イタリアカサマツ
増田朋美
イタリアカサマツ
イタリアカサマツ
今日も、影浦医院では、影浦千代吉が、患者さんたちの診察を行っていた。その日、担当した患者は、立花公平さんという、少し鬱気味の患者さんだった。
「すみません、三年前に海外より帰国しましてから、急に意欲をなくしてしまいました。なんだか、ナニをするにもやる気がなくつまらなくて、困ってしまいます。」
立花さんはそういうことをいった。
「海外では、コーヒー園で働いてきましたが、日本ではこんな仕事、需要がないですからね。海外にいたときは、私、失敗しないので!と宣言できるほど、コーヒーの木を診断したり、治療したりしてきたんですがね。」
立花さんの、職業は樹木医だ。いわゆる街路樹や、農園にある、樹木の健康診断をやっている。多分、コーヒー栽培が盛んなグアテマラでは、コーヒーの木の診察をやっていたんだろうが、日本では、そのようなやり方の農業は、非常にすくない。
「そうですか。でも、樹木医として、例えば観葉植物とか、庭木とか育てている人は、多いですから、需要はあると思いますよ。もっと回りを見て、積極的にいきるようにしてください。」
と、影浦は言った。
「いまは、需要がないように見えるけど、園芸による癒しを求めている人は多いですから。うちの、患者さんでも、木を育てるのが好きな方はね、結構いらっしゃいます。だから、そのために、樹木医としての自信をなくさないでください。」
「わかりました。ありがとうございます。」
影浦の言葉に、立花さんは言った。できれば影浦は、立花さんにもう一回、私、失敗しないので!と言ってもらえたらな、何て、気がしていた。診察はここまででおわり、影浦は処方箋をかく。
とりあえず、付属の薬局で薬をもらい、立花さんは帰っていく筈なのだが、なぜか、立花さんは、診察室へ戻ってきた。
「先生、どうしても気になることがありまして。」
「はあ、なんでしょう?」
影浦がきくと、
「いやあ、あの、玄関近くにうえてあるカラタチの木ですが、どうも元気がないですね。恐らく、アブラムシかなんかがついて、病気になったのではないでしょうか。あれ、放置しておくと、枯れてしまうかもしれませんよ。薬剤を散布するとかして、治療していただきたいのですが。」
と、立花さんはいった。確かにカラタチの木は、今年はなかなか実をつけないなとは思っていたが、まさかそうなったとは、驚きである。
「さすがは、木のお医者さんですね。的確にカラタチの判断ができるのですから。」
影浦は感心して、そんなことをいった。
「そんな、たいしたことありません。ただ、提案しただけですよ。」
という、立花さん。
「もし、可能であれば、農薬を持ってきましょうか?カラタチの木が枯れてしまうのは、やっぱり嫌ですよね。」
「ええ、じゃあ、お願いします。」
影浦も影浦で、立花さんに、自信をもってもらうために、そんなことをお願いした。
翌日、立花さんは、農薬散布機をもって現れ、まんべんなくカラタチの木に農薬を散布した。それには影浦も立ち会った。すぐに変化が現れる訳でもないけれど、カラタチの木は、薬がもらえて喜んでくれているのだろうか。
「よし、これで様子をみてください。二、三日したら、また農薬を散布します。」
という、立花さんは笑っていた。本領発揮できて嬉しいのだろう。人間誰でもそうだから。
「じゃあ、すみません。カラタチの治療をお願いします。」
影浦は、軽く一礼する。ここでわかりました、私、失敗しないので!といってくれれば最高なのだが、まだそれは出なかった。
立花さんは、三日に一度ほど、影浦医院にやってきて、カラタチの木に農薬を散布した。カラタチの木は、次第に威勢を取り戻してくれて、またたくさん実をつけてくれるようになった。よかったよかった、と影浦は喜んで、立花さんが診察に来てくれたとき、農薬の費用として、三万ほど包んだ。
「いや、こんな大金、いただけませんよ。影浦先生。」
と、立花さんは言っているが、
「いいえ、僕たちは、カラタチの木のことについて何も知りませんから、貴方がカラタチを治療してくれて助かりました。なかにはカラタチの木を、スケッチしたりする方もいらっしゃいます。枯れてしまったら、その楽しみもないでしょうから、やはり素晴らしいことですよ。ですから、御礼として、受け取ってください。」
と、影浦はいった。
「できれば、これからも、樹木医として、やっていけるといいですね。」
そういったのだが、まだ立花さんは自信が無さそうな感じだった。
数日後。
