第18話 鉄の心じゃいられない




「……」

『ひな? ……どうした?』


 松木さんに電話を掛けたが、声が出てこない。

 ベッドのすみで、タオルケットに包まっている。

 こうしたまま一時間は経ったが、少しも体の震えは止まらなかった。


 濁った空間の向こうに未羽とつぐみはいる。私も、そうなりかけた。

 あの模様。《かいぶつ》という門番さえどうにかできるなら、二人を助けに行くことも可能で――劇団の主役をやり遂げるよりも、私にとっては大切なことで。

 自分にごまかしなんて無くそう思っている。そのはずだ。

 でも怖いんだ。


 ……あの腕が、私の身体以外の全てを奪ったみたいに、感情や気力を削られて気持ちが奮い立たない。さっきのことが夢だったように距離を感じてしまう。二人への距離も。


『何かあったのか。……ここじゃ聞こえないな』


 松木さんの周りの音や声が大きい。家にはいなかったみたい。

 舞台練習後の打ち上げか、その後の用事でどこかのお店にいる感じかな。

 カンカンカン、と金属の音。階段? ――を、降りて移動している。


『おーい、ひな。まさか……電話つながるあいだにでも眠っちまったか?』

「……マツキさん」

『なんだ。起きてたな』


 優しくて、おどけた松木さんの声。それだけで電話を掛けて良かったと思う。最初は光さんに掛けようとしてたけどね。腕や首の傷跡を目立たないようにする化粧や処置を聞いてみたくて。

 怖さが収まらない理由がもう一つある。頭の中に抜け落ちというか、思い出せないものを感じる。なんて言えばぴったりだろう……記憶の空白? 違うな、記憶を箱とか壁で覆ってあってたどり着けない、そんな表現なら近いかも。


 私の曖昧な危機感が、記憶の中で最後に会っている松木さんを選んだ。


「こ、怖い夢を見て……」

『んん?』


 夢じゃない。けど、他になんて言えばいい? 

 こんなこと信じてもらえるとは思えない。


 松木さんは、未羽やつぐみを気に掛けてた。

 多分、私が同じように消えたって心配してくれるだろう。……後輩として。

 でも、それだけだ。さっき起きたことをそのまま話して、信じるわけがない。


『怖い夢って、どんなモンか憶えてるか?』

「首と手を引っ張られて……どこかに連れて行かれそうになる夢でした。ずっと抵抗して、もがいて、やっと離してくれたんです。それで、起きたら――」


 どうする? 言うのか? 言っていいのか。私の心を軽くするためだけに。

 松木さんを利用する、そんな卑怯で臆病な自分に対して、怒りも沸いてこない。

 最低だ。私が一番嫌う行動を私が選択してしまうのに。


「夢で掴まれてた所に、同じ跡が付いていて……。信じてください! こんな……悪い夢のようなことですけど、本当なんです」

『……』


 どれくらいの時間が過ぎただろう。私も松木さんも、口を開かない。

 静かだ。さっきと同じ静けさ。部屋に一人でいたら気がどうにかなりそう。

 今までずっと耐えていた。逃げ出したくても、どこへも行けない。


 ドアを開けるのを、あの《かいぶつ》が待っているんじゃないか。眠ろうとしたら和室の電灯紐のように腕が釣り下がって垂れてくるんじゃないかって、考えないようにしても脳裏に浮かんで、自分では振り払えないんだ。

 小さい時、お風呂場でふと鏡や後ろからお化けが出るかも、なんて思い込みと似てる。そんなことあるわけないと自覚しているのに、私はもう恐怖を取り除けなくなってた。


 けど一人じゃない。

 何も話さなくても、電話越しにでも松木さんがいるだけで、安心できる。

 この繋がった感覚が、脅迫観念みたいなものをどこかへ消してしまった。


 突拍子もない電話と内容に呆れているだろうか。

 寝ぼけて夢と現実をごっちゃになってるって、私を心配してくれてるなら少しうれしいかな。松木さん……多分、なにか夢と雑学を繋げて、私を和ませて安心させようとしてる。

 そういう人だこの人は。


『ひな。家の近くに公園があったよな。大通りの近く』

「ありますけど」


 何で知ってるんですか?

