第8話 また明日から三人で
「おたのしみ中だったかな?」
振り向くと光さんがいた。
舞台スタッフの黒キャップを後ろかぶりにしているから、
今まで制作を手伝っていたみたい。こっちには休憩に来たのかな?
胸の高まりが、ゆっくりと治まっていく。
光さんの顔を見て、やっと私は一息つけたのかもしれない。
舞台スタッフの中でも光さんは、最も信頼できる女性の一人だから。
「……ミツか。いいところで邪魔が入ったな」
「ひかりさん」
松木さんに背中を押されるようなフリを感じたので、日記をしまってから光さんに駆け寄る。私の頭をあやすように、光さんは撫でてくれた。
「アキラの大声が聞こえたから、何事かと思ったよ。ドアが開いてるから入ってみれば、二人が手を取って見つめ合ってるんだもの」
「急にいろんなことが、知りたくなったんです」
「うん。でももう演技はいいんだ。ひならしくない……そんな顔しないの」
そんな顔?
ええと、私は今演技をしてないけど。ちょっと顔が赤いってことかな。
光さんがすごい心配そうにしてるから、なんだか深刻な問題だと思ってしまう。
「舞台に上がるのは明後日から。その調子じゃ持たないと思う……アキラ。演技指導にしちゃ度が過ぎてない? あんまりかわいい後輩を追い込まないであげてよー?」
芦田光さんは元JINプロ児童劇団所属で私の先輩にあたる。
現在は舞台スタッフとして活躍していて、同期生の松木さんや私たちとの交流も多い。
その光さんが言うことだ。的外れに思えても、心に留めておいて間違いない。
「それはそうと、休憩でもしていくか?」
「いや、まだ舞台装置の手直しがあるから」
「んん? ここには油売りに来ただけかよ」
「紙谷さんに頼まれててさー。みうとつぐみがいたら、こっちに声かけろって」
その言葉で、松木さんの表情が変わった。私も。
携帯を見る。チャットには、二人の既読はついていない。
「いたのか? どこに」
「どこにって、いま大道具の搬出を手伝ってくれてるよ。今日の練習はいい出来だったみたいで早めに終わったんだってね。元気が有り余ってる感じだったよ」
「搬出を? ……まあいい」
食べかけの茶碗と箸をそのままにして、松木さんが休憩室を出る。
遅れて光さんがついていく。
携帯からもう一度メッセージを送ってみる。
《みう。つぐみ。急にいなくなるから心配したよ。カラオケどこいく?》
五秒経っても、十秒経っても、既読がつかない。
ああ、家の感覚で送ってるから、違和感があるんだ多分。
荷物はまだ二階のレッスンルームかな。搬入の手伝いなら手は離せないか。
――それで、なんで私は待っているんだ? 二人に会って言えばいいことだし。
立ち止まっていると、休憩室の外から松木さんの声がする。
「ひな、ボケっとするな。行くぞ」
* *
朝、機材などでごちゃごちゃしていた制作ホールはたいぶすっきりしていた。
大道具の搬出があらかた終わったからかもしれない。
あとに残っているのは『第九』で使う大きな柱くらいだ。
一見出来上がっているように見えるけど、残っているということは、
完成していないか、明日搬出するもののどちらか。
スタッフも一区切りついて休憩しているようで、大分人数がはけて少ない。
辺りを見回してから、光さんが廊下から戻ってきたスタッフに声をかける。
「みう達は? 外の搬出?」
「このあと用事があるから帰りますって」
「ああー手伝ってる時もそれ言ってたね。てっきりひなと一緒の用事だと」
――舞台でもTVでも、演劇を長くやってきた人には、ある種の力がつく。
それは、言葉と表情が演技かどうか見抜く力。
私でさえ、パパやママ、クラスメートの素人がつく嘘は、正確にわかる時がある。
それでちょっとパパが嫌いになった時期もあったけど……
一流の俳優や芸能人は、もっともっと鮮明に他人の嘘が分かるんだろう。
それくらい、人は嘘をつく訓練に慣れてない。嘘の演技が《なってない》のだ。
声、調子、視線、顔と手の動き、仕草、判断する材料はいくらでもある。
このことを世間一般では誰も知らない。誰も言わないからに違いない。
ひょっとしたら演劇に限らず、それぞれの分野でトップクラスの人達は、
この『読む』能力をある程度は持っているのかもしれない。
心は落ち着いている。頭も大分はっきりとしてきた。
でも、心と頭以外のどこかが、焼け付いて弾けているような感覚がある。
「そうだったんですか。入れ違いになりましたが仕方ないですね」
どちらかの、急な用事なんだろう。
だって三人でカラオケに行く予定だったんだから。でも、本当によかった。
『嘘はついてない』
スタッフも光さんも。私の前で演技をしていない。
ちゃんと、『さっき未羽に言われた時を思い出してから』言っている。
声や仕草を観察? そんなもの程度が低いお遊戯会のように感じる。
__心を覗いた。
そうとしか表現できないことが、私のどこかで出来てしまっている!
