せめてあの子の命だけでも

三角海域

 クリスマス間近の街は煌びやかに飾り付けられ、道行く人だけでなく街そのものが浮足立っているように思えた。彼と彼女は、そんな街を並んで歩いている。

「眠れない夜があったらどうする?」

 彼女が彼に問いかける。彼は質問の意図を探るように彼女を横目で見た。

「別に深い意味はないのよ。ただ、ここ最近寝付けなくてね。おすすめの方法があれば教えてほしいってだけ」

 冬特有の刺すような冷たい風が吹いた。

「寒いわね」

 彼女は言う。彼は黙ったままだ。

「最近、特に寒くなった気がする。毛布にくるまっていても、震えるものね。芯から冷えるってこういうことなのかもしれない」

 彼女は着ていたコートの襟を立てる。

「いっそ世界そのものが凍り付いてしまえばいいのにね、アンナ・カヴァンの小説みたいに」

 彼女はそう言って空を見る。暮れかけの薄闇。日が沈み、星が瞬くよりは前の時間。

 彼は彼女の言葉に対しなにも返さなかった。だが、無視をしているわけではなかった。

 彼はどうしたら彼女が眠れるのか、その方法を考えていた。しかし、いい提案ができそうもないので、黙る事を選んだのだった。


 彼と彼女は、あるホテルへやってきた。

 街を彩る浮足立つ煌びやかさとは質の違う、どことなく高級感のある光に彩られている。

 フロントのあるロビーもまた、洒落た空気に満ちていた。 照明の色合いには温かみがあり、そこまで暖房を効かせていない割にあたたかく感じるのは、その光のせいかもしれないと彼は思った。

