第4話 一人芝居
『ボクは前に進む。願いを叶える。この身体がどうなっても!』
胸の辺りで左手をにぎる。
心が満たされていく実感を知ったからこそ分かる、
それでも決して埋まらない場所。
『おいやめろ! もうたくさんだッ! 身をもって知ったはずだ。自分が自分でなくなることが、どれほど辛く耐え難いことか! 助けは誰も来ない。ここまで後ろを振り向かず、檻の果てまでたどり着いたから!』
この場所がある限り、悩み続け、やり切れない気持ちに振り回される。
不安になって、済ませたはずの後悔を繰り返す。
『ならキミは、願いを叶える為に乗り越えなければならない障害ってわけだ』
この場所がある限り、想像し続け、他の心を理解しようと努力できる。
心を許して、受け入れることを増やしていける。
胸の辺りを左手で指差す。
『ボクたちは憶えてる。この場所を思うとき、分かり合える気持ちになることを! だから途中で歩けなくなって倒れても、先に進む。みんなでそう決めたんだ! この心にキミが入り込めやしない……お前なんか少しも怖くない!』
檻の果て、一番印象的なシーン。
お互いの価値を認め、変わっていく上で生じる心の隙間。
また檻の隙間から暗示する未来を振り切ろうと進んでいく。
そんなイメージが自然と浮かぶ。とても一人芝居とは思えない。
稽古では表現と動きが何度やっても合わなくて、本来小屋入りからのはずの衣装を着て、未羽の熱演で やっと今日形になった仲間が次々に助けに来る見せ場のシーン。でもこの人は、自分の舞台練習の合間、気晴らし程度でここまで芝居を打てる。
誰も拍手をしない。理由はいろいろある。
純粋に演技に引き込まれていたのも、確かだ。次の場面に入ろうとしたのか、あるいは休憩を入れようと振り返った時、私と眼が合う。
「……煮詰めの自主錬か? もうそんな時間なんだな。すぐ片付ける」
スイッチを切り替えるようにふうっと息をつき、松木さんがこっちに向かってきた。汗だくで。そして裸で。
ああいや、下着は履いてるよもちろん。でもそれって裸だよね。
衣服がそこらじゅうに落ちてる。練習中にそのまま脱ぎ散らかした感じだ。
タオルに靴下まで。
「マツキ先輩、えっと……タオルどうぞ」
「おお、つぐみか。ありがとう。久しぶりだなあ」
耳まで真っ赤になったつぐみからタオルを受け取り、松木さんは乱暴に顔を拭う。男の人の汗と、タバコの臭いがこちらまで漂ってくる。
変質者、変態、キモい――と初対面なら誰かが言うかもしれない。
実際その通りなんだけど。つぐみの立場を尊重して表現をするなら、
松木さんはなんというかさっぱりとしたキモさがある。ジメジメしてない。
あけっぴろげな、オープンな変態なのだこの人は。
すぐ服を脱ぐ。明かりを消して真っ暗で稽古する。部屋の隅っこで体育座りをする。タバコが好きで、喫煙スペースが近いからこのレッスンルームに入り浸ってる、と前に言ってた。
なので幸か不幸か、児童劇団のメンバーとは一番交流がある。
そして、舞台役者としての格が違うのは、いま観た通りだ。
劇団JINの中で若手有望はと言えば、まず最初に名前が出てくる。
飛び抜けた才能。周りを安心させる愛嬌。病的なまでの練習の虫。
疲れて倒れるまで稽古を重ね、そのまま飛び起きて本番へ向かう――そんなイメージがある。
……でもやっぱり、服を脱ぐ必要はない気がする。
「マツキ先輩。えっと、これ、シャツです」
「あたし達もいるんですから、止めてください。いつか捕まりますよ!」
「んん……悪いな。恩に着る」
恩はいいから服を着てほしい。
目を背けているつぐみはともかく、未羽は結構こういうことには厳しい。
未羽と松木さん。JINプロ児童劇団と劇団JIN。
