第17話 エピローグ
木々がそよいでざわざわと鳴り、風が吹き抜けたことが分かった。それを合図に、静まり返っていた一同もざわざわし始めた。シモンは有頂天になった。師ははっきりと、自分の上に教会を建てるのだと言ったのだ。それがどういう意味なのかはよく分からなかったが、それでも自分のことが認められたということだけは間違いない。アンデレなどは心なしか、涙ぐんでいる。ここで何か、気の利いたことを言わなければ、と思うのだが、言葉が出てこない。アンデレの方を見たが、さすがにこの頭の良い弟にもとっさに何を言うべきなのかは分からないらしく、潤んだ目線をじっとシモンに返すのみである。
「お前たちに言っておかなければならないことがある」
師が顔を上げて再び一同を見回し、話し始めた。それまでの柔らかな、温かみのある声とは一転して、硬質な、険しさを伴う口調だった。誰もが考えたのは、いよいよ決起の時が来たのか、ということだった。救い主キリストであるというシモンの告白を正面から受けとめた直後なのだ。緊張が、走る。
「わたしはこれから、エルサレムに行き、そこで捕らえられ、殺されるのだ」
何を言われたのか、誰もが理解できなかった。一体何を言っているのだ。いよいよ決起するのか、という状況で、よりにもよって殺されるとは、冗談にもなっていない。これまで師のことばや奇跡には驚かされ続けてきたが、これは比較にならない。意図をはかりかねて眉をひそめている者、開いた口がふさがらない、という者、不安で泣き出しそうな者、と様子はそれぞれだが、全員がそのままで固まってしまった。身じろぎもできず、息をひそめている中で、とっさにシモンが口を開いた。今こそ、自分の出番だ。
「皆を驚かせないでください。そんなことが起こるはずないじゃないですか。悪い冗談は止めにしてください」
そうだ。そんなことがあっていいはずがない。この人こそ、ローマを追い出して、イスラエルを再建する救い主なのだ。自分たちはそれについて行こうと宣言したばかりなのに、そんな決意を砕いてしまうようなことを言われては困る。シモンは一同の考えを代表して、師に苦言を伝えた。そういうことも、自分の役割だろうと思った。何と言っても、礎の岩、なのである。
ところが、シモンのそんな思いを知ってか知らずか、師の反応は全く予想に反するものだった。シモンに向き直った顔には、さきほどまでの慈愛に満ちた笑みはなく、激しい憤怒が前面に出ている。
「引き下がれ、悪魔の子よ。お前は神のことを思わないでわたしの邪魔をしているのだ」
律法学者やヘロデ党の者などにすら向けられたことのないような厳しい言葉が、たった今、教会の礎にしようとまで言ったシモンに対して、投げつけられた。シモンは口を半分開けたまま言葉を失い、その場に座り込んでしまった。師の肩の向こう側に、ヘルモン山の鋭い山頂が、青空を切り裂くようにしてそびえ立っている。また一陣、今度はもう少し強い風が吹き抜けて、木々が先ほどよりも大きく、揺れざわめいた。
ピリポ・カイザリヤでの宣教を終えた一行は、そこで折り返して南に向かった。カペナウムを経て、エルサレムに向かうのだ、と師が宣言したためである。師に厳しく戒められたシモンのことをアンデレたちは案じていて、かけてやるべき言葉を探しあぐねていた。きっととても傷ついただろう。調子に乗ってしまったのだろうとは思うが、悪気がなかったことは誰もが認めている。もしかすればそのまま、カペナウムまで、逃げ帰ってしまうのではないだろうか。
けれども、当のシモンはアンデレたちの心配をよそに、再び旅に出発する頃にはすっかり気を取り直していた。
「なんて言ったって俺は、何度も先生に助けられているんだ。いざという時には一番乗りで手柄を立ててやるさ」
と相変わらずの朗らかさで言ってのけたものである。ユダなどは少々あきれていたが、少年の頃からシモンのおおらかさを見てきたアンデレは、色んな競争に負けても、
「また負けちゃったなあ」
と陽気に笑っていたシモン少年の姿に重ね合わせて、
「にいちゃんは、変わらないなあ」
と嬉しそうに苦笑するのだった。
しかし、南に進むにつれて、一行の胸の奥には、そうした陽気さとは裏腹に言い知れない不安がわだかまりつつあった。ピリポ・カイザリヤでの宣言以降、師は繰り返し自分が捕らえられ、殺されるのだということを口にするようになっていたからである。そんなことがあっていいはずがない。ローマの支配を退けて、イスラエルを解放するはずの、救い主キリストだ。そう信じて、従ってきたのだ。
師はよく、たとえを用いて教えを説く。これが何かのたとえなのだとすれば、一体どういう意味なんだろう。誰もが気にしながら、直接尋ねることを、恐れた。シモンのような無邪気な男をもってしてもそれは同様で、むしろつとめて考えないようにしているとさえ、思われた。
「いいさ。何にしたって、俺がきっと一番の手柄をたててやるさ」
深く考えることが苦手なシモンは、自分の荷物をそっと握り直してみた。ユダから借りた古びた剣が一振り、おさめられていた。
「あなた、どうされたのです。眠れないのですか」
寝台から起き上がって、月を見ていたピラトの肩に、妻の手がそっと乗せられた。ピラトはその手に自らの、軍人にしては繊細に過ぎる白い手を重ね、
「大丈夫だ。何も問題はない。ただ少し喉が渇いたと思ってね。この地方の空気は、ローマに比べてずいぶん乾燥しているようだ」
そう、望みもしないが、こんなところへやってくることになった。かつてクレニオ将軍が赴任する前に、将来のユダヤのことは頼んだと言われ、冗談ではないと思ったものだ。皮肉なことに、自分には関係ないと思っていたそのユダヤに、送られることになった。しかし、厄介だと言われているこの地方で総督の任を務めあげることができれば、皇帝の評価も高くなる。何事もなく治めて、早々にローマに凱旋するのだ。そのためには、あのアンナスとカイアファという大祭司たちを、うまく扱わなければならない。恐らく、領主であるアンティパスやピリポなどよりも、彼らの方がこの地方の民をよく掌握しているだろう。幸い彼らは、民のことよりも自分たちの神殿のことに熱心だから、そのあたりは言い分をなるべく認めながら、こちらの命令にもうまく従わせる関係を作っておくことだ。
乾いた月を見上げながら、ピラトはローマへの想いにいつまでも浸っていたいと思った。
お前を岩と呼ぶことにしよう 十森克彦 @o-kirom
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