第15話 出逢い
アマンダがシモンと結婚してから、ドナは三日と空けずにシモン達の家を訪れては、料理の腕前を披露していた。アマンダがまだ料理をしっかり覚えていないから仕方なく、という理由だったが、ただ、アマンダの顔を見たくて来ているだけというのは分かっていた。もちろんそんなことはどうでもよく、むしろシモン達は賑やかにうまい料理が食べられることを喜んでいた。シモンはドナの料理の中でも、獲ってきた魚を煮たものがとりわけ気に入っていた。
父のヨナとアンデレの男三人所帯になってから、家に置いてあるのはせいぜい塩と酢くらいのものだったが、ドナがやってきてはアマンダと一緒に料理をするため、いつの間にか香辛料やら調味料がたくさん置かれるようになっていた。
そのドナが、顔を見せない。
「ドナは大丈夫なのかな」
シモンがパンをかじりながら、つぶやいた。数日前に訪ねては来たものの、少し具合が悪いからということで、すぐに戻っていった。その時のドナの、青い顔を思い浮かべながら心配していた。
「大丈夫、ちょっと疲れが出ただけよ。きっと」
アマンダは軽く受け流そうとしたが、うまくいかずにうつむいてしまった。本当はとても心配で、いても経ってもいられないという気分なのだ。自分の朝食のパンを握ったまま、口に運ぶことも忘れてしまっている。
今年に入って、熱病が流行っていた。カペナウムだけでなく、ガリラヤ湖の沿岸の地方全域で、猛威をふるっているようだった。いきなり激しい悪寒が襲ってきたかと思うと、すぐに高熱が出て、幾日も下がらない。特に幼子や老人で幾人もが命を落としていた。もし、ドナがその病気にかかっていたら。二人とも気が気ではなかったが、想像していると悪いことが起こりそうだったので、特にその熱病のことについては口にすることを避けていた。しかし、互いが避けていることが分かるだけに、かえってもしかしたら、という心配で押しつぶされそうになっていた。
「見に行ってやったらどうだ」
シモンがたまらずそう勧めた。アマンダがはじかれたように顔を上げる。
「うん」
小さくうなずき、手にしていたパン切れをシモンに手渡すと、そのまま駆け出した。母さん。募らせていた心配の分、懸命に駆けた。市の方が騒がしかった。誰かに呼び止められるのも嫌なので、少し通りを外れたところを駆けた。見えてきた。少し前まで、自分も一緒に住んでいた家。
母さん。戸をたたいたが、応答がない。たまらず蹴破るようにして戸を開け、中に入る。奥の間の寝台に、ドナは横たわっていた。アマンダが駆け寄ったが、反応がない。寝入っているようだが、息は荒く、苦しそうだ。額に、手を置く。びっくりするほど、熱い。案の定、ものすごい高熱だった。
「母さん、あたしよ、アマンダ。もう大丈夫よ」
必死に話しかけると、ドナはかすかに目を開いた。唇が渇き切って、ひび割れている。アマンダは水瓶を覗いた。幸い、汲み置いた水がまだ残っている。急いで椀を満たして、ドナの口元に持って行く。頭を上げることもできないようだが、それでもかすかに口を開き、ひとくちだけ、呑んだ。ありがとう。唇が動いてそう言おうとしたことは分かったが、声にはならない。
「アマンダ、どうだ」
戸口から、息を切らせているシモンの声が聞こえた。やはり駆けてきたらしい。アマンダはどう答えていいのか分からず、シモンの方を見た。シモンもやはり、目を見開いて息を呑み、言葉を見つけられないようだった。
「……すごい熱だわ」
ようやくそれだけを言うと、アマンダは思い出したように手ぬぐいを水に浸し、ドナの顔を拭いてやった。その冷たさが心地よかったのか、少しだけドナの苦しそうな表情が和らいだのが分かる。
「医者を呼んで来ようか」
シモンがようやく口を開いた。もっと早くに来てやったらよかった。後悔がよぎったが、今更思ったところでどうしようもない。できることを、するしかない。この熱病を、医者が治したという話を聞いたことがないが、それでもただ手をこまねいているよりはましだ。アマンダが、か細い声で
「そうね、お願い」
と答えたのを受けて、シモンは再び元来た道を駆けるために、外に出た。じっとしている方が苦痛だった。
通りの向こうの方がやけににぎやかだった。何かの祭りでもあったか。それとも婚礼か何かだろうか。いつもならウキウキした気分で様子を見に行こうとするシモンだが、さすがにそんな場合ではない。ここには熱病で死にかけている病人がいるっていうのに、無神経な連中だ。苦々しい思いでそちらの方をにらんだ。どのみち、医者を呼びに行くにしても、あの騒ぎを通り抜けなければならないようだ。そちらに向かって、歩き出した。