 彼は彼女をロビーに待たせ、フロントへ向かった。

「失礼。ロイヤルホールへ行きたいのだが」

 このホテルには、特殊なカードキーを使わなければ立ち入ることができないフロアがある。

 エレベーターの操作盤に差し込み口があり、そこにカードを差さないと対象フロアの操作盤が反応しないという仕組みになっている。

 スイートよりも上のランクの部屋で、ワンフロア丸ごとひとつの部屋という扱いになっていた。

 フロント係は一瞬だけ瞼をピクリと動かした。ささやかな動揺。だが次の瞬間には自然な笑顔を浮かべ、少々お待ちくださいと頭をさげた。

 彼は彼女の方を見てみる。

 彼女はぼんやりと噴水を眺めていた。

 ゆるやかに溢れ、静かに流れ落ちる水を、ただ静かに見つめている。

 あるいは、その水に映る「何か」を見つめているのかもしれないと彼は思った。

「お待たせしました」

 彼が視線をフロントに戻すと、先ほどとは違うフロント係が立っていた。

 ベテランというのが見て分かるほどだった。佇まいに不自然さがない。隙がないともいえる。

「ロイヤルフロアへのご宿泊をご希望とのことですが」

「ええ。お願いできないか」

 彼はそう言って、封筒を差し出した。

 フロント係は丁寧に封筒の中身を取りだし、内容を読み終えると、少々お待ちくださいと彼に告げ、下がっていった。

 今度はほとんど間を置かず、フロント係が帰ってきた。彼の前に、カードキーを差し出してくる。

「こちらになります」

「ありがとう」

 カードキーを受け取り、彼はフロントを去った。

「行こうか」

 噴水を見つめている彼女に男は言う。

 振り向いた彼女の顔には疲れの色が強くでていた。

「どんな魔法を使ったの?」

「さてね。俺も封筒を渡せとしか聞かされてない」

「得体の知れない大きな力ってわけ」

「使える力があるなら、使うべきだ」

 彼の言葉に、彼女は何かしらの意味を含むだろう笑みを浮かべた。だが、彼はその笑みの意味を問うことはしなかった。


 二人はエレベーターに乗り、カードキーを操作盤に差し込む。操作可能になったロイヤルフロアへのボタンを押す。

「これで眠れるようになるかしら」

 彼女が言った。それは彼に向けられた言葉であるのか、自らへ向けた言葉なのか分からず、彼は黙っていた。

 少しずつエレベーターは上昇する。

 彼は懐から銃と消音器を取り出し、銃口に消音器を装着した。彼女はちらりと彼の手元をみたが、すぐに視線を戻し、小さく鼻歌でクリスマスソングを奏でていた。

 ロイヤルフロアへ間もなく到着するというタイミングで、彼は彼女を前に立たせ、自らは正面から死角になるように壁にはりついた。

 エレベーターの扉がゆっくりと開く。

「こんばんは」

 彼女がそう言った直後、彼はエレベーターを出て、引き金を引いた。

 空気の抜けるような音に続き、数人の人間が地に伏せた。

 彼はまっすぐ正面に銃口を向けたまま、立ち尽くす。

 異常に気付いた他の人間が顔を出したのに合わせて、また引き金を引く。

「ここにいろ」

 彼は銃の弾倉を交換しながら彼女に言う。彼女は無言で頷いた。

 少しずつ歩を進める。銃は少しのぶれもなく、まっすぐ前を向いていた。

 息を潜め、静かに奥へ、奥へと進む。

 何かが動く気配がした。彼はすばやくそちらに銃を向ける。敵が飛び出してきたのはそれと同時だった。敵は驚愕を顔に浮かべたまま、額に銃弾を受け息絶えた。

 彼はそのまま、フロアを見て回り、もう脅威がないことを確認すると、エレベーターに戻り、彼女を呼んだ。

「済んだの?」

「ああ」

「そう」

 彼女は死体を見ても動揺しなかった。まるで視界に入っていないかのようにして、まっすぐ部屋の一番奥を目指して歩いていく。その先には、ベッドルームがあった。

 大きなベッドには、一人の女性が眠っている。

「綺麗でしょう」

 彼女がベッドに近づきながら言った。

「今まで色々な人を見てきたけど、この子より美しい人間を私は見たことがない。どの女優よりも、どの美術品よりも、この子は美しいの」

 彼女は眠っている女性の体を覆っているシーツを取る。

 腕や胸に数多の管が繋がれている。彼がベッドの下を覗くと、黒い機械が規則正しい電子音を小さく響かせていた。

「この子の命はそこにある。もうここにはないのよ。命も、魂も」

 彼女は眠っている女性の胸に手を置き、目を閉じる。心臓の音を確かめているかのようだった。

 しばらくそうしていた後、彼女はそっとしゃがみ、機械につながれた管を抜いた。

「さようなら、愛しい妹」

 心臓の音が完全に消えるまで、彼女はその手を女性の胸に当て続けていた。


「哀れよね」

 足元のおぼつかない彼女をロビーまで運び、フロントに「仕事が終わった」ということだけ告げた後、二人はホテルを出てすぐのファミリーレストランにいた。

「腹違いの子供を平気で殺せるようなやつが父親なのに、私はそれに反発しないでいる」

 大物政治家である彼女の父親が、彼の雇い主だった。妾と隠し子に多額の金を払い口を封じてきたのだが、ある時妾が政治家との関係を暴露すると脅迫してきたのだ。

 勝算があると思ったのだろう。金を餌に、多くの護衛も雇っていた。だが、相手が悪かった。

 妾は瞬く間に殺されてしまい、明らかに不審なその死は、事故として処理された。

 なにも知らなかった娘は生き延びた護衛と共になんとか逃げ延びたが、元々悪かった心臓病が悪化し、そのまま寝たきりになった。

 連中はあのホテルに逃れ、治療機材を持ち込んで娘の命をつなぎとめながら潜んでいたのだ。

 彼女は、政治家の実の娘だ。妾の娘とも交流があった彼女は、娘を始末するならば、自分も殺し屋と同行し、自分の手で終わらせたいと言い出した。

 政治家は困惑したが、あまりにも強い娘の意志に負け、同行を許可した。

「異常よね、何もかもが」

 彼女はうなだれながら言った。

「あの子は、美しかった。初めて顔を合わせた時、天使が天から落ちてきたのかと思ったくらい。美しくて、優しくて。私の手を取って、いつか私をお姉ちゃんと呼べるようになりたいと言っていたあの子を、私は殺した。助けようともせずに。だって、助けることなんてできないもの。父がいる限りね。私はあの子を裏切った。まあ、姉になる資格なんて元々なかったのだけどね」

 黙って話を聞いている彼の方を見て、彼女は言う。

「でも、他の誰かにあの子が汚されるのは嫌だったの。歪んでると思う?」

 彼女はしばらく彼の答えを待つかのようにじっと彼の目を見つめていたが、彼は答えなかった。

 彼女はそれからテーブルに突っ伏すと、もう何も言わなかった。


 どれくらいそうしていただろうか。もう大丈夫だと彼女が言うので、二人はファミリーレストランを出た。

 迎えの車をよこすように連絡をし、車が来るまで彼女と共に待つ。これで彼の仕事は終わりだった。

 駐車場に迎えの車が滑り込んできた時、彼は言った。

「ぬるめに温めたホットミルクに、ハチミツを一滴入れたものを飲みながら、リストでもショパンでもなんでもいいから、ピアノ曲を聞く」

「いきなりどうしたの?」

「俺は眠れないときにはそうする」

「もしかして、ずっと考えててくれたの?」

「そういうわけじゃない。ただ、自分はこうするというのを教えただけだ」

「律儀なのね。それとも、おバカさんなのかしら」

 そう言って、彼女は笑った。

 目尻に溜まった涙が可笑しくて浮かんだものなのか、悲しくて浮かんだものなのか、彼には分からなかったが、彼はこれ以上彼女の心に踏み込むつもりはなかった。

 彼女は車に乗り込み、それじゃあと彼に言葉をかけたが、彼は何も言わなかった。

 駐車場を出る前、彼女は後ろを振り返ってみた。

 もう彼の姿はそこになかった。

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