第32話 タイトル ロール




「つぐみ……みう」


 私の耳にしか届かないくらいの小さな声。

 そのつぶやきが、自分のものだと理解するのに手間取った。

 遅れて、一気に感覚が戻ってくる。


 足元に薄い明りが点々と見えた。

 灯ったばかりなのか、徐々に明るくなっていく。

 床に貼られた蓄光テープ。青くて薄い袖明かり。


 それを認識して、私はいま両足で立っていることに気付いた。

 妙な浮遊感が少しずつ抜けていく。額から汗が滲んでいたらしい。


 二人はどこだろう? つぐみと未羽は。 

 床のかすかな光を頼りに、周囲を確認してみる。


「つぐみ! ……ああ、マツキさんも」


 すぐ近くにつぐみがいた。

 倒れている、というより寝かせられている感じだ。

 そう言えば……そうだ。つぐみはだいぶ弱っていた。大丈夫なんだろうか。


 松木さんは私の声を受けても立ったままじっとしている。

 私とつぐみに背を向けている形で、普段より少し上を見上げていた。


 松木さんがそばにいる。なら大丈夫。なら心配いらない。

 つぐみに手当や救命処置が必要だったら、とっくに始めているはずだ。

 立ち止まっているなら、きっといらない。慌てなくてもいいんだ。


「みう……」


 未羽も背中を向けて、やや離れたところにいた。

 両手をきつく握りしめていて、横顔から覗く口元は唇を噛んでいる。本当に悔しい時に見せる顔をしてる。公演前の配役発表で主役をあと少しのところで勝ち取れなかったときと同じような。

 戻ってこれたことの安心や無事を実感するよりも、悔しさを滲ませている。


「んっ……んん!?」


 あれ、なんだろこれうえええええっ!?

 血が! 私の胸に血……が?


 この色。この濡れた感じ。よく見たら、血のりだ。

 意識したら、中心部分がちょっとズキズキ痛む。

 血のりを仕込んだ何かがぶつかって、青あざが出来ているのかもしれない。


 刑事ドラマとか舞台でポケットや服の血袋を割るとき、強く叩きすぎてケガをする人がいるとかって話は聞いたことがある。けど、何でこうなっているのかは全然思い出せない。《檻の中》で起きたのかな? いや、あそこは真っ暗だったから、もしかしたら私が私を取り戻す以前になっていたのかも――


 だんっ!


 誰かが床を強く踏み鳴らした音。

 この音。やっぱり公演で使う劇場の舞台上だ。板と反響で確信した。

 そしてこの鳴らし方は紙谷さんだ。

 怒りとかじゃない。単純な足場を確認するような踏み鳴らし。

 そしてその音を私はよく知ってる。


「戻ってくる場所がズレたか? ……意図的にズラされたって方が正しいか。JINプロのレッスンルームなら、ミツの仕込みが使えたんだが。まあ、それは上手く出来過ぎだよなァ」


 私たちは帰ってきた。

 今まで、よく分からないところにいて……ここに帰ってこれた!

 明日、いや今日私はここに舞台の主役として立つ運びになっている。

 まだ現実感が湧いてこない。いろいろなことが起こりすぎているせいだ。


 《しるし》の導き。そうだ。思い出した。

 出口は誰かが強く思い描いた場所になる、だったっけ?

 誰かが、ここに来たいと一番強く願ったってことか。

 誰だろう?


