第21話 記憶
「マツキさん」
「おお! ひなか。わざわざこっちまで来てくれたのか。すまない」
「……その腕、どうしたんですか?」
「こんな傷たいしたことは……あるのかな」
腕を振り上げた途端『激痛に耐える表情』をこちらに見せた。
はじめて大怪我を負った戸惑いのようなものもわずかに読み取れる。
思わず声をあげてしまった。右の手首から肘の近くまで、皮が剥げている。
そう見えているだけで、皮ごと形が崩れて潰れているのかもしれない。
どうやったらこんな……こんなひどい傷になるんだ。
私ほどじゃないが、松木さんの舞台公演も迫っている。
素人目にも演技に支障が出るどころか、降板と判断される重傷だろう。
「ケガの手当て……用意が無くてな。タバコと一緒に買って来たんだ」
ビニール袋からタバコや包帯、抗生剤? を無造作に取り出す。
床に座り、傷口を改めて眺めると顔をしかめた。
「水で流した後に、無くなるまでありったけ軟膏を塗りたくって血止めをしたんだが、包帯が見当たらなくて困ったよ。さすがに布ガムテープじゃな……アレだろ。まあぐちゃぐちゃに見えるけど、見た目よりはそんなに傷は深くないんだ」
本当に? 演技してない?
ぐちゃぐちゃの部分が傷の手当のことなのか傷そのものを指しているのか、はぐらかしてるように聞こえたけど。たしかに腕には大量に軟膏が塗られていて、照明の下でにぶく光っていた。傷の保湿には一応なってるのかな。
「あとは包帯巻いて、痛み止めと抗生剤でも飲んでおくよ」
「私がやります」
「ああ、いや別に」
「やります」
「……頼む」
観念して、松木さんが右腕を差し出す。
包帯を巻くだけでいいのか? もう一度消毒からした方が適切?
流しにある消毒液の容器はまだ少し残っているようだ。
軟膏は全部使っているみたいだが。血は固まり始めているし下手に軟膏を洗い落として処置しなおすのは避けよう。
じゅくじゅくした血と液が、透明な軟膏の下に混ざっていた。
乾燥させずに治すならこれでも良さそうだが、傷が大きくて深すぎる。
……細菌や感染症は? 市販の抗生剤だけで足りるのか?
もっと専門的な薬を処方してもらった方が絶対にいいはずだ。
ひとまず軟膏の上に保湿シートを張り、次に包帯を巻く。
「……へえ。上手いな。手際も、結び方までちゃんとした応急手当って感じだ」
「今からでも病院に行った方がいいですよ」
ママに教わっておいて良かった。その職業にも感謝。
あ、そうだ。ママにも電話しないと。そろそろ陽が落ちて心配する時間帯になっちゃう。考え事の隙間をぬって、絞り出すように苦し気な声が聞こえた。
「昨日、ひなが腕と首をケガしてたろ。本当はすぐに気が付いてたんだ。俺と同じ《しるし》の影響を受けてるってな。机の……そこにある《しるし》は七瀬が描いたものだ。つい最近まで、これが意味することさえ知らなかった。未羽やつぐみが居なくなるまでは。そこからはあっという間だ。十年前に想像も付かなかったことが、どんどん埋まっていったよ」
それを全部認めるってのが大変だったけどな、と松木さんは呟く。
世界中で他ならない私だけが、常識を超えたものを受け入れるという辛さを共有できる。だからこの人は心の内をさらけ出したんだ。私に、聞いて欲しくて。
思えばずっと孤独だったのかもしれない。どれだけ劇場に来てくれる観客がいても、劇団の仲間に慕われても《呪い》のことは打ち明けようがないんだから。
「そしてさっき《しるし》を使って呼び戻しできるかどうか試してみた。だが出てきたのは黒い影のバケモンだった。俺は抵抗したが、てんで歯が立たなかった。そいつは俺の腕と袖を引きちぎると、突然戻っていったよ。俺を消すならそれも出来たはずなのに……ああ、どっかに引っかかったのか、携帯も向こうに持ってかれたらしい」
息をのむ。
つまりそれは、七瀬あやねさんが世界の裏にも表にもいない、という証明だ。
……描いた人を呼び寄せるという前提が合っているならだが。
「その台本な、あの日七瀬が忘れていったものなんだ。《呪い》の影響がかなりあったってことだろう。でなきゃそんな大ポカするはずねえし。俺は、何にも知らなくて……次の日の本番前に茶化しながら渡してやろうって、思ってた。でもあいつはいなくなって、今日まで返せてない」
松木さんは部屋の壁に寄りかかっていた姿勢を崩し、力無くうつむいた。
覗き込めばどんな様子か分かる。でもしなかった。
ある種の感情が沸き立っている。水を入れた器が落ちて砕ける寸前のような。
「帰ってきてくれよ……目の前で俺に言ってくれ。全部嘘だって!」
叫び声で、お互いの顔が歪んだ。
――どんなに知ろうとしたって、他人の痛みが実感できるわけじゃない。
言葉や表情、その時の状況で察し、自分なりに分かった気になるだけだ。
痛みを読み取るなんてことは、誰だって無理なことで。
それでも分かってしまう。
この近さ。似た境遇。劇団で一番見つめ続けた姿。
私も消えてしまったから。
私もそれだけは無くなってほしくないものだったから。
__そして心を覗く《呪い》が。
松木さんと同じ感情を引き起こし、同じ気持ちにさせる。
……なんで大切な人が傷ついているのに、何もしてあげられないんだろう。
どうしてこんなに、分かるだけなんだ。
