第5話 中学生の零地点
音のないレッスンルームも珍しい。普段なら仲間が練習をしているか、
演劇のことをああでも無いこうでも無いと言い合いをしているかだ。
今は私と、つぐみと未羽しかいない。
誰というわけでもなく座って、しばらく経つ。
先ほどの、松木さんがくれた言葉の余韻に浸っているのかもしれない。
休憩や、居残りの練習でさんざん言い合った後に、
三人で座ってクールダウンしたいつもの場所。いつもの位置。
「……最初は、ウチらケンカなんてする仲じゃなかったよね」
「はい。自分の練習で、頭の中がいっぱいで」
確かに周りを気にする余裕は無かった。
朝から発声練習。歩いて発声練習。仰向けで発声練習。
慣れないうちはノドが潰れ、そうなった人はひたすら腹筋と背筋。
しばらくは家でも、蚊の鳴くような声しか出せなかったな。
中学じゃ無口なキャラだと思われた時もある。まあ大して違わないけど。
「お腹いたくなってきた」
「懐かしいですね! あたしはすぐ声が枯れちゃって……」
「この天井、何回見たかなー?」
つぐみが床に寝転がる。
ここに来て、三年と半年くらい。週に二日程度は必ず来てて、平日学校終わった時も入り浸っていたから……300日から400日って感じか。そこから家の自主トレーニングを含めず、練習日の腹筋回数だけで計算しようとして、お腹が本当に痛くなりそうだから止めた。
「あんまり発声ばかりだったから、土日以外で来た時は、即興劇やってさ」
「倉庫から、昔の台本引っ張り出して演じたりとかね」
「みんなでいきなりアドリブを入れて、さらに重ねて……楽しかったです!」
「めちゃくちゃな終わりを迎えたり……同じ劇はなかったな。台本あるのに」
「それは、初期のレッスンルーム劇場だし」
「あっ! お酢を飲み込んで、むせて『みりんじゃん!』ですね」
「いやいや。ひなの演った『歯が弱いお爺ちゃん』でしょ」
「『痛いって! 台本と違う!』じゃないの?」
未羽とつぐみが顔を見合わせて「それだー!」と言い笑い転げる。私も笑う。知らない人が聞いてもさっぱりだろう。こんなネタ誰が考えたんだ。
団員が即興・寸劇が大好きなのは、この辺が影響してる。
ちょっと悪ノリがするときもあるのは困るけど。
笑うだけ笑った後で、つぐみが起きて聞いてきた。
「そうだ。交換日記。持って来てる? 最後は誰だったっけ?」
「私だよ。書くのもある」
バッグから日記とペンケースを出した。今日の日付はとっくに書いてある。
――もう中学生でもないし、まだ高校生でもない。
そんなわずかな時間に、また3人で書けるようになった。
嬉しくって、つい先に日付ぐらい書いても構わないでしょ?