騒ぎは近づいてきた。時折、歓声らしき声が上がっている。どうやら人の群れの中心には、誰かがいるようだ。声がはっきり届くほどの距離までくると、群れは一旦立ち止まった。正面から険しい表情で歩いてくるシモンの姿を見たからだろう。
構わずに向かっていく。立ち止まっていた人の群れが割れて、一人の男が前に出てきた。まっすぐに、シモンの方を見ている。目が合った。何故だか、それ以上進めなくなって、シモンはその場に立ち止まってしまった。男は、そのままシモンに近づく。やはりまっすぐ、シモンの目を見ている。
間近に迫った、男の目。よく晴れた日のガリラヤ湖のように、蒼く深い色をしていた。触れられるほどの距離で束の間立ち止まった男は、再び歩き出し、すれ違いざまシモンの肩を軽くたたいた。そのまままっすぐに歩いていく。シモンは、思わず振り返ると、男の後を追った。そうせざるを得ない何かがシモンを動かしていた。驚いたことに、男はドナの家の前で立ち止まると、今しがたシモンが出てきたばかりの戸を開けて、中に入っていった。
「な、なんだ」
わけが分からないまま、シモンもその後をついて家に戻った。奥の間。ドナの寝台に近づいた男は、
「熱よ。いい加減にして、この人から出ていけ」
とはっきり言った。何を言っているんだ、この男は。シモンはそこに立ちすくんで、動けなかった。寝台のたもとに立っていたアマンダもまた、あっけにとられて男を見ている。
一瞬の間をおいて気を取り直したシモンは、男に詰め寄ろうとした。こんな時に何の冗談だ。そう思ったからだ。しかしシモンの目は、信じられない光景を目撃した。男の向こう側で、寝台から起き上がるドナの姿があったのだ。
「ドナ」
「母さん」
シモンとアマンダはほぼ同時に叫んでいた。そんな馬鹿な。水を呑むために頭を上げることすらかなわなかったほどに、衰弱していたはずだ。しかし、ドナは間違いなく起き上がっていた。寝台の上に座ってしばらく周りを見回し、自分の額に触れてから、言った。
「あなたが、治してくださったのね。……なんて御礼を言ったらいいのか」
寝台から降りながら、ドナが言った。側にいたアマンダは驚いて手を貸そうとしたが、ドナはその手を軽く撫でただけで、一人で立ち上がった。
「アマンダ、心配してくれてありがとう。シモンもね。嘘みたいだけど、この通りすっかり元気になったわ」
この男は、医者なのか。だとすればとんでもない名医だ。シモンはただ呆然としていた。ドナは喜んでいた。つい今しがたまで、高熱に冒されて身動きもできなかったはずなのに、むしろいつもより元気なのでは、と思えるほどだ。
「先生、と言ったらいいのかしら。御礼をしたいわ。どうぞ食事でもしていってくださいな」
と笑顔を一杯にして話しかけた。
「あなたの料理はたいそうおいしいと聞いた。是非、いただこう。特に魚を煮たものがいいらしい」
「あら、よくご存じね。それじゃあシモン、悪いけれど、魚を持ってきてくれないかしら」
ドナに言われてシモンは、大慌てで市まで駆け下りた。何が起こっているのか、さっぱり分からない。確かなことは、ついさっきまで熱病で死にかけていたドナが元気になっていて、自分はそのドナのために、魚を手に入れて帰ってやらなければならないということだ。それにしても、一体誰からドナの料理のことを聞いたんだろう。魚の煮たやつは確かにうまい。けれどもそんなことまで知っているやつはそういないと思うんだが。自分の好物と同じものを食べたいと言ったのだ。単なる偶然なんだろうか。少し不思議な気がした。あの男は一体何者なんだろうか。
ドナの家は一転、にぎやかな食事の席となった。男の周りに集まっていた人々までドナが招いたので、二十名近くが所狭しと座っている。
「わたしの名はイエスと言うんだ。ナザレで大工をしていた」
シモンに名を問われた男は、笑顔を浮かべてそう答えた。まるでそうであることが嬉しくて仕方がないというように見える。ナザレ。確か山の方だったな。ガリラヤ湖畔で暮らしてきたシモンにとって、これまではほとんど関わりのなかった地名なので、それくらいの印象しかない。周りに座り込んでいる他の客は多くがこの町や近隣の住民で、シモンもよく顔を見知った相手ばかりだった。みな、何をいまさら尋ねるのか、とでも言いたげな顔で、シモンを見ている。まるでこの家の中で、この男のことを知らないのはシモン達だけという感じだ。もっとも、彼らは男を取り囲むようにして一緒に来たのだから、当然である。
