第17話 私はそれを我慢できない
陽菜が友達だと思っているのは、児童劇団のメンバーだけだ。
全力でぶつかり、慣れ合いじゃない対等な関係の上でしか友情を感じられない。そんな性格を省みることなく、強い心の結びつきを求めた。未羽やつぐみ、他のメンバーにそれが確実にあると考えている。
練習についていけなくなっても、脇役さえ勝ち取れなくても、演劇を続けたい。そう思う一方で、この場所にいる資格まで無くなって、友達を失ってしまうんじゃないかという焦燥感がいつも胸の中で残り続けた。
なくしたら作り直せない大切なもの。友達とか友情はそういうものだと、陽菜は確信している。世界に同じ人がいるわけがないし、生きるという意味での同じ道を二度と辿ることはできないんだから――
「助けてやりたい。三人とも」
だが私は……三人を諦めることで、私として生きることも選べる。そうだ。この世の理とは思えないものを私が許容する限り、何者でもない私だって生きていていいはずだ。
一部の人間には見破られているが、このまま演劇を続けるのもいい。自分なりにどこまで陽菜の才能を伸ばせるのかを道楽や遊びの感覚で試すのもありだ。
陽菜の体で気ままに生きることだって望める。まるで違う人生を進めるうちに、この記憶は上書きされていく。今起きていることが、無かったことにも出来てしまうんだ。
それを私は我慢できない。
自分で自分を許せなくなる時が必ず来る。そう思う心を持ち合わせている。
不意に
「ひな。お前が泣かせているのか?」
手が冷たい人は心が温かく流れる泪も熱い……だったな確か。
体は陽菜のもので、心――記憶も陽菜由来。もし私に心があるならきっと冷たいだろう。泪を熱く感じることに私という部分は関係していない。だが、多少の心地よさはある。
我慢すれば止められるが、このままにしよう。泣けるというのも身体が無ければ不可能なことで。陽菜を少し羨ましいとは思うけど、やはり精神と肉体はともに生きて、ともに死ぬべきだ。
《印》に使う媒介もたったいま、全て揃ったことだしな。
泪を指ですくい取り、日記の《印》に触れる。紙の手触りを感じると、やがて文字の輪郭がぼやけた。ペンのインクが滲んでいると思ったが、よく観察すると模様すみずみまで水分は行き渡り、紙にではなく《印》そのものに移動したように見えた。
――呪いへのアクセスは推測通り、間違ってない。水と、対象者が触れていることも条件か。常識と超えた現象と、推測を照らし合わせていた時、指先からボロボロと何かが崩れ落ちる。
それは自分の指と手だった。
反射的に模様から指を――すでに無くなっているが右手を離した。パズルのように細切れになっていくのは止まらず、肘から肩にかけて肉片が《印》の一点に吸い込まれていく。
『これは嘘だ』
現実に起こっていることじゃない。そう見えているだけだ。
陽菜の体はちゃんとここに存在する。
だが、すでに自分は消えている部分を認識できない。
「……そういうことか」
じきに陽菜という体がどこにあるのかも分からなくなる。
だが分かった。陽菜の人格を元に戻す条件。
そして人をのむ呪い……いや、こいつの正体を!
いま自分は《印》と繋がっている状態だ。
失っていく一方で、共有する形で知らなかったことが獲得されていく。
陽菜とつぐみ。そして自分のことも。
視界に肉片になった身体が散らばっていくのが映る。
もう胸の辺りまで侵食が進んだようだ。
「ひな! ……二人は――」
それきり声も出せない。足は動かせるか? 左手は?
なにか、陽菜にしてやらなきゃ! 伝えることが残っている!
一つだけでも伝え――
* *
……ん、いけない。寝ちゃってたか。
机の椅子に寄りかかったまま大きく伸びをする。
天井をじっと見ながら長い息をつく。なんだか寝ていたのに疲れが抜けてない。
ええと、つぐみの家に松木さんの車で向かってて――違うな。あれ?