これは私たちの、私たちによる、私たちだけの、
言ってみれば中学校生活丸々3年をかけた想いを、好き勝手に書いた日記。
劇団の稽古、自主錬、舞台に上がった感想。遊びの報告もあれば、ただの雑記・絵も多い。
つぐみに渡して、3人でのぞき込む。
「うわー結構進んだね!」
「あっこのシール、また貼ったんですね!」
「ひなの絵がまた上手い」
「……そうかな?」
ぺらぺらとページがめくられていく。私達にしか理解できない混沌。芝居の心得。恋バナ。舞台へ上がる形式。しりとり。通し稽古レポート。お絵かき。
……有名になった時のサインを延々と練習してるページ。
「初舞台の時、おぼえてます?」
「どうだったかな」
「みうが泣いてたかな、確か」
「な、泣いていたのは本当ですけど、詳しくはここに書いてあります! 私は忘れません」
「今見ると、だいぶ興奮して書いているのが分かるね」
「二人ともいい文章だ。ウチの書くとこ少なくてちょうど良かった」
初舞台。
大人は誰も助けず、声を掛けず。私達を見守っていた。
始まる前の緊張。そして、場面ごとの拍手が耳に残ってる。
そして――
「つぐみちゃんも、ひなちゃんも泣いてました! あたしは見てましたよ!」
「……どうだったかな」
「みうが泣いてたから、そう見えたんじゃない?」
舞台の上には、きれいなものだけがある。
打算や欲があったとしても、舞台にいる人の膨大な熱量で蒸発する。
それは、感動なんてもんじゃない。
どう表現すればいいのか、三年経ってもいまだに思いつけないんだから。
止まない拍手、照明と熱気。隣で泣いている二人。
私から、こんなに熱いものが流れているのが不思議なくらい、涙が流れた。
私はそのきれいなものを、ずっと見ていたかった。
二人と一緒に見ていたかったのだ。
「日記は……そうだな。カラオケの時にみんなで書こうか」
「いいですね。そうしましょう!」
「どうする? 即興でもやる?」
「即興もいいな。『第九』はウチがいた時に演りたかったなー」
「なら準備を――」
日記を戻そうとして、手を止めた。
二人が、私をじっと見ている。こんな風に食い入るような表情は珍しい。
未羽がスカートの裾を掴んでいて、つぐみはまばたきを数回繰り返した。
その仕草は、何度も目にしていて覚えている。
舞台に臨む時や、勇気を振り絞るとき。意を決した覚悟の表れ。
なんで自分に向けられているのか、一瞬考えたけど分からなかった。
「……どうしたの?」
「ひなちゃん。その、あのですね」
「なんかウチたちに、隠してること無いか?」
隠してること――
言ってないことは、ある。私が今回の公演で劇団を辞めること。
高校生になるからとか、そんないい加減な理由でもない。
私なりに強い理由がある。
打ち明けていないのは、つぐみがオーディションで上手くいってなかったから。あと、私が言うことで公演に少しでも影響が出ても困る。……それくらいだ。メンバーは、そんなにヤワな性格をしていないことは分かってるが一応。
他は無い。無いはずだ。
「そんなことないけど」
「嘘だな」「嘘ですね」
え、ばっさりと言い切られた。あれ。表情に出てたかな?
でも私だってJINプロ児童劇団の端くれだ。
普段通りにしている限りは誰にも悟られるはず無いんだけど。
「ええと、言い方を変えましょうか。悩んでることは、ないですか?」
「最近、練習が上手くいかない。どこかしっくりこない。とかな」
「それは……まあ思うよ」
いつも悩んでる。
表現の限界。演技の行き止まり。みんなとの差に悩んでる。
台本読みでも立ちでも、良くなっていかない。上達していかない。
――私には、積み重ねていける才能が、欠けているんだ。
練習を繰り返すたびに、その気持ちが強くなる。
二人には心配をかけさせたくない。
でも、言わないと余計に考えさせちゃって、もっと心配する。
そういう性格だ。黙っていたらいつか見守ってるだけじゃ我慢できなくなるんだきっと。
つぐみはまっすぐな言葉で。
未羽は遠慮がちに逃げ道を塞ぎながら。
このコンビに対して、きっと私は誰よりも嘘を突き通せないんだろうな。
悩みも不安も二人の手が掬い取ってくれる。私が頼みもしないのに。
それはとてもきれいなもので、無くしたら取り戻せない大切なもの。
自分の素直な気持ちを、熱とともに湧きあがらせてくれるもの。
友だちって、こんなにもすごいって、二人は私に教えてくれた。
だから――