 と聞く前につぐみの家の帰り、車で送ってもらったことを思い出す。

 そこを通ったからだ。薄皮をはぎ取るくらいには記憶を辿れる。ちょっとした発見。松木さんと何を話していたかまでは分からないけど。


『今からそこに行く。そうだな……二十分後に、家を出て向かってくれ』

「はい? マツキさん! あの、待っ……」


 電話が切れた。もう一度掛けなおそうと思ったが、止める。

 普段とは違って絶対にそうする、って強い意志があった。他人の気持ちを変えたり、聞いたりって感じじゃなかった。

 まさか真に受けたわけじゃないしな……私の話を。


 こっちまで来てくれるのは何故だろう。私は、さっきの電話のやり取りでだいぶ救われた。出来るなら、もう少しだけ話せたなら言うことは無かったってくらい。でも、会ってまでとは……それとも心のどこかで期待してたのか? 

 一緒にいてほしいって。さすがに私の深層心理までは察してくれはしないよね。

 

 わざわざ会おうとする意味。松木さんが決めたならきっとあるんだ。


 ……というか、今は深夜ではないが電話するには失礼な時間帯だった。

 先に言えば良かった。電話掛けた時はそれどころじゃなかったけどさ。

 会ってから伝えればいいかその時にでも。


 不思議と、公園に向かう気でいる。怖さはまだあるのに、気持ちが沸き上がっていく。あのドアの向こうにも、玄関にも夜道にも《かいぶつ》がいるわけないんだ。こっちから《模様》に触れない限りは。

 

 もしかしたら、会うというのはただのきっかけで。

 恐怖の影響が長く残らないよう、無理やりにでも私を動かしてくれたのかも。




 *  *




「……よう」


 公園の暗がりに、松木さんはいた。

 稽古終わりの打ち上げから直接ここまで来たのか、いつもよりぴしっとした服装だ。当たり前か、松木さんだって出掛けるし誰かと会ったりするんだから。

 少し息が上がっているように見えた。電車で来たのなら駅からここまでは走ったのかも。

 お店でお酒も飲むだろうし、車で来てるわけないか。


「こんばんは。マツキさん。来てもらってすみません。さっきも、夜遅い電話で」

「いいさ」


 松木さんは初めから用意していたみたいに、淀みなく言った。

 申し訳なさから出た言葉が、どんなに長くても同じセリフだったに違いない。


「具合はどうだ。大丈夫か?」

「ええ。まあ」


 腕と首は保湿テープで覆う処置をした。ママが応急手当に詳しく、うちの救急道具が充実していたのは幸いだったかも。夜道とはいえ人目につくのも嫌なので、ストールを浅くドレープさせて掛けて来た。首にきつく巻きつけるのは避けた。何だか強烈にあの体験が蘇りそうだし。


 松木さんが私の首と腕を見てる。……詳しく判断できる方がいいのかな。

 首は、覗くようにすればどの程度の傷かは分かるから、腕の方を見せよう。

 袖のボタンを外してめくり、右腕を差し出す。

 赤い腫れが引いてきたかわりに内出血が目立つから、ちょっと重傷に見えるかもしれない。松木さんは軽く頷いたが、納得出来ていない声でうなった。


「思い込む力で、ただの水で酔っ払ったり身体が治ったりって話は聞いたことがあるが、ケガはな……ましてや引っ掻き傷とか、こんな……」


『嘘はついていない』


 わわ。松木さんが、我を忘れそうなくらい怒ってる。極力顔には出さないようにしてるけど、こんなに煮えたぎるような怒りの感情を持つのも滅多にないことだ。

 

 嘘をついている私に対してじゃなくて、この傷と……なんだろう?

 傷をつけた者へというより、傷が付くような状況。背景に対しての、怒り?

