第16話 師と弟子たち
ガリラヤ湖の向こう岸の空を、朱色に染めていた夕日の最後の光が消えようとしていた。シモン達の舟よりも一回り大きなその舟に、十二人が乗っていた。シモンとアンデレの他に熱心党のシモンやケリヨテのユダもいた。あきれたことに、徴税人のレビまでいた。ナザレのイエスという男は、彼らにとって師となっていた。
舟の上でひれ伏した一週間後、やはり湖畔で、父のヨナと三人で網を洗っていたシモンとアンデレに向かって、岸辺に立った男は言った。
「わたしについて来い。お前たちを、人間を獲る漁師にしてやろう」
シモンは、それを聞くなりはじかれたように立ち上がり、舟も網もそのままにして、駆け寄った。駆け寄ってからシモンは、恐らくそれを自分が待っていたのだと知った。男の言葉に従って網をおろした時から、あるいはドナが起き上がるのを目撃した時からか。いや、もしかすれば、ドナの家の前で初めて目を合わせた時からなのかもしれない。とにかく、決断をするのに何のためらいも感じなかったのは確かだった。
アンデレはやはりシモンが決断することを待っていた。熱心党の時とは異なり、迷いはなかった。ヨハネのところで洗礼を受ける姿を見た時から、心の中では決めていた。仮にシモンが決断しなかったとしても、自分一人でも、今度はついていこうと思っていた。だからシモンが自分よりも先に立ち上がり、駆け出したのを見て、うれしさのあまり、頭の中がしびれるような気がした。シモンよりもやや遅れてアンデレが立ち上がったのは、そのためだった。
シモンはナザレのイエスに呼ばれ、アンデレと二人でヨナを残してナザレの男について行った。それから数日の間は、カペナウムの町で教えを説いて回り、連れて来られた病人をいやしてやったりしていた。しかし、他の町に行こう、と言われたとき、シモンはいよいよアマンダに告げなければならないということを悟った。
いつもより早めに家に戻ったシモンは、食事の用意をしているアマンダの隣に座り込んで、もじもじしていた。
「なに、どうしたの、シモン」
アマンダに声をかけられて、はっとして顔を上げ、何かを言おうとするのだが、言葉がうまく出てこない。
「あの、いや、その」
と口ごもるばかりの姿を見て、アマンダは作業の手を止めてシモンの前に座った。その手を取り、顔をのぞき込んで言ったものだ。
「あの人に、ついて行きたいのよね」
明らかにシモンの肩がびくっと大きく震えた。
「し、知っていたのか」
シモンにすれば、このところ漁に出かけるようなふりをして家を出ていたので、アマンダにはまだ気づかれていないと思っていた。
「お義父さんから、聞いているわよ、全部」
仕方ないわね、という具合に苦笑しながら、アマンダは言った。
「手ぶらで出かけて手ぶらで戻ってくる。それで気づいていないと思っていたということの方が、どちらかというと驚きだわ」
「すまん、アマンダ。俺はさ……」
「あの人こそ、待っていたキリストなんじゃないだろうか。そう思っているんでしょう。私も同じ。きっとそうよ。だって、母さんの熱病をひとことで癒してくださったんですもの。それに、私の魚料理がおいしいと言ってくれたわ」
気がかりは父のヨナだったが、出発の朝、ヨナは引き留めるどころか、
「わしのことは心配いらん。一人でも、自分が食う分くらいなら、まだまだ元気に漁もできる。お前たちがやりたいことをやってみればいい。ただ、アンデレはいいとしてもシモンよ、律法を覚えるのにさんざん苦労したお前が、ついていけるのか、と心配ではあるがな」
とあっさりしたものだった。アマンダにいたっては、
「母さんを助けてくれた方だもの、本当だったら私も行きたいくらいよ。というか、私もそのうち、加わるつもりにしているわ。それまでにお義父さんが心配しているように、シモンはしっかり学ばせてもらうのよ。やっぱり無理だ、なんて言って戻ってきても、追い出すからね」
としたものだった。シモンもそのあたりは内心少々心配ではあったが、
