第20話 声

 



 ママはいつも、公演前の夕食に私の好きな物ばかり作ってくれる。

 私がどんな役になった時も。

 それがプレッシャーに感じてしまうこともあったけど、嬉しかった。

 今日もきっとそうだ。少しだけ特別な日にしてくれて私を待っている。


 もう私にはその味を確かめられないけど、思い出すことは出来る。

 小さい時からずっと食べていた料理で幸せの記憶と一緒になっている。

 『おいしいって顔をママに見せる演技』くらいは、してもいいはずだ。

 

 だっておいしいに決まってるんだから。







 *  *







 家に帰る前に松木さんと連絡を取りたかったが、まだ繋がらない。

 舞台練習に熱が入っているのだろう。

 

 JINプロの役者が調子を外したり噛み合わないなんてことは想像できない。

 完璧な場面、間の取り方、セリフを積み重ねてなお、これでよかったのか、

 どこか違うんじゃないかって前提を崩し、また構築していく……

 自分のささいな違和感を探し続けて、挑戦し成長し続けられる。

 そんな舞台の怪物たち。同じ人間とは思えない変態集団だ。


 JINプロの稽古場まで行くのは、ちょっと図々しいかな。

 松木さんにも迷惑がかかるし止めておこう。

 帰り道、そんなことを考えながらバス停で待っていた。

 中々バスが来ないので、カバンから日記を取り出して開く。


 《模様》の描いてある次のページに、少し長い文章がある。

 昨日の時点で見つけていたが、気味が悪いので詳しくは読まなかった。

 未羽やつぐみの字じゃない。……覚えはないけど私の手が書いた文字だ。


 《模様》の横にある走り書きとは違って、こちらは丁寧に書いてある。

 読書感想文の清書のようにきれいだ。

 記されていた内容は《人をのむ呪い》についての推察。

 そして、違和感を抱いた人間を信じるな、という忠告。


 ――信じていいのか?

 私の体を好き勝手にしてくれたこいつを。


 分からない。

 この文字自体が罠で、取り返しのつかない事態に向かわせているのか。

 ただ一方で出来る限りを尽くしてくれているとも感じる。

 私がいない間、私を動かした誰か。

 今さらながらショックを受けている。この文字を見てそれを再確認した。


 松木さんや光さんは、私の異常に気付いている。

 いくら普段通りを装ってもそれは演技だ。

 私をよく知る、芝居に長けた人が見れば一目瞭然のレベルだろう。


 図ったようなタイミングで、松木さん専用の着信音が鳴る。

 携帯に触れるようになったのかな。


『……ひなか。どうした』

「マツキさん。いま練習終わったんですか?」


 いや、と否定した。――やけに周りが静かな感じがする。

 人の気配が無い。昨日の店やスタジオにいれば音で何となく判断はつく。

 あるいは、レッスンルームか喫煙スペースで電話しているか……


『練習を早めに切り上げてな。残ったみんなにゃあ悪かったが、家にいるよ』

「そう、なんですか」


 稽古よりも重要なことなんて、なにがあるんだろう?

 たとえこれ以上ないって会心の芝居が打てたとしても、それは個人の話だ。

 途中で帰ればその役の穴を意識しながらの練習になってしまう。

 そんな中途半端で不義理なことを、松木さんがするかな?


 いつもなら気にもならない松木さんの挙動……過敏になり過ぎているみたいだ。


「何か聞きたいことがあるんじゃないのか?」

「えっと、その、周りが見えなくなったり、聞こえなくなったり、食べるものの味がしなくなる……そんなことが、いつから続いてるんですか?」


 思いがけずカマを掛けてみるような聞き方になってしまったが、確信がある。

 松木さんも私と同じ《呪い》を受けていること。それもかなり長い間だ。

 おそらく十年前のどこか。

 仲間はいなくなり、光さんは記憶を閉ざされ、松木さんはずっと孤独に戦っていたんじゃないか? 常識の範疇で調べたり聞き込んでも、やがて限界がくる。

 この世の理に無いモノを信じて認めない限りは。


 しばらく考え込んでいるようで、松木さんは黙っている。

 頭をかき、小さくうなっているのが聞こえた気がした。


『……俺を疑っているのか?』

「違います! 心配で……」

『もう時間がない。そう思ってるだろう?』


 急に声と顔と意識がぴったりと迫ったような錯覚。

 松木さんが垣間見せる、本来の鋭さと遠慮の無さ。


『焦っているもんな。たしかに俺のケースとも少し違うようだ。人格の混ざり具合か、無意識に呪いを使い続けている状態なのか……。俺は《しるし》さえ手放さなければ、少なくとも十年は保ってられた。他人から少し変人扱いされちゃあいるが。その程度の欠落で済んでる』