寄り添ってみても、どんな言葉をかければいいかまるで何も思いつかない。
「信じたくない。本当はタチの悪い冗談で、どこかにいる。そんな思いが、ずっと消えない……。なにもかもにあいつの跡がある。仲間うちで悩んでいる奴がいたら、俺がアドバイスしてやる前に声が聞こえたり、舞台袖で準備してる姿が見えたり、稽古じゃ隣にいるような気がいつもしてる!」
なりふり構わず払った腕が壁にぶつかった。怪我した手なのに痛がりもしない。
もう、松木さんは物が正確に見えていないのかも。
痛覚もだいぶ鈍くなってきてる。――今の私と同じだ。
「……分かっているのに」
涙を拭きもしないで、頭と心が反発しあっているような気持ちを吐きだす。
ここまで不安定でゆらいでいる松木さんを、きっと誰だって見たことがない。
「受け止められないんだ……。それがさっきひなの靴を見て思い知らされた。これから先どれだけ待っても……あやねに、もう会えないんだってこと。十年経った今も……」
それきり音もなく、声をあげずにただ涙が頬を流れて落ち続ける。
松木さんは真相に迫り、突き止めた以上は確かめずにはいられなかったんだ。
私も《呪い》なんてものを知らなければ、
ずっと劇団にいて、未羽とつぐみが帰ってくるのを待っていたに違いない。
この人は十年間、七瀬あやねさんを待っていた。
いいも悪いも全部考えながら、帰ってくることを望んでいた。
一度も泣かずに。
泣き方は不器用で、私と同年代の子みたい。
理解を超えたものと関わって、今まで気持ちの整理もできなかった。
……本当だったら、もっと早く涙を流せたのに。
手を寄せて、ゆっくりと松木さんを抱きしめる。自然と体がそう動いた。
誰かの痛みを知った時、せめてその傷に触れないように。
* *
「……んっ」
息が漏れる。胸がくすぐったい。
松木さんが何か言って、頭を擦り付けるように動かした。
もちろんそれの意味するところは分かってる。
私は素直に受け入れて、両手の力を緩めた。
触れている部分、ほんのわずかな私の隙間に松木さんの顔がある。
改めて自分のしていることを考えながら、手で撫でてあやすように動かす。
こういうのは悪くない。けど、
心が落ち着きすぎてるというか慈愛とか大らかさとかまるで母親になってしまったような気持ちがするのは何とかならないかな。
そんなきれいな感情じゃなくって、こう……次をもっと欲しがる気持ちが、あってもいいのに。
松木さんの言葉は感謝を伝えるものだった。
つまりこれ以上を望んでいないってことで、気持ちの整理ができて立ち直った。
……そういうことになる。
「もう夜だ。車で送る」
目の前。すごく近いのに距離を感じた。
私と松木さんの間にさっきは無かった隔たりがある。
「運転は……あの、怪我してるじゃないですか」
「こっちの手はハンドル添えるだけだし、あんまり影響ないんだよそもそも」
片手でも車は運転出来るから、みたいなことを言われる。
確かにそうなのかもしれない。
でも私にはもう一つ、気にかかって不安なことがある。
松木さんの感覚。
その欠落はどれくらいなんだろう。特に目が見えているのかどうか。
聞こうと口を開きかけて、止める。
私に危険が及ぶような運転しか出来ない状態なら、送れないと言うはずだ。
なら今のところは、人並み程度の状態を保てているらしい。
さんざん泣いたあとだから、目が真っ赤だけど。
「痛み止めとか、薬を飲んどくよ。軽い準備をしてから行く。ひなは親御さんに連絡しといてくれ。もうすぐ帰るってな……あ、着替えるから一旦外に出るか、どっか向いてた方がいいぞ?」
それだけ言って、こちらのことをお構いなしに服をポンポン脱ぎだした。
誘導された形で玄関から外に出る。
まあ、ケガもしてたし着替えは必要なのは分かる。
ただ無理にでも元気にふるまい、自分らしさをまとっている感じに見えた。
ドアに寄りかかると、台所当たりで、松木さんが色々と物色する音が聞こえた。独り言もつぶやいている。――薬の箱か説明書きを見て、服用後に眠くならないかどうかチェックしてるみたい。声が大きくて、聞こうとしなくても耳に届く。
松木さんの用事が済むのを待ち、携帯で電話をかける。
今から帰って、夕食の時間を少し過ぎるくらい?
門限は決まっているが、連絡を入れればウチはだいぶ融通の利く方だ。
……でも、心配はしてるだろうな。
「あ、ママ? ……電話かけるの遅れちゃって……うん」
やっぱり心配してくれてた。
着信が無かったのは、前日リハが長引いてるって思っていたようだ。
「……うん、劇団の仲間がさ。不安になっちゃってて……そうそう。
未羽のことも関係ある。……私? 私は平気」
ママに嘘をついたことは、ある。思いやりの嘘を。
騙そうとする嘘は今まで生きてきて一度もついてない。
そんなこと思ったことも無い。
家族を騙して、得るものや優先するものなんてこの先あるのかな?
仮に考え付いたとしても、それを実行できる人は、きっと悪い人だ。自分勝手で、欲張りで、いきあたりばったりで、言い訳ばかり出てくる悪い人。
「それで、今夜はこっちに泊まっていこうって。急だけど。うん……うん。
明日の準備は出来てるし。……ごめん。いつもありがとう。ママ」
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