「お前こそ、途中で来ても追いつけない、なんて泣き言は聞かないからな」
と強がってみた。ただそのやりとりをするうちに、しばらくアマンダと離れ離れになるのだということが実感されてきて、シモンの方が泣きそうになり、
「じゃあな、先生が待っているから、もう行くぞ」
と強引に打ち切って、出発した。
シモンにとってもアンデレにとっても、満たされた時間だった。弟子はどんどん増えていった。熱心党のシモンとケリヨテのユダが加わったのは数日後だった。カペナウムからベツサイダに向かっていた時に、自ら名乗りを上げてきた。アンデレが驚いていると、
「賭けてみることにしたのさ」
とユダは言った。
「何人くらいいたかな」
舟の上でシモンが言った。ガリラヤ東岸の地方を回っていた時、ヨハネが獄中で首をはねられた、という知らせが届いた。それを聞いた彼らの師は、悲し気にため息をついて、ひとり町はずれの原野に向かった。
シモン達が恐る恐るついていくと、群衆も同じようについてきて、おびただしい集団になった。師はそれを見て教えを説きはじめ、やがて空腹になった彼らにパンを配るようにとシモン達に命じた。
手元にはパンが五つだけだったが、師が祝福して割いたものを受け取り、配り始めると、止まらなくなった。気が付けば、原野を埋め尽くしていたその群衆全員に十分なパンが配られていた。シモン達はそれぞれ何百人かずつにパンを配って回ったので、配り終えるころにはへとへとになっていた。群衆を解散させた師は、そのシモン達を舟に乗り込ませ、自らは祈りの時間を持ってから追いかけるから先に対岸を目指すように、と言って送り出したのだった。
「軽く五千人以上はいたんじゃないかな。この地方のほとんどの町から人が集まっていたように見えたな」
アンデレが櫂を使いながら答えた。確かに手元にあったパンは五枚だけだった。それがあのおびただしい群衆を満腹させたのだ。類を見ない奇跡に、神をほめたたえながら帰っていく彼らを見送って、この師に付き従っていることを誇りに感じていた。
「数えきれない奇跡を見てきたが、今日のはまた、一段とすさまじかったな」
「お前たちで何か食べる物を配ってやれ、と言われたときにはどうしようかと思ったがな。先生がああ言われるときには、何か計画しておられるんだ」
「やはりすごいことを、俺たちは体験しているんだなあ」
口々に弟子たちが感慨深く話し出した。ひとりユダだけは艫で腕組みをして他を見ている。
「ユダはなんでそんな顔をしているんだよ。ははあ、さてはお前、遠慮してパンを食べなかったな。それで腹が減っているんだろう。食べりゃよかったのに。最後に余ったパンを集めたらいくつもの籠が一杯になっただろう」
シモンが呑気そうに声をかけると、それまで沈黙を守ってきたユダが口を開いた。
「どうして、パンなんだよ」
一瞬、誰もが意味をはかりかねた。
「なんだって?」
アンデレが尋ねた。
「どうしてパンなんだ、と言ったんだ。パンなんて、誰もが持っているじゃないか。奇跡を起こすんなら、なぜ剣を配らない。一体いつになったら決起するんだ。こんなことを続けていても、ローマは少しも動かないぞ」
それまでじっとしまい込んできたからか、ユダの言葉はとげのように一同を刺した。確かにこの男は、ローマと戦いたいために、ケリヨテから旅をしてきて、熱心党に加わった。この一団についても、ナザレのイエスこそが待ち焦がれてきた救世主キリストに違いない、という熱心党の者たちの話を聞いて、それならばと加わってきたという明らかな動機がある。
「それにしたってパンはいるぜ。なけりゃ誰もついては来られない。そうだろう」
言葉を返せずにいた一同の中で、シモンだけが口を開いた。シモンにとっては、本当はパンでも剣でもどちらでもいい。ただ師に同行するこの旅が嬉しくて仕方ないというのが本音だ。