 じりじりと焦がし、焼き尽くすほどの強い情念を松木さんは持っている。


「……思い出すのは、辛いかも知れないが」

「はい」

「どんな手だった? ひなに傷をつけたのは」


 松木さんはどの程度こっち側の状況を理解しているか読めないが、私の嘘にあえて乗る形をとっている。嘘を暴けば、私が傷ついてしまうんじゃないかって、思ってくれてる。

 それが嬉しいけど、騙している状態であることに変わりはなく罪悪感で苦しい。


 ええと、なんて説明したらいいのか……

 というか、そこまではっきりと見たわけじゃないんだよね私も。

 無我夢中で引き剥がすことに集中してたから。


「毛むくじゃらで、筋肉ムキムキの、ゴリラみたいな手だったか?」

「……いえ」

「爪は長すぎて、握手も出来ず不便そうだって感じたりは?」

「マツキさん。わざと面白く言ってますね、もう。違いますよ。もっと……」


 ――もっと普通の手だった。

 そうだ。白い手で、爪もきれいで。

 《ばけもの》どころか、男性の手ですらない。子どもか……それこそ私くらいの大きさの手。考えもしなかった。まさか――


「もっと……人間の手、って感じでした。あんまり大きくなくて」

「ふうん」


 松木さんが、私の腕をいたわるようにして優しく触れる。

 皮膚だけをなぞって、傷痕に手を重ねてきた。痛みは無いが、くすぐったい。


「確かに小さいな。俺の手よりふた回りはサイズが下だ」


 大きい手。劇道具の制作や修理を手伝っているのが納得できる、大工さんの手みたいだ。それでいて舞台では指先まで動きを客に観せられそうな。


 その手が、こんな傷や恐怖なんてちっぽけだと言うように、私の腕を覆っている。それはどんな手当てよりも効果があって心強くて、私の不安を取り除いてくれた。想像より熱くない。私の手のひらの温度と同じくらいかな。


「手、冷たいんですね」

「そうか? 手が冷たいと心が温かくて流れる泪も熱い……ってやつだな」

「知ってる言葉に似てますけど、なんか微妙に付け足しが」

「これはだな。……なんだっけ?」


 ズッコケそうになる。今だけはボケをかまさなくても……ねえ。

 まあ、真剣な場面をあえて台無しにするのが松木さんっぽくはあるか。


「わ、忘れちまったが、たしかそんな言葉があったんだよ」

「ふふっ……聞いたことないですよ」

「気にするな。細かいことは」


 そう言って頭を撫で――ぽんぽんと叩かれた。

 気を向けずに、自分のやるべき事を。なんて意味もあるのかな。

 松木さんは考え無しの行動も多いから深読みしないのが鉄則だったんだけど。


 じっと見つめる。

 どうしてもこう、近くだと見上げてしまうような格好になる。

 

 汗とお酒と……いつものタバコじゃないにおいがした。

 お店で誰かが吸っていた残り香かな。入り混じっていて分からないけど。

 私を笑わせるという目的は達せられた。そんな顔をしていた。


「案外、つぐみや未羽が手を伸ばして、引っ張り上げて欲しかったのかもな」


 私の思っている以上に、心配してくれていたらしい。

 あの手が、つぐみか未羽のものだったなら。得体のしれない《ばけもの》じゃなくて良かったと安心するよりも、手を離さないで引き寄せればよかった、と後悔する自分を。


 そこまで私の事を理解していて、会って話をしようとしていたんだ。この人は。

 不安や恐怖を引きずらないような声掛けをして、無理やりにでも笑わせる。

 本当にそれだけのために来てくれた。舞台仲間との打ち上げを抜けてまで。


 松木さんは膨大なエネルギーを燃やして、舞台にぶつけるような演技をする。

 周りに執着することはせず、公演が近付くほど自分だけの世界に没頭する。

 その熱が……魂が、いまは私一人だけに向いている。


「今日はもう寝とけよ。明日も劇場で練習あるんだからな」

「はい。おやすみなさい」

「おう……いや、家の近くまではストーキングするぞ?」


 最近板に付いてきた紙谷さんの物真似から、ストーカー宣言まで飛び出す。

 普通に家まで送るよ、と言わないのは分かってた。

 でも、いいんだこれで。私の心にはたっぷりと熱を、魂を注いでもらった。


 もう私は動ける。目指すところまで、走っていけそうだ。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る