影浦は、水穂さんのところに往診に行った。丁度そのときは、杉三がいた。
「へえ、そんな、優秀な樹木医がいるんですか。」
水穂も、杉ちゃんも、ビックリした。
「ええ、何でもうちの病院に生えていた、カラタチの木を、的確に治療してくれました。ぼくたちも、同じような医者でなければならないと、痛感しましたよ。」
影浦は苦笑いしながら、そういうことをいう。
「ほんじゃあ、お願いしてみようぜ。製鉄所の中庭に生えている松の木。あれをみてもらおう。」
杉ちゃんが、そういい出したであるが、水穂は、でも、と躊躇した。確かに、中庭にの池の近くに、松が一本植えられている。種類としてはいわゆる、日本によくある松ではなく、大木になって傘様になる、イタリアカサマツであった。時折、杉三がその松の実を取って、料理に使うときがあった。
「いや、良いんじゃないの?松が枯れたら困るし、そんなことをしたら、新しい松を植えなきゃならなくなるし、それは、めんどくさいしな。」
杉三は、松を顎で示した。本来松は、一年中葉をつけているはずなのに、その松の木は、かなりの葉を落としていた。
「そうですね。確かに松が葉を落とすのは問題ですからね、じゃあ、ちょっと彼に言ってみます。」
と、影浦はにこやかに言った。
次の診察のとき、立花さんは、やっぱり落ち込んでいた。鬱というものは、すぐにホイホイとなおるものではない。それは、仕方ないところだ。鬱は心の風邪といわれることも多いが、一般的な風邪のように、すぐになおるというものではないのが、大きな違いだった。
「御気分はどうですか?」
影浦が、きくと、
「はい、やっぱり悲しい気持ちが続いていて、落ち込んでしまいます。自分はだめだとか、そういうことばかり考えてしまって。」
と、立花さんはこたえる。
「そうですか。薬が効いてきたら、庭を散歩するとか、そういうところをやってみてほしいのですが。」
「そうですね。できれば外にも出たい気持ちもありますが、どうしても自信がないんですよね。家族は、もうこんなに自信がなかったのかの一点張りです。僕はそれほど、自信過剰だったんですかね。」
という立花さんに、影浦は、
「自信過剰ではありませんよ。グアテマラにいたころは、樹木医として需要があったから、私、失敗しないので!という言葉が出るくらいだった。それだけのことです。人間、環境で、かなり変わってしまうものですからね。人間の本体は変わらないのに、環境がかわってしまうと、順応できなくて、落ち込んだりするんですよ。それは、過去が、あるから落ち込むということもあるでしょう。」
といった。
「そうですか。では、私は、過去にいろいろやり過ぎて、舞い上がっていたのでしょうか?」
立花さんがきくと、
「それはありませんよ。たんに、環境が変わっただけのことです。大切なことはね、それにむけて、意識を変えていくことができるか、ということですよ。このとき、勝つとか負けるとか、そういうものを持ち出してはなりませんよ。それよりも、変わったことにたいして、じゃあ、どうしようか、を考えることが一番大切なんですよ。それさえできれば、鬱というものはとれます。」
と、影浦は答えた。
「わかりました。ありがとうございます。頑張って自分の環境を、考えてみます。」
という、立花さんに、影浦は、
「じゃあ、きっかけがないと変われないこともあるでしょうから、ちょっとお願いをしてみましょう。僕の知り合いの、お宅の松の木が、枯れはじめているので、松の木の診察をお願いしたいんです。やってもらえますか?」
と、話を切り出した。
「はあ、それはどんな松なんでしょうか?」
と、こたえる立花さんに、影浦はうまくいくかな、と、身構える。
「ええ、そのお宅の中庭に生えている笠松の木です。比較的小さな松の木ですが、中庭の風景を作るためには重要ではないかなと。」
「そうですか、わかりました。ちょっと松についてもう一回調べてから、お伺いしてもよろしいですか。松は種類によって、かかりやすい疾患とか、いろいろあるんですよ。」
と、立花さんはちょっと考えながら言った。
「わかりました。では、松の木の診察、お願いしますね。」
影浦は、結論を出して、処方箋をかく。もし、患者さんが世の中に必要とされていると思うことができれば、もう薬は必要なくなって来ることも、知っていた。
「そうですねえ。やってみます。僕がどれだけその木に役に立つかどうかわかりませんけど。」