「それにローマは剣や槍だけじゃあ倒せないさ。なんていうかその、もっと色んな力を持っている。あいつらの軍隊を見たことがあるだろう。こう、整然と並んで行進するんだ。俺たちじゃ、ああは行かない」
「ローマを誉めてどうするんだよ」
「いやあその、準備をしなくちゃならない、てことさ。そういう意味じゃ、俺たちだって少しは前に進んでるぜ。実際、考え方も仕事も、故郷さえ違う面々がこうして同じ舟にいるんだからな」
言いながらシモンは、自分でもその通りだ、と納得した。鍛冶屋のシモンやゼベダイのところのヤコブやヨハネといった古くからの馴染みだけでなく、他の町から来た連中もいる。師と出会わなければ、こいつらと出会うこともなかったんだ。そうさ、それは大きな前進じゃあないか。
「そういう意味じゃ、レビはどうして加わったんだ。徴税人のかしらだった男が」
シモンとやりとりをしても、何故か理屈とは異なるところで負けてしまうのを自覚しているユダは、話題を変えてレビに尋ねた。
「私か。私の場合は、少々きっかけがあってね。といっても、先生と直接関わることじゃあないが。私の弟分にあたる男がね、徴税人を辞めて、去って行ったんだ。他の国で、これまでの生き方を変えるんだと言ってね」
レビがそう言いながら、シモンの方を見た。シモンとアンデレには、それがゼポンのことだろうということが、すぐに分かった。神殿で胸をたたいて悲しんでいる姿を見かけた。やはりあれはゼポンに間違いなかった。しかし、あの後のことは知らなかった。他の国に行くなど、簡単にできることではない。
「そうさ、そんなことが出来るわけがない。もしかしたら、いや恐らくあいつは死んでしまっているだろう。そうまでして、今の暮らしから逃げ出したかったんだ。その気持ちは、私にもよく分かる。実はね、誰も信じないだろうけれど、私は徴税人になりたくてなったわけじゃあない。ちょっとした成り行きでね。どちらかというとむしろ後悔していたんだ。こう見えて、愛国主義者だからね。しかし、一旦なってしまうと、引き返すことはできない。誰も信用してくれないからな。先生はそんなことにはお構いなしって感じで、徴税所に座っていた私に、ついて来いって、そう言ってくださったんだ。自分は正しい人ではなく、罪人を招くために来たんだってね。それだけさ。私にとっては十分な理由だったよ」
レビの淡々とした告白に、一同は再び師の教えを思い出し、ひと時、険悪になりかけた空気は再びいつもの、どちらかというと陽気な集団のそれに戻ったのだった。
やがて日がすっかり沈み、月明りと舟の篝火だけが辺りを照らすようになったころ、徐々に風が出始めた。ガリラヤ湖は、荒れ始めると波も大きくなる。一行はシモン達手慣れた漁師を中心に、荒天を乗り切るために舟をあれこれ操作し始めた。
しかし、予想以上に荒れた湖面は、弟子たちを疲労困憊させてしまった。沖合にいるため、波は大きなうねりとなっている。高く盛り上がった湖面は月明りに白く照らされていて、反対に沈み込んでいる側は隠れて影となっている。舟はその波の頂上と底の間で翻弄され、きしんでいた。その波の落差は、恐らくは人の肩近くまである。
「シモン、大丈夫なのか。相当大きく揺れているぞ」
一団に加わるまで、舟などに乗ったことのなかったレビが、蒼白な顔をしながら叫んだ。他の面々も大なり小なり、同じような調子である。
「まあ、雨が降っていないのが救いだなあ。月の光があるしな。これで嵐だったら大変だ。篝火は消えるし月もないし、真っ暗の中で揺られてなきゃならんからな。それに比べりゃ、景色がいい、くらいのもんだ」
大声で怒鳴り返しながら、シモンもまた、必死だった。荒れたガリラヤ湖で舟を扱うのは、シモン達にとっては決して珍しいことではない。しかし、そうは言っても楽なことでもない。判断を誤れば、転覆して命を失うことにもつながりかねない。
「こんなことなら陸を歩いて行くんだったよ」
レビの声に皆が賛同した。
「じゃあ、今から泳いで岸まで戻るかい」
