第36話 友だちを助ける夢
ほんの一瞬か、あるいは数分。身体から意識を離していた感覚がある……
そしていま、舞台に戻ってこれた。
妙な浮遊感が少しずつ抜けていく。額から汗が滲んでいたらしい。
手は、動く。足も。身体は動かせる。
息も……問題ない。
「ひなちゃん?」
声のした方に意識を向ける。
未羽が心配そうに声をかけてくるのが、泪でぼやけて映った。
こっちを、じっと見ている。
「疲れちゃいましたよね。休みましょう?」
「休んで……いい?」
「そうです。頑張ることから離れて……自分を許していいんですよ」
「許し、て……諦めても、いいのかな?」
「大丈夫です。諦めても。あたしと一緒に、気持ちを楽に」
未羽がにっこりと笑う。
私も合わせて笑顔を見せる。
くそ面白くもない茶番だな。
お互いが、ありもしない感情とセリフをなぞっているだけの。
あれは未羽じゃない。
不安げな声も、いつもの仕草も、癖も。
この身体。ずっと一緒に、感動してきた記憶があるから分かる。
作り物だ。作り物の演技。
その目は、未羽が私に向けるものじゃない。
それに……ここにいる私が私じゃなかったとしても。
JINプロのみんなが倒れているこの状況で。
未羽が『未羽らしくいる』なんてことは在り得ないんだよ。
偽物。それも本物に似せようとした――
悪意のある
「苦しみたいんですか?」
ぐちっ。
音が鳴るように口端が歪み、歯をむき出しにして
嫌らしいにやけた表情をみせる。
未羽らしくいることをやめ、異物が顔にわざわざ集まっているみたい。
思わず聞きほれてしまいそうな声で、セリフを続ける。
「人、人、人、と人を三回書く。指、鉛筆等は問わない。書く場所も不問。その後、井戸の井の字を人と書いた部分が中心に来るように描く。同じように人と三回書き、井の字を先ほどの井とずれるよう斜めに描く。その文字をなめる、あるいは息を吹き掛ける……」
ほほを伝う泪はすでに止まっていて、熱を失っている。
腕でぬぐう。やっぱり冷たい。
そう思える、そう感じられるのは別にいい。
透き通った泪から色が溢れ、指から腕、そして背景。
舞台上にいつもの色が戻ってくる。
大切なことは。
「――今の気持ちは? どんな気分か? 教えて欲しい」
「私? 私は……」
彼女の姿を捉える。
さっきまでのにやけた顔ではない、真剣な表情。
投げかけた言葉が、バッチリと決まっている。
私たちを覆い尽くしていたはずの、あの影と忌まわしさはどこにもない。
だが舞台に戻る前、こちらに一切攻撃をしていない。
今まで、なんで待っていた?
意味があるはずだ。
意を決して観念したみたいな顔。どこか待ち侘びていた表情の裏を。
読む必要がある。
みんな、舞台から降りてしまった。
本当に悲しくて、喪失感が心に広がっている。
このままではいられない。
かならず前に進む。つかみ取る。
残されたモノは、やらなくちゃいけない。
彼女の心理を読み、裏をかき、
この《しるし》付きの手のひらでタッチするか、
あの日記の《しるし》を触れさせることが出来れば、
彼女に憑りついていたモノを、檻の中へ一方的にぶち込める。
それを自身の経験から確信している。
彼女を助けたい。
みんなを、意味の無いものなんかにはさせない。
それだけは分かっている。
それが私の願いだから。
「思ったよりも……最悪で最低って、わけじゃない」
「そうか。七瀬あやねと同じ選択か……なら、今度は二度目だ。やりようがある」
《ちゃんと死ね! 人として!》
彼女の精神が、攻撃を仕掛けた。
後ろに隠していた影を使い、私の頭を狙う――
「……?」
お互い、まだ何も動いていない。
今……たしかに彼女の心を覗けた。
何を考え、呼吸を整え、踏み出した動作まで鮮明に。
人の形をした薄皮一枚隔てた内側……
真っ黒のもやが満ちているように詰まっていて、今にも破裂しそうな感じ。
それすらも見通せた。
彼女の後ろに、見え隠れしているモノも。
それはしっぽだった。
黒くて細長い、小さな小さな影。
まるでしっぽでも生えているように、ふりふりと跳ねて揺れている。
小動物よりも、小悪魔を思わせる形。
悪いことは見逃せない彼女の性格には相反しているが、
それが意外にも似合っている。
場違いだが、かわいさを感じる。
「ちゃんと死ね! 人として!」
「あ……」
彼女のしっぽ……その影が弧を描いて来る!