さっきは一体どうやってドナを治したんだ。本当ならそんなことを尋ねるべきなのだろうけれども、シモンはまるでそんなことは忘れてしまったかのように、ナザレから来た男の様子を観察していた。家の前で目が合った時、思わず惹きこまれそうになった。実際のところ今も、すぐ隣に座っているだけで、気持ちが浮いている。わくわくしているような、うれしいような、不思議な気分。だからと言って、いても立ってもいられないというような、そわそわしたものではなく、落ち着いた、満ち足りた気分。この男は何者なんだろうか。何度も頭の中で繰り返しながら、シモンは我ながら、経験したことのない、自分のそうした気分が不思議で仕方なかった。
「はい、おまちどうさま、どうぞ召し上がれ」
ドナが、やはり嬉しそうに、煮た魚を持ってきた。なんとも言えないいい香りが湯気と一緒に机の上に広がっている。ナザレの男がそれを一切れパンに乗せ、口に運んだ。アマンダもシモンも、その顔を見守っている。
「うん、やっぱりさすがだな。聞きしにまさる味だ」
目を丸くしながらそう言うと、屈託のない笑いを見せた。なぜか、会ったのは今日が初めてのはずなのに、ずっと昔から知っているような気がした。
「先生、これからどちらに向かわれるのですか」
客の一人が尋ねた。ナザレから来たというが、旅でもしているのか。そもそもみんなは何故この男についてきているのだろうか。
「ガリラヤの町々を回る。神の国の福音を伝えるためにね」
おお、という声が上がった。神の国の福音。この男も、預言者ということなのか。そう思いながらシモンは、パンを手に微笑む男を見た。
「シモン、あんたはどうも知らないようだが、この先生は今日のように病気の人間をいやし、神の国の福音を教えて回っておられるんだ。どんな病人も、この方のところに連れて来られると、みんなたちどころに治るんだよ。近頃評判の、預言者だ」
それで皆がついて歩いているということなのか。シモンがなるほど、と思った時、戸口の方から人が入ってきた。アンデレだった。ヨハネの捕らえられているペレヤに行ったはずだが、無事に戻ってきたようだ。自分たちの家でなく、ドナの家にいることが何故分かったんだろう。声をかけてやろう、と思ったが、アンデレはシモンを素通りして、ナザレの男の前に進み出た。
「あなたが、ヨハネのところに洗礼を受けに来られたのを見ました」
男はアンデレの方を見て、小さくうなずいた。シモンとアマンダは顔を見合わせた。もしかして、ヨハネのところに現れたと、アンデレが話していたのはこの男のことなのか。
「ヨハネはアンティパスに捕らえられ、地下牢に入れられています」
シモンは少しだけ、緊張した。だから、どうせよというのか。まさか、この男にヨハネを救出するように頼むつもりなのだろうか。鍛冶屋のシモンやケリヨテのユダのように、この男も、穏やかに見えるが剣をとって戦おう、と応えたりするだろうか。
「ヨハネは地下牢にいて、あなたのうわさを聞いていました。そして、おいでになるはずの方はあなたなのだろうか、それとも私たちは別の方を待つべきなのだろうか、と問うていました。私はそれを、ヨハネに代ってお尋ねするために大急ぎで戻り、あなたを探していたのです。こんなところでお会いできるとは思いませんでしたが」
「見聞きしたことを、戻ってそのままヨハネに伝えるがいい。病の者がいやされ、見えない者が見えるようになり、貧しい者に福音が宣べ伝えられている」
ナザレの男は、アンデレを見つめながら静かに、しかし力強く、宣言した。シモンはそのやりとりを、息をすることも忘れて見入っていた。
これまで、誰かに会ってこんなに心が揺さぶられたという経験はなかった。熱心党にせよ、預言者のヨハネにせよ、それらの教えや考え方をはっきり間違いだと思ってはいない。アンデレには、武器をとって暮らしを踏み付けるならローマも熱心党も同じだと言ったが、本当のところ、理屈は大して考えていたわけではない。自分と関係があるとは感じなかった。惹かれない。ただそれだけのことだった。けれども、ナザレの男だけは違っていた。
ガリラヤ湖のように蒼く深いそのまなざしが、頭から、離れない。何者なのだろう、あの男は。シモンは一行が去った後、イエスと名乗ったナザレの男が座っていたあたりをぼんやり見ながら、何度も繰り返していた。
「アンデレのやつが、おいでになるはずの方はあなたですか、と聞いていた。あれはどういう意味なんだろう。約束でも、していたのかな」
「よく分からないけど、そういう約束じゃないと思うわ。アンデレはなんていうか、もっと厳かな感じだったもの」