多分、自信を無くしているからそういうことをいうのだと思われるが、一回自信がついてしまえば、それ以降は割と、とんとんと行ける人が多い。大体の人は、みんなそうだ。特別な事情でもない限り、今の世の中はそういう事ができるようにできているから。
「それでは、よろしくお願いします。」
影浦は改めて、それを言うのだった。
数日後。影浦から渡された地図をもって、立花さんは製鉄所に訪れる。
「ここか。ずいぶん立派な建物ですね。」
いわゆる日本家屋のような、製鉄所というより、大規模な日本旅館という感じの建物である。
「すみません。あの、影浦先生の紹介で来ました、立花という者なんですが。」
とりあえず、挨拶ができるだけでよかった。鬱の人は、立花さんのように、挨拶ができる人もなかなか少ないので。
「ああ、来てくださったんですか。」
応対したのは、杉三であった。
「ずいぶん、頼りなさそうな、木のお医者さんだな。」
もし、以前の時なら、私、失敗しないので!と自信をもっていえたと思う。だけど、今はそういう言葉は出なかった。
「まあ、いいや。患者というのかな、その松の木はこっちだ。」
と、杉ちゃんは、彼を中庭に連れて行った。
「この松の木だ。まあ、見てのとおり元気はないな。」
杉三は、その木を顎で示した。確かに、大木ではない、少し大きいだけの松の木である。まだ樹齢は、さほど老いていないと、立花さんは見てすぐにわかった。そんな松が、枯れてしまうというのも、なんだかもったいない話だ。
「じゃあ、頼むよ。あの松がどうして、元気がないのか、シッカリ原因を突き止めてくれ。」
「わかりました。ちょっと、このサンダルを借りてもよろしいですか?」
「いいよ。」
立花さんは、中庭用のサンダルを借りて、中庭に出た。松の木は、池のすぐ近くに生えていた。その隣には大きな岩があるが、松の成長を妨げているわけでもなさそうだ。確かに松は、この時期には似合わないほど、かなりの葉を落としている。
「どうしたの?誰かお客さん?」
不意にふすまが開いて、水穂が顔を出す。
「おう、あそこにある松の木が、かれそうなのはお前さんも知っているだろ。だから、今日は、松のお医者さんを連れてきたという訳。」
と、杉三は説明した。
「そうなんだね。」
「おう。もう、松の実がとれなくなって困ってるんだから、すぐに何とかしてもらわんと。松の実、おいしいもんね。ジェノペーゼのパスタとか作るんだから。あれがないと、ソースがうまくならん。松の実を食用にするなんて、一寸おかしなことかもしれないけどさ、松は食料にもなる。」
「杉ちゃん、あんまりべらべらしゃべるのはやめようよ。松の診察の妨げになるでしょ。」
「ああ、すまんすまん。僕はちょっとしゃべりすぎだなあ。」
杉三は、頭をバシンとたたいた。
その間にも、立花さんは松の観察を続けていた。まるでその顔は、病理医が、細胞を一生懸命観察しているのにそっくりであった。
「そうですね。」
と、立花さんは言った。
「この松は、日本によくある、黒松や赤松ではなくて、ヨーロッパによくあるイタリアカサマツです。その証拠に、ちゃんと枝が傘様になっています。」
「そんなこと知ってらあ。松の実を取るために植えたんだもん、食用にするためにさ。」
杉三がすぐに口をはさむ。
「まあ、日本でも育たないことはないのです。園芸店でもノエルツリーとか、アンブレラパインとかそういう名前で販売されています。しかし、もともと、ヨーロッパで育っている松ですからね、日本の高温多湿になじめないんでしょうな。それで、かなりの葉を落としたのでしょう。其れしか考えられませんよ。病気の原因になりがちな、松くい虫も見当たらなかったし、カイガラムシとか、カミキリムシなどの害虫もいませんでした。しっかり手入れはされていますし、特に剪定のし過ぎという事もなさそうですので、、、。」
立花さんはそう解説した。
「まあ、松もペットと一緒だ。ちゃんと水もやっているし、肥料も月に一回定期的にやっているさ。其れなのに、なんでこんなに葉を落とすのか、不思議でしょうがなかったよ。じゃあ、僕たちは、こいつにどうしてやればいいのさ。」
杉三が、すぐに口をはさんだが、
「いや、どうしてやればいいのさって、言われても、水も肥料も定期的にやっていらっしゃるようですし、剪定もしっかりされています。ですから、松にとっては申し分ありません。」
と、立花さんは言った。
「じゃあなんだ、なんの問題なんだよ。水道の水が悪いの?それとも土が悪い?あるいは肥料の種類を変えるの?」
