第2話:秘密の場所
「ミキは人間なの? イルカなの?」
ぼくはイジワルになってみる。
「その両方に決まってるじゃん」
彼女はぼくより少しウワテだ。
「つまり、ミキは自由になりたいんだね」
ストレートで危うい問いかけだった。
それでも、彼女の整った眉は涼しげに煙っていた。
黒い瞳を覗かせる二重のまぶたを、彼女は少しだけ細めた。
しっとりと褐色に湿る頬が、形のよい丸みを作った。
十代の少女にふさわしいボリュームを持った口びるが、静かにひらく。
「あんたは、あたしと似てる」
彼女はぼくを見抜いていた。
つまり、彼女もぼくと同じように考えていたはずだ。
海の中の生き物たちと等しく、ぼくたちも大宇宙の偶然から生じた存在に他ならないのだと。
別れが近づいたある日。
「あたしより優秀だよね、息継ぎ」
彼女はぼくを誉めた。
「そんなあんたを見込んで、お願いなんだけどさ、ふたりで行ってみたい秘密の場所があるんだ。もちろん水中だよ」
イルカのように深く無垢な瞳で見つめるミキ。
「あたしと一緒に死ぬ勇気ある?」
凍ったように動かないぼくに、いや冗談だってばと笑いかける彼女は、いつになく真剣に見えた。
今日で最後という日に潜ったところは、いつもと同じだった。
明日はシティーに帰るというのに、別れを惜しむ演出は特になかった。
アオリイカのカップルや仏頂面のロブスターに挨拶をして、いつもの折り返し地点で方向を変えようとした時に、普段と違うことが起きた。
そのままミキは進むのだった。
急に深くなるドロップオフも過ぎて、次第に下がっていく広い砂地になっても、どんどん先へ行く。
華やかに舞っていた魚たちは、いつしか消えてしまった。
遠くのほうでサメの影がゆっくりと移動するのみ。
差し込む太陽光がかすかな青にまで弱くなったころ、ぼくらは海の底にいた。
彼女が指し示した先に、大きな岩があった。
近づくと、岩の根元に穴があいている。
その奥は通信が不能な場所かもしれなかった。
ぼくにも、ミキにも、アクセスしている人間は多数いた。
これ以上進むのは逸脱行為に他ならない。
目配せするミキに、ぼくはうなずく。
迷いはなかった。
彼女の手をとろうとすると、いち早くぼくの腕をつかみ、彼女のほうから力強く泳ぎ始める。
暗闇をのぞかせる穴の中に、ふたりは滑り込んだ。
息継ぎの心配はなかった。
ぼくは優に2時間ほど平気なのだった。
ミキに会うまで自分の能力を知らなかった。
限界を試すような危険なことは逸脱行為とされて禁じられていたから。
一方、彼女は30分が限界だったので、既に危険領域に突入していた。
それでもぼくは落ち着いていた。
いざとなれば口移しすればいいと思っていた。
あとで考えてみたら、酸素の残っていない一息では、どうにもならなかったのだけれど。
曲がりくねった穴の中は、かすかな明かりに照らされていた。
身体をつき動かす何かが、ぼくらを前へと急かした。
でこぼこの壁は、進むうち次第に滑らかになり、やがて金属の通路になった。
枝分かれのない一本道だったのは、眉間にしわを刻んで耐えるミキには幸運だった。
けれど、強靭にしなっていた彼女の身体はいつしかバランスを失い、ついに彼女の横顔が強くゆがんだ。
口から砕けた泡が出た。
その時、ぼくらは明るく大きなスペースにたどり着いた。
とたんに彼女は手を離し、猛然と浮上した。
四肢で大きく水をかき、背筋を緊張させ、頭を上に向ける。
身体をまっすぐに伸ばして。
しなやかに波打たせる。
イルカのようだった。
生命を燃やして生きる命のようだった。
ぼくも負けじと上昇する。
上を仰ぐぼくは、水面に射す光を見た。
ミキの身体を縁どりながらユラユラときらめいていた。
人間の姿をしたイルカのような彼女は、まばゆく、気高く、美しかった。
この一瞬を、ぼくは網膜に焼き付けようとした。
人間がするように。
次の瞬間ぼくの頭は勢いよく水面から出た。
しぶきの中で空気を大きく吸った。
隣ではベリーショートの少女が荒い息を繰り返している。
「死ぬかと思った!」
泣きそうな顔で、彼女は笑っていた。
そこは
かといって、陸地にうがたれた、海とつながる底なし池でもなかった。
大きな部屋だった。
四方の壁は機械で埋め尽くされていて、だいぶ腐食しながらも銀色の光を反射していた。
天井は一面に明るく光り、太陽と同じスペクトルの光線を放射していた。
見逃してはいけない重大な事実が、ひとつあった。
部屋の中が完全にオフラインになっているのだった。
通信が遮断された場所にぼくらが入ることは、固く禁じられている。
したがって、帰って陸に上がった途端、ふたりは拘束されて初期化処置を受けることになる。
それが何だ、とぼくは思った。
ミキと一緒に死ぬ覚悟は出来ていた。
「おそらく、ここは昔の重力波兵器の司令室ね。100%通信遮断構造だし、設備の構成があたしの知識と一致する。エアコンが出してる気体分子組成もピッタリ同じ。予想は大当たり」
立ち泳ぎをしながら、彼女は首をせわしく回してあたりを観察している。
ぼくも手足を震わせて、かろうじて浮いている。
「ミキもここまで来たのは、はじめて?」
「わからない。けど……」
しきりに何かを探していたミキは、それを見つけた。
彼女の全力のクロールを、ぼくは追った。
銀色の壁に手をついて、まっすぐに凝視するミキ。
彫られたキズが金属面に並んでいる。
数字の列だ。
2214、8、21 M
2217、7、 5 M
2219、9、17 M
2221、8、 3 M
2222、8、14 M
訪れた者が残したと思われる、しるし。
「やっぱり何度も来てる」
「このMって、ミキ?」
ふり返った彼女は、満足げに答える。
「そうよ、あたしの字。そして……」
さびしげに付け加える。
「今日で6回目。ということは、これで最後」
ぼくはすべて理解した。
次回はないことを。
彼女にもう明日はない。
「覚悟はしてた」
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