シモンの少々意地悪い声に、肩をすくめたレビは、へりにつかまって湖に向かって盛大に吐いた後、舟底にうずくまってしまった。
「おい、ありゃあなんだ」
ゼベダイの子ヤコブが湖面を指さした。シモンとアンデレが目をやると、自分たちが後にしてきた陸の方角に、何やら白い影が見える。
「なんだろうな。時間が時間だし、幽霊じゃあないか」
シモンが面白がって言ったが、ユダがにらみつけてきた。そういう類のものは苦手らしい。はじめは小さくて、月の光を反射させている波かと思われたが、それにしては形を失わずにずっと見えている。続けて目を凝らしていると、心なしか、近づいてくるように思えた。
「近づいてくるみたいだな。いよいよこりゃあ、幽霊じゃあないか」
「いや、あれは先生じゃあないか……間違いないよ、先生だ」
アンデレが白い影の方を見ながら言った。
「そういえば、後で追いつくからって言っていたな。誰かが舟を用意したんだろうよ。それにしたって、これだけ揺れているんだ。舟の上に立っていると、ひっくり返ってしまって、危ないんだがな」
シモンはむしろそちらを心配した。ところが、近づいてきても師が載っているはずの舟は見えない。やがて、顔の見えるほどの距離まで近づいた。はじめはやはりアンデレが気づいた。
「船の上に立っているんじゃない……歩いてるよ。直接水の上を、歩いている」
確かに近づいてきた白い影は、歩いていた。
「やっぱり幽霊じゃないか。どうするんだよ」
誰かが叫んだ。それを合図に、一同が騒ぎ始めた。幽霊だ。逃げろ、こっちへ来るな、と口々に叫んだ。弟子たちは恐怖のあまり、我を失ってしまっている。無理もない。真夜中の、荒れた湖の上である。荒野を歩いているのとは、異なる。しかし、一人だけ、その姿を食い入るように見つめている男があった。
「先生……」
シモンは、そこに歩いているのが確かに師だと知ると、いても立ってもいられなくなった。
「先生なんですね。先生なら、来いと言ってください。俺もそこへ行きたい」
アンデレは皆と一緒に悲鳴を上げながら、兄の言葉を聞いた。
「なんだって」
一体何を言っているんだ。アンデレは兄の言葉に、騒ぎを忘れた。
「来るがいい、シモン」
湖上を歩きながら、師が大声で答えた。シモンは夢中で立ち上がり、まるで岸に着いた時のように、舟のへりをつかんで足を下した。
「兄ちゃん」
幽霊騒ぎの恐怖など吹き飛んで、アンデレは必死に叫んだ。一同もその動きに気付いて沈黙する。
シモンは構わず、そのまま湖の上に降りた。水。確かに足下にあるのはガリラヤ湖を一杯に満たしている水に相違ない。立った。表面は冷たくて、驚くほど滑らかだ。シモンは、師の姿だけを見ていた。一歩、踏み出す。水は柔らかに、シモンの足を押し返してくる。
さらにもう一歩。歩いている。シモンは少年の頃、水の上を駆けることができるか、という遊びをしたことを思い出した。水に足が着いた瞬間に、そのまま沈んだ。あの時とは全く違う。確かに、水の上を歩いている。師と同じように。
「先生……」
シモンは夢中になって、さらに数歩、進んだ。嬉しくて、仕方がなかった。師もまた、近づいてくる。あと少し。波のおかげで足下は平らではない。転ばないように、注意をしながら進む。
舟の上の一同は声もない。シモンが、確かに師と共に、水の上を歩いている。ありえない光景が、目の前にあった。
その時、ひときわ強い風が、吹き抜けた。舟は大きく揺れ、シモンの体も揺れた。その拍子にシモンの目は師からそれて、せりあがってくる大きな波に向けられた。今、自分が波の上に立っているのだということが突然思い出された。その瞬間、踏みしめていたはずの足が、水に呑み込まれた。
「わわっ、ひいえええ」
シモンは思わず、悲鳴を上げていた。この程度の波なら泳ぐことができないわけではないが、異常な状況に完全に我を忘れている。助けを求めようとしたが、言葉にもならない。
師がシモンの沈みかけたのを見て湖上を駆け寄り、その手を掴んで引き上げた。