 未羽は主役への復帰を願って、というのもおかしくない。

 むしろ初日初週以降は本来の配役で、っていうのも私は大歓迎だ。

 未羽は戻ってこれたんだから。

 つぐみだって『第九』をやりたいって言ったし、劇団に未練があったのかもね。

 私は最後に何を考えていたかな……もしかしたら、

 公演のことが気にかかって強くこの場所をイメージしたのかも。


 静かだ。


 私はいつも舞台が始まる直前、舞台と舞台袖のみんなを見る。

 続いて照明。音響。そのすべてがかみ合って、公演はうまくいく。

 私はその部品の一つ。まわりを動かすためにそれぞれが動く。


 それに、すべての部品は生きていて、動きの悪い部分を助けてくれたりもする。スポットのしぼり、間を置きかた。セリフ間隔や立ち位置を狭めたり広げたり。具合が悪い部品の微調整を、その場その場でしてくれる。

 私だけかな? そんな気になるのは。

 その時の緊張も、その時にしか味わえないもの。

 主役だったら、もっともっと楽しさや熱さ、感動とかするんだろうか。

 仲間たちや、見てくれた人達を同じ気持ちに出来るのかな。 

 どう演じれば――


「伝えてなかったことがある。……訳あって《檻の中》では言い出せなかったが」


 相原たか子さんが袖から舞台の方に入ってきた。

 この袖明かり、どうやらたか子さんが付けてくれたらしい。


。それもほぼ完全な形で。10年前、台本に書き残した《しるし》と……精神を失った誰かの身体さえあればな」







 *  *







 相原たか子さんはそう言ってつぐみの方を見る。

 私は、ただぼんやりとそのセリフを聞き、よく理解できなかった。

 意図は何となく伝わったが、現実的じゃないところで引っ掛かってのみこめない感じだ。


「そこに転がっている、早川つぐみに《しるし》から呼び戻した七瀬あやねの人格、魂といった方がいいのかもしれないが――それを閉じ込める。肉体はもう無いからな。人格の移植後は長い年月をかけて話し接していき……七瀬あやねとしての魂を定着させることは可能だった」

「それは……」


 それは駄目だろ。と続く言葉はのみ込んだ。


 《相原たかこさんは今言ったことを実行する気はない》

 でも、もしそうだとしても。

 私や未羽、松木さんが何か言わないと。もしそれがあり得たというのなら。ちゃんと否定しなくちゃ……大切なものはそれぞれ差はあるけど。私たちと松木さんが許すわけがないんだ。認めるわけがない。


「私は最後まで決断が出来なかった。私の迷いと、いくつかの偶然が重なるうち、それを実行する瞬間も伝える機会も永遠に失ってしまった……」


 ――すまない。

 すれ違うように松木さんの横に立ち、力なく座った。

 普段からすれば相応しくない、弱々しく許しを請う態度。


 私も、たか子さんも。……たぶん舞台上にいる全員が松木さんの言葉を黙って待ったが、松木さんは何も言わなかった。 突っ立って舞台の照明らへんを見上げているだけだ。


「なあ……きみならどう答えた? 手放しで喜んだか? 協力したか? それとも妨害するかな。価値観や道徳なんて消し飛んだこの状況で。選択肢が急に与えられたのなら……私は今さらひどい話をしているな。本当に」