「いえ、松にとって、それはあまり重要なことではないんですよ。松は、比較的丈夫な植物で、肥料や土をあまり選ばないのですが、そうですね、なんと言ったらいいのでしょうか。この松は、人間の言葉を借りて言えば、故郷が恋しいんでしょうな。イタリアの暖かいところが懐かしいのかも知れない。まあ、そういう事を運命付けられた人間もいますが、そういう人間には、周りの人が何かするでしょう。ですから、この松もそういうことをしてやってほしいんですよ。」
と、立花さんは解説した。そういうことを言っても通じるかどうかは不明だったが、杉ちゃんも水穂も、真剣な顔をして、それを聞いている。
「だけどさあ、僕は、ジェノペーゼの松の実を取るためにこれを植えたわけで、単にすきだからとか、そういう単純な理由で植えたわけじゃないんだよね。逆をいえば、僕のジェノペーゼは、こいつのおかげでできているようなもので、、、。」
杉三がそう言って頭をかじった。
「じゃあ、そういうことをもっと松に強調してくれませんか。松は悲しいんだと思うんです。あの、これはよく言って聞かせるんですけどね、松でも竹でもなんでも、ただ生えているものではありませんよ。
松であろうが何であろうが、植物はちゃんと生きているんですから。人間と同じように、松にも心があるという事を、忘れないでください。」
立花さんは、そういう風なたとえを使って、自分の言いたいことを伝えた。勿論、松は、言葉もなければ、声に出して何かをいう訳でもないけれど、ちゃんとこうして態度で示すことがあるのだ。
「わかったよ。僕が、こいつに、お前さんがつけてくれる実を、パスタソースにするために、必要としていると言ったら、こいつは、葉を落とすのをやめる、そういう事なんだな。」
杉三は、腕組みをしていった。
「そうですねえ。できれば、こいつという言い方はしないでください。松であっても、人間と同じようにちゃんと生きているんですからね。そういう日頃から乱暴な言い方をされているから、もしかしたら、この子も傷ついているのかもしれませんよ。」
「この子、ね。いいなあ、松をそうやって、子どもみたいに可愛がってやれるんだからよ。そういうやつはさ、どんな奴でも見捨てないよな。」
杉三は、立花さんを見てカラカラと笑った。
「松もまた、命なり、か。」
そこへ、松ではなく人間の泣き声がしたので、杉三と、立花さんは後を振り向く。後に居たのは間違いなく水穂だが、その顔は泣いてはいない。でも、右手にチリ紙が握られているので、泣いていたとわかる。
「馬鹿。お前さんが泣いてどうするの。お前さんもさ、松と自分の人生は重ね合わせちゃだめだい。松は、松、お前さんはお前さんだ。それと重ねて泣いたって、だめなものはだめさ。」
杉三が、半分笑って、そういうと、水穂は、
「ううん、松でもこういう風に言ってもらえたら幸せだろうなと思って。僕は、そんな風に扱われたことは一度もありませんもの。どんなに実をつけたって、自分のものにすることは、絶対にできませんでしたから。」
と、顔を拭きながら言った。すると、立花さんも、それを聞いて何か感づいたらしい。
「そうですか。あなたも、この松と同じように、独りぼっちだと思っていたんですか?」
そう尋ねる立花さんに、水穂は少しどもりながら、
「え、ええ。独りぼっちというか、ただ、何をしても、それを自分の成果にできる身分ではなかったという事です。」
といった。立花さんはにこやかに笑って、
「其れなら、この子と十分分かり合えます。この子と、そういう気持ちを分け合ってやってください。」
といった。水穂は、何を言っていいのかわからず、しずかに頭を下した。
「へえ、松と人間の面白いカップルの成立!」
杉三がカラカラと笑うが、立花さんはそれを戒める。
「いいえ、松は一年中葉をつける神の木とされてきました。そのような扱い方をしてはなりません。松だけではない。もっと周りの人を、大事にしてくれれば、もうちょっと、生きていくのは楽になれたのではないでしょうか。」
「そうだなあ。」
杉三がにこやかに言った。
「僕ももうちょっと、周りのやつらを大事にしたほうがいいな。」
そうやって、杉三は頭をがりがりかじった。
「あの、本当にありがとうございました。松を的確に診断してくださいまして。」
水穂が礼を言うと、立花さんは、もう一回、にこやかな顔になって、
「ええ、大丈夫です。私、失敗しないので。」
と、照れくさそうに言った。松が、そよ風に揺れてゆさゆさと枝を動かしていた。
イタリアカサマツ 増田朋美 @masubuchi4996
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