 似た境遇だと私を認めて、自分を演じている仮面を外してもなお、松木さんらしさは残っている。いつもの軽口。過去の体験を振り返って、何か役に立つことを伝えたい。そんな身近さと親しさはそのままだ。


 私はその変化と、代わっていない部分に戸惑いを感じながら、こちら側の世界に松木さんがいることを心の底から感謝した。着地点の無い、暗闇に浮かび続けているような不安を持っているのが自分だけでないことが、どれほど救われるか。


『心配するな。……必ず、助けてやる』


 ああ、松木さん。

 心に光明が差すというのは、きっとそんなセリフをこんな場面で言われたら感じるんだろうな。あるいは私が日野陽菜の感情全てを持っていたなら。

 電話越しで、顔も分からない。声だってはっきりと聞き取れるわけじゃない。

 でも分かる。相手が松木さんで、今の私だからこそ分かる。


 ――噛み合ってない。わずかにずれてる。

 

 私に向かって言っていないという意味では、独り言に近い。

 思い違いならどんなにいいか。さっき感じた身近さが、はるか果てのようだ。


『すまない、ひな。もう少しはやく電話に気付いてりゃ良かったんだが』

「どうしたんです?」


 私の声に反応は無い。

 息が漏れて、震えている。それが少し遠くから聞こえた。

 他のことに意識を持っていかれて、携帯を耳から離したみたいに。


『ああ、違うじゃねえか。来やがれ……ぎっ、ぐぅ』

「マツキさん?」

『てめぇが! ああああっ! くそがっ……このくそがぁああ!』


 魂を絞り出したような叫び。

 重たいものが跳ね飛ばされ、ぶつかった音。小さなうめき声。

 聞いたことの無い何かが破れた音がした瞬間、電話は切れた。


「マツキさんっ!」


 繋がっていない携帯に向かって、思わず同じ言葉を繰り返す。

 落ち着いた手つきでもう一度電話を掛け直し、コールを待つ。


『お掛けになった電話は、電波の届かない場所にあるか、電源が入っていないため……』


 携帯のアナウンスが流れる。

 私は走り出していた。ようやく着いたバスを横目に。

 そう言えば待っている間、あんな大声を出して話していたのか。

 周りの人はきっと迷惑に思ったことだろう。本当にいよいよだな私も。


 松木さんは家にいると言った。家で何かあったんだ。

 単純に電源を切った感じじゃない。誰かが訪問した?

 それとも《呼び出したもの》に引き込まれた? それで、床に落とした拍子に携帯が壊れたか――奇妙な表現になってしまうが、携帯は電波の届かない場所に移動した、ということもあり得る。

 つまり、向こう側の世界へ。

 

 急げ。松木さんはまだ家にいるかもしれない。 

 思いつく限りの可能性を考えながら走る。




 *  *




 電車から降りるまで、松木さんの身に何が起きたのかを思考していた。

 

 つぐみや未羽のように、誰かが《かいぶつ》を送って消そうとしたか。

 あるいは《模様》から自分で呼び出したか。

 どちらだとしても、松木さんはもう消えているのが前提の結論だ。

 でも急ぐ。まだ死……生きてる。絶対に。最悪の可能性は考えない。

 そんなこと考えない思わない!


 つぐみの家に訪問した時、松木さんは車で自分のアパートに寄っていた。

 以前、松木さんが忘れ物をした時、三人で届けに行ったこともある。


 つぐみが、何かと理由とつけて家に行くことへ誘導していたのは微笑ましかったが、私もすんなり同意して向かったっけ。そんな前のことじゃないのに、思い出すのに時間がかかった。たしか、家で何かしていて騒がしく、忘れ物のタオル? とかを渡すという目的だけを果たして帰った、で合ってるよね? ……急には思い出せないなその辺は。