 七瀬あやねさんが台本に描いた《しるし》、そこから本人の魂を呼び出す。

 松木さんはそれに成功はしていた。 あの時自宅で松木さんが抵抗しなければ、身体を乗っ取られるか人格が混じり合っていたのかもしれない。

 私にも似たような覚えがある。


 松木さんなら……

 俺の試したやり方はそう遠くなかったんだな、と小さくつぶやいて。

 そして、あの時の《かいぶつ》が七瀬さんだってことをあっさり認める。

 つぐみがどうなるか、記憶や人格がどうなるかなんてことは言わない。


 でも、たか子さんが提案したことをきっと望まない。

 泣きそうな顔で。そう思ってそう言う。

《心を覗く》なんてしなくても確信がある。


「……」


 何も言わない彼の姿を見る。

 どうしたんだろう? 無言で肯定しているってわけじゃない。  

 ただ、それよりも優先する何かがあるに決まってる。

 そうでなくちゃ、この間は意味を持たない。私やみんなに余計な不安を抱かせるだけなんてこと、わざわざする人じゃないんだから。 


「結局、七瀬あやねを失った時と変わらない……同じ結末だ。いや、過去を踏まえてもこんな場面にしか行き付けなかった。私の努力不足が招いたことだ」


 やるせない顔を袖明かりに照らしたまま自嘲を続ける。

 私はその背中を見ていたが、ふと松木さんが見上ている方を追った。

 這い寄ってくる悲しみや理解が。

 そして暗い感情が追い付くまえに、私はそれを見た。


 舞台中央。

 サス照明の下あたり。床の明かりの先が微妙に揺れている。

 ろうそくなら分かるが、たとえ舞台上に風が吹いても動くはずはない。


 《ゆらぎ》だ。あまりに大きかったから、気づけなかったんだ。

 私たちは檻の中からこれで帰ってきたんだろう。

 舞台ごとのみこんでしまえるような規模の《ゆらぎ》 

 それがいまだに消えずに残っている。


 ……そういえば。

 相原たか子さんはあのしるしが描いてある日記を手放していない。

 ――呪いはまだ解かれてない。


 舞台の幕がはためく。

 幕は開かれているから、正しく言えば《ゆらぎ》が波打った。

 少し間を開けて二度、三度。回数を増すごとに大きく振動する。


「ひっ……」







 かちり。かちり。かちり。……止まって!







 空間からたくさんの手が、他の手をつたって垂れ落ちていく。

 続いて口が。耳が。鼻が。不規則に伸び縮みして間隔を変えながら漂う。

 目がびっしりとくっつきあって、まるで何かの果実のように見える。

 数えきれない人。その身体をバラバラにして部位ごとに接着したような……

 それらが《ゆらぎ》から染み出し、ゆっくりと形を変えていく。


 青白い手はしだいに土気色から黒く。

 口は耳と鼻を食いちぎり、無数の泡か風船のように膨らみ続ける。

 すべての目がピンとこちらに向き――観客の視線が舞台に集まった時よりも迫りくる、奇妙に統率された例えば海の小魚の群れが一斉に身を翻した時みたいなそんな集合体が、ざらざらと弾けて溶け合っていく。

 やがて泡にも炭のような色が移り、粘り気のある煙に姿を変えた。


 空間の波打ち。濁りの浸食から来るもの。

 私の友だちを檻の中に閉じ込め、精神を砕き閉じ込めているもの。







 黒いかいぶつ……《人をのむ呪い》がそこに在った。





 


 私の精神に一生消えないほど刻まれた、濃くて見通せそうにない煙の姿。

 形を無理に想像するなら、一つの腕と一つの頭がある姿が近い。

 叫ばずに、狂わずに、直視できたのなら。

 

 私の中の歯車が軋んで外れながら、恐怖を止めてくれた。

 そうでなかったら気を失っていたか、頭がおかしくなっていた。

 

 舞台演出で使うローフォグ……スモークが意思を持って広がるようだ。

 巨大な水槽を泳ぐように頭と腕を振るわせて、《ゆらぎ》からさらなる無数の手――が現れて虚空を掴もうとする。またもう一つ。黒い塊がしたたり落ちようとしていた。


「では責任をとるとしよう」


 ぴしり。

 その動きが瞬時に固まる。

 《ゆらぎ》の境界がはっきりと見えていて揺るがない。

 かいぶつは手や腕、顔を動かそうと身じろぎするが、抜け出せないままだ。


 相原たか子さんの声。

 見れば何か集中して日記のしるしに手をかざし、呪いに干渉している。


「こちら側に来ることは分かっていた。《檻の中》のプランはすべて失敗したが、まだ出来ることはある。このまま固定して、今まで囚われていた部品と精神を吐き出させてやる。それでようやく私は……!」


 ぎゅっと境界が濃く狭まり、かいぶつは苦しげに身体をふるわせる。

 その燻ぶった煙が飛び散って離れると、大した光源もないのに輝いてから溶けて無くなった。まるで……夜空の流れ星だ。普通のと違い、空へ昇るようにキラキラと流れていく。

 



 その場面はなぜか、

 私の心臓を締め付け、引き裂かれるような苦しさを感じさせた。





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