お互い、数年はそれぞれの劇団の中心になるだろうし、変に遠慮がない分いい関係かもしれない。
まだうっすらと汗がにじむ松木さんの肌は白くて、日に焼けていない。
朝早くから夜まで納得のいくまで稽古をして、日中外に出る時は遅めの昼食か仕事で出る時だけ。
スタジオに寝泊まりしてるって噂があるくらいだし。ここに来れば顔を合わせない日の方が少ない。
半裸の松木さんからいきなり緩みが消えた。真剣な表情。
あ、これ口先でごまかそうとしてるな。なんか分かる。
「なるべく肌で空気を感じた方が、魂のこもった芝居が打てる。だから……」
「だからって脱がれても困ります!」
「む、昔はなあ裸になることで、新人の羞恥心を消す、練習だったんだぞ」
「マツキ先輩、ウチたちもようやく新人から若手になってこれた実感があります。なので、先輩にはもう必要のない練習だとは思いますよ」
「で、でもな。初心に帰るのも芸のうちだろ? たまにゃあ良いじゃないか」
「えっいつも脱いでるじゃ……ないですか」
うっかり敬語を忘れそうになる。危ない危ない。
いくら松木さんが変態だということ以外は面倒見が良く、先輩風を吹かさないとしても、
上下関係の礼は尽くさないといけない。
「……そうだったか? まあ細かいことは置いておいてだな」
「いいから服を着てください! いつまで脱いだままなんですか!」
「あ、あとはGパンだけだし、すぐ履く。……即興にしては悪くない演技だったろ?」
「はい。『第九』のあの場面、ひなやみうの練習を見てたんですか?」
「たまにちらっとな。やるのは聞いてた。初日公演は今週末からだったよな」
私達が今回演じる『第九番のキセキ』は、日本中誰でも知っている分、質の高い演技と表現が求められる。と紙谷さんにさんざん言われた。
今日の練習で達した完成度になっていなかったら、団員の誰かは見て自信を無くす――それほど真に迫る表現だった。
少なくても私は、目指していた演技の高さと遠さを思い知らされた。
「あたしたちは何回も小返ししたんですが……悔しいけど、本当に凄いです」
「ふふん。腕の良さを見直したろ? 惚れ直したろ?」
「……えっと、まあ、初めて練習を見た時から、それは思ってましたよ」
つぐみのいじらしさで、大分気持ちが落ち着いてきた。
私達を見る松木さんの目が、優しい。いつもいつも、誰にでもこの顔をする。つぐみの気持ちを知ったら、ほんの少しでも変わるんだろうか。
「実を言うとな。『第九』はずっと昔に演じたことがあるんだよ。即興ではあった。だが、昔取った杵柄って奴だ。役者の肌が、憶えてたってもんだな」
「ええっ! 知りませんでした! いつの話ですか?」
「……もう10年も前になる。久しぶりに、懐かしいって気持ちになったよ」
「その頃だと、ウチたちと変わんない歳ですね。マツキ先輩は『何役』だったんです?」
「とうっぜん主役! と言いたかったんだが当時、俺より上手い奴がいてな」
それでも主役に次いだ役どころを貰ったよ、と言うと未羽とつぐみが歓声を上げ、話がしばらく盛り上がる。
また。またこの感情だ。
私は、黙っていた。私は笑顔を作れているだろうか。
胸の辺りをおさえる。『第九』の主要人物がするみたいに。
いつからかふつふつと沸き立つようになった感情を、押し留める。
* *
「マツキ先輩。ウチ、オーディション受かったんです! 三つとも!」
「すごいな。お前のことだ、でかい選考しか狙ってなかったろ?」
「はい! 時間は掛かっちゃいましたけど、CM子役2本と、藍の劇場ドラマの脇役を貰いました!」
「つぐみちゃん、本当に頑張ったんですよ……」
「涙なしには語れないこともあるんだろう。小さな体で、よく頑張ったな」