用事が終わって松木さんに送ってもらったんだっけ?
私の部屋にいるってことは、そういうことだよね。
なんか服が散らかってる。ママが勝手に衣替え、ってするわけないか。
あとで片付けないと。
……あとで? 今片付けないのは、なんでだっけ?
「いっ……うう、頭が痛い」
頭のところどころに穴が開いたみたいな感じと痛み。
なんだか今やらなくちゃいけない、とても大切なことがあったんだ。
でも、それだけしか思い出せない。
立ち上がろうとして、危うく倒れそうになり椅子にしがみ付く。
――なにをやっているんだ私は。
立ち方を忘れたってオチではなく、本当に疲れが来ているんだろう。それにしたって今日は軽く通し練習をしただけなのに。動きも紙谷さんにそこまで要求されなかったし。……たくっさん注意されたから、気疲れというヤツなのかな? 私の人生の中では体験したことないから、当たってるかもね。
うわ。机の上も出しっ放しで片付いてない。
昨日今日といろいろなことがあり過ぎたが、さすがに注意力散漫すぎる。
だらしないって、松木さんに強く言えないよこれじゃ。
「んっ……ええと」
この部屋の感じ。散らかり具合。つい最近、どこかで見たような――。
もう頭の痛みはそこまで感じない。かわりに意識がもやが掛かったみたいにはっきりしない。体も少しだるい……明日は小屋入りだ。芝居は置いておいて、体調管理も出来ないんじゃ舞台人失格だ。
机の上。ペンがちらばっていて、その下に交換日記が開いている。
この模様……なんだろう。
見ていると、頭じゃないどこかがチリチリと焼け付くみたいな気分になる。
気持ち悪くて、でも無くてはならない繋がりだと何故か思えた。
そうだ。未羽とつぐみはこの《印》みたいなものを描いた後で、いなくなっちゃったんだ。これは、どっちが書いたんだっけ――
模様のすぐそば、くっつくように走り書きがあった。
よほど急いで書いた、とすぐに分かる。誰かの字だ。見覚えがある気がする。
《ひきずりだせ ソレを っく、》
文の意味を考えてみたが、ピンとこなかった。
机に引き出しはないし……この部屋の散らかりはこいつの仕業か? 何かを探して出したかったのかな? でも何を?
色と濃さから私のペンで書いたもの。机の横に転がっているペンの先に、キャップが無い。私は、そのキャップを目で探すよりも早く、部屋を見回した。
ドアは閉まっているし、もちろん誰もいない。でも、この文字は誰かがここに来て書いたんだ。私が椅子に寄りかかっている時に、誰かが――
「この字……こんな風に、急いでは書かないけど」
私の字に似てる、気がする。いや、そっくりと言ってもいい。
記憶の中を探しても、こんなことした覚えがないのが不気味だ。
文字に触れてなぞる。あまり時間が経っていないのか、うっすらと滲んだ。
あれ、指が少し濡れていたのかな?
字の横にある模様にもじわじわと染みていってる。模様がわずかに潤んで見えたが、すぐに乾いた。速すぎる。砂とかなら分かるけど、これはただの紙なのに!
私の後ろ髪がざわざわっと揺れる。無意識に肩が震えたのだと思った。
文字が生きているように水をのみ干した、不思議な現象に怖さを感じたんだと。
すぐにまた後ろ髪が空気ごと動いた。そのまま耳のすぐ下まで髪が持ち上がり、頬をくすぐる。
かちり。
この、音。
身体の内側をパズルみたいに外されていくような音は!
《模様》の中に、外された私の身体がうずを巻いて吸い込まれていく。
イメージや表現じゃない。
力や気持ちが抜けていくような感覚は現実のもの。
私の――心や記憶は、こうやって奪われていたんだ。この音が鳴るたびに!