「私だって。……誰だって、課題がこなせなかったり、表現できない場面があったり、悩む時だってあるよ。そんな時は、練習を重ねるしかないんじゃない? 舞台だってそう。その時の緊張と、その時の実力でやるしかない」
「ひなの気持ち、分かるよ。自分の事は自分で何とかするしか無いもんな」
私だって! 頑張ったよ! と言いたい気持ちは、ちゃんと抑えられた。
落ち着いていつもの声を出せる。
頑張って、頑張って。頑張っても駄目だった。
どんどんみんなは先に進んで、遠くなっていく気持ち。
苦しくて、投げだしそうになって、
逃げたらもっと苦しくなるのが分かってるのに……どうしようもなくて。
みんなにも、二人にも。迷惑なんて絶対にかけなくない。
私は、誰にも立ち止まって欲しくないんだ。
「壁とか、無理なこととか、ほんとしんどいよな。いつ出来るのかって不安になるし……ウチも、最近まで同じようなことで参ってたよ」
「実はそんなひなちゃんに、とっておきのおまじないがあるんです!」
* *
おまじない? なんで急に? つい肩の力が抜ける。
未羽は何というか、妙に信心深いというか、お婆ちゃんの迷信を律儀に守るようなところがある。《いたいのいたいのとんでゆけ》とか、《お地蔵様を見れば手を合わせる》とか。
食事も作法を守る。……その分食べるのは遅いけど。
本人の感覚としては、家族がそうしていたから、ということらしいが、
中々真似できるものではない。
「目をつむって、深呼吸してください。稽古でもたまにやりますよね。アレと同じです。……悩みと向き合うって、色々な方法があると思います。あたしも、よく難しく考えちゃいますから。でも、ちょっとした気持ちの切り替えで、上手くいくことだってあるんです。……心を落ち着かせて、今から言ったとおりにしてみて」
言われる通りに目を閉じた。
集中力を高めたり、練習で熱が入りすぎた時、こんな風に指導される。
迷走しがちな私の頭を冷やすには効果的で、家でもたまにやる。
「手のひらに人、人、人、と三回書く。次に――」
「なめる真似をする?」
思わずそう言った。久しぶりだ、未羽からそのおまじないを聞くのは。
いつ以来だろう? 最近は舞台本番前でもやらないし。
駆け出しのころは、どこかおどけたような未羽のこの仕草に助けられた。
周りの緊張を取り除こうとする姿勢は、ずっと変わらないな。
「今回のは少し違います。その後、井戸の井の字を人と書いた部分が中心に来るように描く……出来ましたか?」
「出来た。つぐみもやってる?」
「やってるよ」
良かった。私だけ目を閉じてたら、ちょっと恥ずかしい気がしたかも。
「そうしたら、同じように人と三回書き、井の字を先ほどの井とずれるように斜めに描く」
ずれるように、斜めに描く。2つの井戸の井が幾何学的な図形のようになって、6つの人が吸い込まれていくようなイメージが頭に浮かぶ。
「井戸の中心に、ぐるぐると書いた人がのまれる。そこは深い井戸で、どこまでもどこまでも落ちていく……そんな想像が出来たら、舌でその文字をなめる。……やってみて」
まるで、私みたいだ。もがけばもがくほど沈んでいく。
時間をかければ、いつかきっと届く……なんて思ってない。
二人と同じ舞台に立ち、二人の立つ場所にいる。それはずっと私の目標になってた。演劇が楽しかった時は、いつだったっけ。
新しい表現を思いつくたびに、みんなで試した。無理に思えた課題でも、誰も助けない。声も掛けない。私の背中を見てくれる誰か。誰かの背中を見る私。お互いをそんな風に支えて、信じ合い一人一人が乗り越えた。夜遅くまでみんなで残って、何度でも練習を続けていたいと思っていた。
こんな風に落ちていって、消えて無くなるのは、いいかもしれない。
いなくなれ。なくなってしまえ。
演劇を。みんなを。松木さんを。未羽を。つぐみを。
――本当に嫌いになってしまう前に。
「……」
おまじないを終えて、眼を開けた。視界に映るものが白い。
見慣れているはずの顔も、距離感が掴めず別人のように思える。
つぐみが、手を振っている。青ざめた顔で。
こっちを睨むようにして、そのスニーカーが、どんどん床から離れていく。
溺れたように、手を振っている。
必死で何かから逃れようとしている。
ふいに後ろの空間が、波打ったように見えた。
そこから伸びてくる黒い影。まとわりつく空気の濁り。
黒い影がつぐみの腰に巻き付いたと思った瞬間。
つぐみはもうどこにもいなかった。
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