「信仰が薄いなあ」
苦笑をしながら、シモンの肩をたたき、そのまま手を引いて舟までの数歩を一緒に歩いた。
言葉もなく一部始終を見守っていた一同のいる舟に、二人が乗り込むと、風と波は嘘のように静かになった。
確かにシモンは、師と一緒に水の上を歩いていた。アンデレは、その信じがたい光景と共に、何故か少年の頃、化け物退治に出かけた時のシモンを思い出していた。化け物が出た、と勘違いした皆が逃げ出した時、シモンだけが、アンデレや幼い子供たちをかばって、踏みとどまっていた。震えながら立ちはだかったその姿は、一同が幽霊だ、と言って騒いでいた時に一人、師を求めて嵐の湖面に踏み出していった姿と、重なるような気がした。
シモンは舟の上に戻ると、自分がつい今しがたまでそこに立っていた湖面と、師につかまれた自分の手とを交互に見比べながら、呆然としていた。数歩とはいえ、水の上を、歩いた。そして沈みかけた。自分がたった今体験した奇跡は、驚くべきことなのだろうと思う。
しかし、気になっているのはそのことではなく、手に残っている感覚だった。なんだろう。どこかで同じようなことがあったな。師の、自分を引き上げてくれた手の力強さ。そうだ、父ちゃんの手だ。子供のころ、沖へ流されて沈みかけたことがあったんだった。自分を引き上げてくれた父ちゃんの手を、今さらながら思い出した。この手に、自分は救われたのだと思った。
どれくらい、そうしていただろうか。月明かりに照らし出された湖面を、ツィラは身じろぎもせずに見つめ続けていた。
ヨハネが捕縛された後、アンナスの命令で今度はナザレのイエスと言う男を探っていた。それはやはり、単にその様子を調べるというだけのことではなくて、あわよくば、陥れることができるような材料を仕入れてくるように、ということでもあった。
しかし、地方を巡って教えて歩くイエスに、責めどころはなかなか見つけられなかった。ツィラは群衆とともにイエスを追い、その教えを聞き、その数々の奇跡を見てきた。高みからではなく、民に寄り添うように語り、毅然として譲らず、まっすぐに語られる教えだった。そして、その言葉の模範を自ら示すように、近寄ってくる人々に慈しみを持って接している姿があった。立てなかった者が歩きだし、見えなかった者が見えるようになる様を目撃してきた。いつしかツィラは、自分自身がその生き様に惹きこまれ始めていることに気付いて、うろたえた。そして、イエスを陥れる材料を求めてついて回っているのか、その教えに惹かれて従おうとしているのかについても、分からなくなり始めていた。
昨日の朝、ヨハネが殺されたと聞いて荒野に退いたイエスの下に、何千人もの群衆が集まった。彼らの中に混じっていたツィラは、その説教の中で、驚くべきことを聞いた。
「あるところに、金持ちがいた。毎日、ぜいたくに飲み食いして暮らしていた」
イエスの教えは、たとえを用いて語られることが多い。だから、これもまた、その一つだろうと思った。ただ、毎日ぜいたくに飲み食いして暮らしていた金持ち、という表現に、何故か自分の父のことを思い出した。
「その金持ちの家の門の前に、ラザロという名の物乞いが寝ていた。彼は全身に、重い皮膚病を患っていた」
続けられたその言葉を聞いて、ツィラは恐慌をきたした。自分の家の前にも、やはり皮膚病を患って横たわっていた、同じ名の物乞いがいた。覚えているどころではない。父に反発して家を出たのは、そのラザロという男に対する父の態度が、どうしても許せなかったということが直接のきっかけだった。安息日にシナゴーグで読まれる律法では、こういう者に憐れみをかけるようにと教えられている。しかし、父はラザロのことを、憐れみをかけるどころか一顧だにしようとしなかった。イエスはその様子を見て知っていたのか。だとすれば、これはたとえ話ではない。ツィラは緊張した。