一歩引いた頭をかすめるように、上へ逸れていく。
さっき見た光景とまったく同じ……
考えも、呼吸も、踏み出しのキッカケさえも。
行動が先に読みとれた、としか言いようのないことが出来ている。
ほんの短い間の先を――
とっさに顔を上げる。
私の真上……照明が落下して迫っていた。
そして設置のために繋いだ部分が影で切断されているのが、
視界を覆う距離でようやく分かる。
『『危ないっ!』』
* *
目を閉じて、両手を前に出したが、間に合わない。
衝撃。すぐ耳に届く金属音。
……痛くない。
この暗闇が、命を断ち切られたもので無いことを信じて、そっと目を開けた。
彼女が佇む、その姿も。舞台の色も、変わっていない。
ただ彼女の前に照明が一つ、転がっている。
網戸に豆腐でも押し付けたような……
なめらかに潰れた形で、床に横たわっている。
彼女がやったのか?
「かいぶつめ……!」
彼女は忌々し気に呟いた。
もう一度心を覗こうと意識を這わせる前に、彼女の見ている方を向いた。
私のそばに、いくつもの輝きが緩やかに流れている。
「きれい……何これ? 星空みたい」
腕を振ると、マントを翻したように光彩の束が揺らめいた。
それは、私を構成する部品一つ一つの光だと理解する。
思い返せば檻の中も、かいぶつの振るう影も、わずかな輝きが在った。
誰かの部品のきらめきを、日野陽菜は夜空と表現してたんだ。そして陽菜はこの輝き一つ一つなんだと感覚でわかる。私の影から立ちのぼる青白い夜空。
ちょっとあふれ過ぎている気がするけど、このままで大丈夫なんだろうか?
「やはり間接的じゃあ、どうやっても殺せないな」
「そうなの? 影……ひなが守ってくれなかったら危なかった」
「キミはもう尾をのみ込む二匹のヘビだ。お互いに相食み、欠けた精神は補い合って循環する。部品は永遠に尽きない。無限に呪い、心を掌握し、影を伸ばして世界を喰い尽くすことだって出来る……そういう存在になってしまった」
彼女の身体に斑点が次々に生まれ、そこから黒いもやが染み出す。
身体が溶けていくみたいに濃く塗りつぶされていく。
動いていたしっぽが、ぐったりと項垂れて取り込まれた。
闇が広がっていく。
《照明を介していて、間接的で助かった。もし影を当てにいって、
反射で掴まれていたら……こっちが跡形もなく喰われていた》
「無限、ね。永遠に尽きない部品か」
「先に言っておく。押して押し切ってやる……心を覗いても、いくら深く読んでも無意味ダ!」
黒い泥の塊が、ごぽごぽと音を立て、徐々にはっきりとした形をとる。
さっきみた光景が脳裏によぎり、びくりと身体が震えた。
あの恐怖に耐えられる人間はいないだろう。
いるとしたら、よほど想像力が乏しいか、心を取り外せるかのどちらかだ。
『第九』の主役がそうするように胸の前で左手を握る。
手のひらには《しるし》が鈍く輝き、心の部品が集まって、星空を象る。
叶うなら――これからの行動に幸運と、キセキが在るように。
「かいぶつ。望み通りの形を作る、その輝き一つ一つを数えてみろ」
「……なんだって?」
「今まで利用してきた部品の数、押さえつけていた願いの数……そして、私の大切な人。ぜんぶ我がもの顔で使っていいものじゃない」
「知った風な口を叩くな。心を見透かしたくらいで!」
「分かるよ……これから分からせる!」
黒い影。彼女のまとう黒い輝きの中に、蠢くもの。
全てが際限なくはっきり見える。
その心。精神。魂の輝きまでも。
みんないる。かいぶつの精神に囚われ、組み込まれている。
私をよく知っている人も、そうでない人も!
影は、叶わなかった人の歯車ひとつひとつで出来ている。
かいぶつそのものが、ぜんまい仕掛けの人形みたいだ。
機械仕掛けの神。
いつか誰かに、劇にまつわるそんな言葉を聞いた気がする。
このばけものに。好き勝手されてたまるか。
物語の終幕は……絶対的な力を持つ存在が降り下ろすものじゃない。
《目の前のかいぶつと、同じように競うつもりはない。かないようのない舞台に引っ張りあげてやるよ! さあ行こう。此方から彼方まで、この輝きとともに!》
「天国でも地獄でもない。行き先は檻の中だ。帰れ!」
羽。足。尾。爪。
顔のないスフィンクスみたいな形。その全てが黒く塗り潰され、
ゆらゆらとした手のような影がびっしりと集まって出来ている。
巻き貝? みたいな、本来顔があるべき所が、徐々に開いていく。
徐々に、どんどん、みるみる、開いていく。
そして不意にただれるように歪んだ。
顔中を口にして。口中から牙が突き出す。
地に這いながら叫び声をあげる。
「ギオォォォォオオオッ! アアアァァァァ!」
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