたすら陰湿に。


 当時、エマナスティは剣も習わず、まったく力を持たない小さく弱い娘だった――はずだった。いじめて優位を示せばいいなりになると皆思っていた。だが、唯一といえるような武器で、刃向かったのだ。


 ――あの時の歯形は、未だに消えていない。


 ミロンは手首をさすり、体を震わせる。ヘルメスもそのことを思い出したのか、一瞬怯む。


「そ、そのへんでやめとけって」


 だが、ミロンの諫言はヘルメスの癇に障ったらしい。ヘルメスはむきになってがなりたてた。


「ほだされやがって。おまえもあとで覚えておけよ」


 ちっと舌打ちをした後、


「だけど、まずはおまえからだ」


 舌なめずりすると、ヘルメスはエマナスティの上に屈み込み、シャツに手をかけた。エマナスティが嘲笑い、ミロンは、ヘルメスは死ぬと思った。――と、その時だった。

 空気を裂くような高い音が響いたかと思うと、ガツンと石を割るような高い音がすぐ近くで聞こえた。同時にヘルメスがまるでバネでもついたかのように起き上がっていた。

 わけが分からず呆然としていると、ヘルメスが腰の辺りを探ったあと、突如失禁した。ぎょっとしてよく見ると、彼の上着に何か棒のようなものが刺さっている。


(は?)


 まるで縫い付けるように上着だけを貫いた木の棒。それがなにかわかった時、ミロンは腰が抜けそうになった。


「矢!? 危ないな――だ、誰だよ――?」


 エニアスが泡を食って尋ねる。


「何?」


 エマナスティが怪訝そうに起き上がる。その手に小さな短刀が握られているのを見て、そして彼女が「……切り取ってやろうと思ったのに」と呟くのを聞いて、ミロンはとうとう腰を抜かした。


 エマナスティはヘルメスに冷たい一瞥をくれると、周囲を見回し、目を見開いた。鉢状になった闘技場の一番上の客席。そこに居たのは、夕焼けと区別がつかないほど赤い髪をした青年だ。彼は確かに弓を持っている。何が目印だったのだろうか。逆光で顔は見えないというのに、エマナスティは名を呼んだ。


「もしかして――、あなた、ルキア?」

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