「しばらくしてこのラザロは死に、天国で慰めを受けた。間もなく金持ちも死んで、葬られた。金持ちが黄泉で苦しみを受けていると、先祖アブラハムのふところにいるラザロが見えた」
ラザロも父も死んだのだ。それは知っている。間違いない。だとすればこれは、疑う余地なく、自分の父の物語だ。しかし、話されているのは死んだ後のことだ。どういうことなのか。もはやツィラには、他の何千人という群衆は見えていなかった。イエスのことを探るという使命も忘れて、ただ自分一人が、対峙して話を聞いていた。
「そこで彼は先祖アブラハムに言った。せめてラザロを家族のところに遣わし、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることがないように、伝えさせてください」
ツィラには、黄泉で呵責に耐えながら、家族の救われることを懸命に願っている父の姿が見えるような気がした。
「彼らにはモーセの与えた律法がある。それに聞き従おうとしないなら、たとえ誰かが黄泉から戻ってきたとしても、耳を傾けないだろう、とアブラハムは答えた」
ツィラはナザレのイエスをじっと見上げていた。イエスのまなざしもまた、いつの間にか、ツィラに向けられていた。
話は、それだから律法の言うことにしっかりと耳を傾けよ、というところで締めくくられたが、たった一人ツィラにだけは、たとえではなく、実話に他ならないということが理解できた。ラザロが遣わされることはなかったが、その場面を、実名を織り込んで話すことで、ツィラにだけ分かる形で、父の思いを伝えたのだということがはっきりと分かった。
ツィラは激しく震えていた。一体、何者なのだ。黄泉の世界のことを、目撃してきたかのように話す、このイエスという男は。
説教が終わると、イエスの弟子たちが群衆を組にして座らせた。そして、パンと干魚を配り始めた。本来なら、弟子団に混じって手伝うことで、イエスに近づくことができる絶好の機会だ。しかし、ツィラには身動きもできなかった。ただ言われるがままに輪に加わって座り、膝を抱え込んでいた。食欲はまるでなかったが、手渡されたパンを無意識に口に運んだ。呑み込むと、わずかな塩気が体中に行きわたっていくことを感じた。今、自分は生きているのだ。気付くと、涙を流してさめざめと泣いている自分を、ツィラは発見していた。
その後イエスは群衆を解散させ、弟子たちを舟に乗せると、自らは山の上に一人で上っていった。追っていくわけにも行かず、ツィラはとにかくふもとで待つことにした。
やがて山から下りてきたイエスは、そのまま湖に入っていったのだ。夜半のことである。入水自殺でもするつもりか、と思った。しかし、その体はいつまで経っても沈まず、湖の上をそのまま歩いて、沖の方へと消えていった。
これまでのツィラなら、湖の上を歩くなど、なにかのからくりか、目の錯覚か、と疑ったに違いない。しかし、今はそうは思わない。やはり、あの人こそ、本物の救世主キリストに違いない。そう確信した。
イエスが歩き去った湖面を見つめながら、日が昇ったら神殿に戻り、アンナスにすべてを報告しよう、と思った。イエスが、間違いなく救世主キリストであると思うということ、自分もイエスについて行きたいということ、そして、アンナスの仕事は、これ以上引き受けないつもりだということを。それが、黄泉で父が願っていることであり、イエスがその様子をたとえ話のようにして自分に伝えてくれた目的であったのだろうということも。
恐らくアンナスは、イエスのことを神殿での権威を脅かす存在だと認識するだろう。イエスのことを葬り去るどころか、ついていくなどと聞けば、ツィラのことも許さないだろう。しかし、たとえそれで責めを負うことがあっても、否、それで命を落とすことがあったとしても、もう揺るぐことはない。そんな決心を、ツィラは静かに固めつつあった。
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