「ひゃん」
口から私とは思えない声が出た。
松木さんに、服ごと首ねっこを掴まれている。
「ひな。すました顔してるんじゃない。なんか言うことは?」
「お手数をかけてすみませんでした。教えてくださってありがとうございます」
「……ちっ」
松木さんに舌打ちされた。
初めて聞いたから、ショックだ。私に向けてる所も何気に辛い。
――えっと、言葉の選択を間違えたかな?
ちゃんと心を込めて言ったのに。
「まあまあアキラ。手を放してあげて。顔が……。ほら、みう達に何かなくて良かったじゃない。二人とも近いうちに責任のある身でしょ」
「その二人なんだが、いつもと違う感じは無かったか?」
「え? それは、特には……少し申し訳なさそうだったかなー」
「そうだろう。ミツ達にしてみりゃ素人の手伝いは、邪魔にしかならないからな」
まだ首を開放してくれない。首を左右に振ってみても変化なし。
足はついているが、ハンガーにかけられた洋服の気分だ。痛くはないが、何かむずむずする。
松木さんの言い分は間違ってない。
私達は演劇の初歩を叩きこまれて、今日まで高めてきた。それだけだ。
制作の素人。音響照明の素人。設営の素人。搬入搬出の素人。
大人たちの劇団JINは、全員がすべての役職を理解し、全員が手伝える。
私達とは違う。
とても児童劇団のメンバーだけで舞台は出来ないのだ。
「そんなこと言わないの。多分つぐみが、どうしたって手伝いたい。何かしておきたいって思ったんじゃない? ずっとスタジオに来てなかったしさー。気持ちは汲んであげてよ」
「多分? ……つぐみは何も言ってないのか。その辺り、口にしない子じゃないだろ」
「私はつぐみを見てないんだよ。今日の搬出は大荷物が多くてね。数人で持ったりするから、ごちゃごちゃしてたし」
光さんはさっきのスタッフを含めて誰かに声をかけようとして、搬出をしていた人がいないのか諦めたようだ。少し残念な表情に『嘘はない』
「小屋入りからずっとピンスポは私だから、大きすぎるくらい動いちゃっていいよー、ってみうに言おうとしたんだけどな。もう帰っちゃったか。明日は仕込み設営で向こうに行ってるから会えないし」
おお。光さんがスポットライトを。
第九は主役達の動きが多いから、照明じゃ一番肝心なとこだ。ということは光さんの腕が認められたんだ。私は当たることは無いけど、嬉しい。
未羽に早く伝えなきゃ。こういう所で、未羽のやる気はまるで違ってくるし。
「私が明日、通し稽古の前にでも言っておきますよ」
「そう? ありがとう。ひなの芝居も見させてもらうからね」
「世話かけたな。助かった」
「どういたしまして」
にっこりと光さんが笑って、制作ホールをあとにする。
今度こそ、本当の休憩か食事だろう。
「……意味がない。なんでわざわざこんなことを」
本来なら誰にも聞こえないはずの松木さんがつぶやいた言葉を、
ある理由から、私は聞き取ることができた。
「ひなは帰るか?」
「はい。つぐみたちは何やら用事が出来たみたいですし」
「そうか。その前に、レッスンルームに戻ってみないか?」
「いいですよ。……マツキさんが手を放してくれるなら」
* *
レッスンルームには誰もいなかった。
さっきまで誰かはいたと思う。
未羽とつぐみの荷物が無くなっていたから。
私は携帯を取り出したが、チャットを開くことも電話を掛けることも出来ずにいた。二人の用事を邪魔しちゃいけない。また明日から三人で会えるし、連絡だって取り合える。
向こうから電話でも返信でも掛けてくるまで待てばいいんだ。
「片付けは……ちゃんとやってるな」
松木さんが鏡の裏、収納スペースを見ている。
布はきれいに畳まれ、衣装はハンガーに掛けられていた。
「みうが自分で出したものを、片付けない訳ないですよ」
「そうだな」
松木さんの返事はどこか上の空で、関心がなさそうに聞こえた。