 とにかく松木さんの家について、全く知らないわけじゃない。


 夕闇が迫り、方角や街並み、いくつかの記憶の断片を頼りに駅から走り続けた。

 回り道や一つの迷いもなくアパートに到着したのは、奇跡といえる。

 ここまで……三十分も経ってない。


 部屋の前まで来た。松木の表札。ペンで素っ気なく書いた字。

 誰かいるかもしれないが、ノックした。

 松木さんならいい。だが、松木さん以外の誰かがいたら……


「マツキさん? いますか? マツキさん!」 


 物音は無い。 

 ドアノブに触れて、ゆっくりと回してみる。

 鍵はかかってないようだ。開けば入れる。


 返事がないことに対して、いくつかの仮定が浮かんでは消えてゆく。

 松木さんの意識がない。

 この場所にいない。

 誰かが息をひそめている。

 《かいぶつ》が私を待っている。

 誰かの罠。


 でも、ここまで来たんだ。確かめるしかない。

 堂々と不法侵入して松木さんに謝る。そうなれば一番いい。


 遠慮なくドアを開けた。電気は付いたまま。

 外からも注意深く見ればわかったはずだけど。今の私には無理だ。

 玄関、台所。ともに散らかっている。靴も。

 流しは比較的キレイだが、タオルや容器が出しっ放しになっていた。


 ……自分を失っていれば、つぐみや私みたいに部屋の状態はこうなる。

 しかし、ものを片付けられない人というのも存在する。松木さんはどうだろう?


 その横がトイレ。半開きになっているドアを身構えながら開けてみた。

 ……お風呂と一緒になっているタイプみたい。空の浴槽が見える。

 何て名前だったかな。なんとかバスってやつ。

 

 少し遠回しに、自分の受け入れがたい可能性を一つ一つ潰していく。

 といっても、もう奥のリビングしかない。部屋の全体が分かる。


 ――男の人の部屋の匂いがする。汗とかの。それに混じって、血の臭い。

 衝動に突き動かされたように身を乗り出した。

 机。にパソコン。本やファイルの棚。

 椅子が座るにしては不自然な位置にある。背もたれの向きもおかしい。


「ああっ!?」


 椅子の下、長袖のシャツがあった。

 苦しさのあまり倒れた、と思うくらい痛々しげに横たわっている。

 盛大にワインでもこぼしたくらいの量、真っ赤な染みで染まっている。

 それはまだ乾いていない、ひどい出血の跡だった。


 かちり。がちッっ。


「うう……ぐっ」


 ――おちつけ。

 胸に手をあてて内側の軋みをこらえる。

 落ち着くんだ。


 神経に紙ヤスリを当てているような感覚はあるが、考えることはまだ出来た。

 ……松木さんはいない。ここにあるのは松木さんがたまに着ている長袖だけ。

 まだ最悪って場面じゃないんだから。


 机には点けっぱなしのパソコン。

 そして、忘れもしない。あの《模様》の描かれた紙があった。

 模様の外側が少し濡れたみたいに光っている。

 描かれているものはともかくこの用紙には見覚えがある、たしか……


 カバンから松木さんに借りた台本を取り出す。

 比べてみれば背表紙のちぎっていた部分と一致した。


 ……七瀬あやねさんのものだ。名前も裏で透けて確認できる。

 彼女が描いたものと見て間違いないと思う。

 この《模様》の描かれた台本を残し、消えてしまったんだ多分。

 そして、松木さんはこれをずっと大切にして預かっていた。


 長い息を吐く。精神的な痛みは大分まぎれてる。

 推測だが《模様》に水をにじませた場合。描いた本人を《向こう側》から呼び寄せるんじゃないかと思う。私が今夜試そうとしたのもまさにそれで、描いたのが未羽でもつぐみでも引っ張りあげれられないかと考えていた。

 でも、七瀬さんは十年間行方不明だ。《向こう側》で生きているのかどうか? 

 松木さんは、それを確かめたかったのかもしれない。


 長袖の右側、特に血がたくさん付いていて、途中でずたずたに裂かれていた。

 床にも血は落ちていたが、乾いている。

 無造作にこの長袖で拭ったらしい。床と服で似た血痕があった。

 そして、脱ぎ捨てられたまま畳まれてもいない。 


 ふうう、ともう一度長い息をつく。

 よく見れば台所にはタオルの他に、テーピングや消毒液の空の容器があった。


 ……誰かが来たわけじゃないな。証拠隠滅なんて少しも考えてない感じがする。

 自分の意思で《模様》を使って試したんだ。さっき、私と同じ理由で。

 たぶん松木さんは、描いた人を――


 玄関の方、ドアが急に開いた。

 ここからは見えないけど、遠慮なしで不用心な開け方が音で分かる。

 絶対に松木さんだ。松木さんならそうする。


「……あやね?」


 きっと私の靴を、別の誰かの靴と見間違えたんだろう。

 今まで一度も聞いたことの無い、親愛の込められた声。

 思いがつまった、大切な人を呼ぶ声。


 それは優しげで懐かしさを滲ませていて、

 私の心に充分な亀裂を走らせるものだった。




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