「ひ、うっ……ぐ!」
とつぜん髪をかき分けて何かが首に巻き付く。
そのままぎゅっと絞め上げるそれを、とっさに両手で掴んだ。
なに? 何が!? 黒いまだらの……
いやこれは私の髪だ。白いものが見え隠れしているけど近すぎて分からない!
「ぐあ……ううっ!」
い、息が……。
両手で必死にもがく。この感触、爪と指……だ。だ、誰かの腕だ!
首を捻じ曲げ、肩越しに後ろを見る。そこには自分の部屋の壁しかなかった。
かちり。かちり。
すっと視界が暗くなり青ざめる感覚と、首より上の血が膨張して熱を帯びるような感覚を深く精神に刻み付けられる。
空間の波打ち。濁りの侵食から来るもの。……そうか。いよいよか。
つぐみと未羽の時の、ように。二人の友だちを隠してしまったこいつが――
《かいぶつ》が――私の所にもやって来たのだ!
模様に触れると、こいつを呼び寄せてしまう仕組みになっているのだとしたら、あの走り書きは罠だ。誰が書いたかは知らないが、もう少し疑うべきだった。
絡みついた腕は、とても振りほどけそうにない。私の首に巻き付いているものへ無理やり爪をねじ込んで、ほんの少しでも隙間を開けようとするので手一杯だ。
「ぎ……」
肺に空気が、入っていかない。呼吸をしようとする動きが、かえって気道ごと押しつぶす腕の助けになっている。つ、爪をこいつの皮膚に突き立ててみるか? そんなことで巻き付きが緩むような痛がりには思えないけど……
そんな考えがよぎった時、首を絞めていた手が目の前で大きく開いた。
視界を遮った手は何かを探すように指を動かしている。そのまま顔を掴んで引き裂かれると思ったが、今度は私の右腕を握り締めた。
「あああっ!」
吸い込めるだけ空気を吸い込んで、全体重をかけて右腕を引っ張った。
ちぎれてしまうんじゃないかって激痛が走っても、躊躇はない。
反対の手で支えるようにして掴み、頭をこいつの腕に擦り付けて、右腕を取り戻そうとする。こちらが力を込めるほど、私の腕に縫い付けてるくらいに握り返して来た。体ごと引きずられるのを辛うじて止めている状態。
もし一瞬でも力を抜いたら……向こう側へ連れていかれる。
嫌だ。……嫌だ! 嫌……私がいなくなったら、いったい誰が――
向こうの爪と指がわずかに見えた瞬間、私の背中は机と椅子にぶつかった。
思わず息が漏れる。痛い。
痛かったが、この程度なら我慢できる。うずくまって丸まった身体を起こす。
聞こえるのは私の心臓の音。
分かるのは打ち付けた背中の痛みと、部屋の空間にはもう何もいないこと。
吐き出せるだけ空気を吐き出して、感覚が無くなって硬くなった手の力を抜く。
そして腕に刻まれた赤い手の跡を見た時、首もぎゅっと痛みだした。
――明日の舞台練習。ファンデーションじゃごまかせないぞこれは。
未羽とつぐみの三人でオールした時、次の日の練習前に興奮が醒めず一睡も出来なくて怒られたことがあったっけ。眠気で台詞を落として動きもボロボロ。光さんに目のクマを目立たなくする化粧をその時教わって、助けてもらった。
これは傷と内出血だから、ええとどうすればマシになるか。
ママからコンシーラー借りて厚めに塗って……その上に肌色のを重ねて塗る。それで多少は……首の方も、見てみないと。
おかしいな。
日常に戻ろうとしているはずなのに、現実逃避のように思えてしまう。もう私は越えてしまったんだと、追い付いてきた恐怖が教えてくれる。現実の向こう側が今や私のいる場所。この場所から、元に戻れるのか?
また声を聞きたい。話をしたい。
いなくなってからの方がはっきりと思い出せるなんて、知りたくなかったよ。
未羽、つぐみ……
ぶつりと緊張の糸が切れる音がして、意識が保てずにぼやけていく。
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