ぱたりと収納スペースを閉じて、鏡越しに私を見る。
「二人がいなくなった、と感じてたのは、ひなの気のせいだったわけだ」
「はい。気のせいでよかったです」
「安心ついでに教えてくれないか? どんな風に見間違えたら、ひなが血相抱えて俺のとこに走ってくる? あれは俺も心配したよ」
「それは……」
「つぐみが消えた。そう思った時のことだけでいい」
どうしたって気のせいに決まっていることは言いたくない。理由は他にもある。あんなこと信じる方がどうかしてるし、思い出すのが怖いんだ私は。
松木さんはいつも通りの優しい顔をして、待っている。
私の返事を待っている。鏡越しで『どんな気持ちでいるのかは分からない』
「みうのおまじないを試していて……ふと気づいたらつぐみが宙に浮いていて、影みたいなものが巻き付いて消えた、ように見えた」
独り言のようにつぶやく。
今思えば、眼のピントが合わなかったんだと思う。
しばらく目を閉じていて急に開いたものだから。
瞳孔がどうのこうの作用して、変な物でも見た気になっていたんじゃないか――
鏡に映る松木さんが、歯を見せて笑っていた。
私には何故か、ずっと待っていた物が届いたような、
とても嬉しそうな顔に見えたが『どんな気持ちでいるのかは分からない』
「そうか」
松木さんは鏡の前で顔を普段通りに戻し、そのままこちらを向く。
すたすたとレッスンルーム中央まで移動して、どっかりと座った。
息を長くつき、こっちに顔を向ける。
「10年前。俺の同期が一人いなくなった……今でも思い出す。舞台練習の帰り、そいつと別れたのが最後だ。事件性ってのは無かったらしいから、当時は悩みでもあったのか、なんで聞いてやらなかったのかってずっと悩んでた」
『嘘はついてない』
ちゃんと『昔のことを昨日起きたことのように思い出してから』言っている。
松木さんにとって、すごく大切な記憶みたいだ。
「今日のちょっとした騒動で、悪い予感がしたよ。……ミツだって、言われた時ちらっとは思い出したかもしれん。余計な心配かけると思って、このことを伝えるつもりは無かったんだが」
さっき口を滑らたからな、と申し訳なさそうに小さく笑う。
私も聞こうと思っていたから丁度よかった。
先に言ってくれたのは、私の心情を察してくれて気を回したというよりも、
これ以上触れてほしくない、そんな壁のようなものを感じる。
「明日は通しの練習が何回かあるんだろ? 早めに寝ておけよ」
まるで紙谷さんのような言葉をかけてくれた。
座ったままでぼんやりと部屋を眺めているが、10年前のこと……練習や茶番、ここで過ごしてきた日々を思い返しているのかもしれない。
――松木さんにも、私にとっての未羽やつぐみのような人がいるんだ。
そんな当たり前なことを、ずっと顔を合わせていて気が付かないなんて。
心を覗こうとしなくても分かることだったのに。
* *
ママの夕食の料理は、味が薄くておいしくなかった。
熱は無いけど今日はいろいろあって疲れているのかも。
ベッドで目を閉じる前に、携帯を開いた。
携帯の画面がぼやけてチャットもアプリも何も見えない。
別にいいか。電話やメール、受信音は無かったし。
「あれ……」
それよりも何で……なんで泣いているんだ?
悲しくなんてないのに。
分からない。私は『私の心の中が分からない』
自分のことでさえこれだ。
他人の気持ちなんて、心でも覗かなきゃ分からないに決まってる。
何なんだもう。気持ちが落ち着かない。
胸でも頭でもない所から、誰かが叫んでいる。
私に何か伝えようとしている。
うるさくて仕方なかったが、すぐ気にならなくなった。
携帯が手から滑り落ちて、枕にあたる音がした。
意識が吸い込まれるように深く底へ落ちていく。
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