「そんなことないです! ウチが自分を見失わずに頑張れたのは、家族がいたからで。何よりひなとみうと、マツキ先輩や仲間たちのおかげです! やっと胸を張って、ここで話せるようになって嬉しい……」
まぶしい。
届かない。私じゃ届かない。
何度も繰り返して、とっくに分かってるんだ。
練習も、才能も、気持ちも。足りないから届かなかったんだよ。
そうだ。
目の前にいる三人は目標があって、それに向かっているから輝いている。
頑張って、頑張って。主役に選ばれれば、自然とそうなるって思ってた。
松木さんが変態でも、決める時は決めるって認められてるように。
未羽が笑う場所、落ち込む場所が自然と劇団の中心になっていくように。
つぐみがオーディションに何回落ちたって諦めず、自らへスポットライトを向けさせたように。
何でもない自分でも、いつかすごい自分になって、
輝けるようになれるかもって思ってた。
私は舞台から降りる。もうあの光を目指すことはない。
充分な答えも、ゴールも。勝ちや負けも心には残らない。
ただ夢だけが、明るい色を無くしていく。
私は、私は。私は――
「ひな」
松木さんがこっちを見ている。相変わらず優しい顔をしてる。変態のくせに。思えば怪しい言動や行動の多くは、私達の気持ちや緊張をほぐすためだったような気もする。
確実に、自分の性癖から来ているものもあったけど。
「つぐみ。みう」
大事そうに名前を呼ぶ。
返事をせずにみんな顔だけ向けた。
「お前ら三人を含めて、今の児童劇団はいい芝居を打てるようになった。今日の練習も感触つかめたんだろ? 誰も煮詰めにここへ来ないからな。個性や演技がぶつかった上でひとかたまりになる……そんな奇跡みたいな若いメンバーが揃わないと『第九』は公演の候補にも挙がらないんだ。ガミさん――紙谷さんも認めてるんだよお前たちを」
ま、俺の世代でもやったけどね。と自画自賛を挟む。
劇団の人達はほぼ例外なく身内に厳しい。腕を磨く仲だって理解してはいるが、それでももう少し外部の助っ人に声かけるみたく、にこやかであって欲しい時がある。松木さんだって、茶化すことはあっても他人を褒めない。なのに今日は、どうしたんだろう。
「仲間の和を取り持つだけじゃ、ただの仲良しクラブで。まとめる奴の言葉が強すぎても、縮こまるだけ。極端に上手い奴や下手な奴がいても、誰かが芝居の質を全体に合わせちまう……毎年、入ってくる新人を見てるとな、何となく分かるんだ。どういう形になっていくか」
私達一人一人を見て、個々に思い当たることを言う。
松木さんは十数年、児童劇団から芝居に打ち込んだ身だ。
繰り返していく出会いや別れに、懐かしさを感じているのかも。
「お前らは、近年どの期生よりも団結してる。衝突はするが仲はいいしな。舞台を離れたってまたこんな風に話せる関係だ。そりゃあいいもんだよ」
やっぱり、私に向けてる言葉も多い。松木さんには言ってないのに。
目標を諦めたこと。道を閉ざした人たちの一人になったこと。
「ここには練習じゃなく、懐かしみに来たんだろ? ちょっと遅いが、休憩して昼飯でも食ってくるよ。一階は大道具班が騒がしくしてたからな、冷やかしには行くなよ?」
言うだけ言って、松木さんはレッスンルームから出て行った。
私の気持ちを察して、晴らそうとしてくれたのかな。
横にいる未羽とつぐみは、涙をこらえてる。我慢しなくてもいいのに。
私達は全然似ていない。好きな物も違えば、演技の方向も違う。
休みなく何時間でも話せるけど、練習じゃ本気で言い合って熱くなる。
それでも。同じ夢を目指していたことと、
すぐに感動しちゃうとこは、ぴったり同じだ。
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