アマンダもやはり、あの男のことを考えていた。母の熱病を一言でいやしてくれた。もちろん、それだけでも感謝して余りあるのだが、なぜだか、自分たち二人にとって、もっともっと大きな、意味のある出会いになる予感がしていた。
それから十日ばかりが過ぎた。アンデレはペレヤまで往復した後、仕事に戻っていた。ここのところ、ドナの熱病やらヨハネの投獄やらで、なかなか落ち着いて仕事ができていなかった。だから、
「ちょっと身を入れて仕事しなくちゃな」
とアンデレが言ったので、夜通しの漁に出た。しかし、一晩中網をおろしたが、ほとんど何もとれなかった。それで、岸につけた舟の上で、網を片付けていた。
「ここまで何も獲れないってのも久しぶりだな。やっぱり俺がちょっとさぼってたからかな」
真面目なアンデレだから、魚が獲れなかったことが自分のせいではないかと考えているようだったので、シモンは努めて明るく、
「別にさぼっていたわけじゃないし、だから魚が獲れなかったわけでもない。風がきつかったからな。魚が怯えて深くに潜っていただけだろう。そんなに気にすることはないさ」
と応えてやった。
「ありがとう、兄ちゃん。だけど、どっちにしてもこれじゃあまずいな。魚を売りにいかなくちゃ、パンを買う金もない」
確かにそれはそれで少々深刻だった。幾日か漁に出ては、のんびりと休むという感じで過ごしてきたので、蓄えというものがない。
「まあ、何とかなるさ。自分たちの食べる分くらいはあるだろうからな。明日頑張ればいい。それにしても、あのナザレの人が、アンデレがヨハネのところで見たっていう相手だったとはな」
考えたところで仕方がないということもあり、シモンは話題を変えるつもりで、ドナの熱病を治したナザレの男のことを持ち出した。
「俺も驚いたよ。ヨハネから、確かめてくるようにと言われてあの人のことを探しに戻ったら、まさかドナのところに現れていたなんて」
「それでヨハネのところに報告に行ったんだろう。何か言っていたのか」
「目を閉じて、幾度もうなずいてね。小さな声で、預言者イザヤの言う通りだって言ったな」
「どういう意味だい」
「ヨハネをそれ以上は何も言わなかった。だからよく分からない。感慨深げだったけどね」
「そりゃ、なんだか……」
なぞかけみたいだな、とシモンが言おうとしたとき、町の方から騒がしい声が聞こえた。ほどなく人の群れが見え、湖に向かってくる。
「なんだ、なんの騒ぎだ」
二人とも、顔を上げてそちらを見た。百人、いやその幾倍かに見える人々が集まっていて、それが徐々に近づいてくる。その移動は水際まで来て一旦止まり、中から一人の男が飛び出してきた。例のナザレの男だった。シモンを見て、いたずらをしている子供のような顔で少し笑い、そのままシモン達の舟に乗り込んできた。そして後の群衆をちらりと見て肩をすくめ、漕ぎだしてくれないか、と小さな声で言った。
アンデレの方は、突然のことで驚いて声も出ないといった様子だったが、シモンはいたずらを持ちかけられたような気分になった。どうするつもりかよく分からないが、付き合ってやろう。そう思ってすぐに櫂を取り上げた。
岸から少し離れたところで舟をとめるように頼むと、男はその場に立ち上がり、群衆に向かって話し始めた。
「空の鳥を見よ」
空を見上げ、そこに鳥が飛んでいるかのように手を差し伸ばし、そして束の間、その鳴き声を聴くように沈黙してから、群衆の方に向き直る。
「彼らは撒きもせず、刈り入れることもしない。しかし、天の父は豊かに養ってくださる」
当たり前のことで、誰もそんなことを意識してみた者はいない。しかし、男はとても楽しそうに語っている。続く言葉はシモンを驚かせた。
「ましてお前たちによくして下さらないわけがあるだろうか」
考えたこともなかった。確かに、空の鳥が生きているように、自分たちも生きている。そしてそれが神のおかげだということくらいは皆、知っている。男の目は、群衆をいとおしげに見渡しながら、
「お前たちは、空の鳥よりもすぐれた者ではないか」
と続けた。シモンは櫂を使って波に舟が流されないように操りながら、感心していた。
安息日の度ごとに、シナゴーグで聞かされるラビたちの話とは全く違う。かといって、熱にうなされるように語る熱心党の連中とも違う。そのまなざしは自分たちの暮らしに注がれている。民の心に響く、言葉だと思った。多分、シモンが人の教えるのを聞いて、心から納得できたのは初めてだった。最も、教えに真面目に耳を傾けたという経験も、他にそんなにあったわけではないが。なによりつい先ほどまで、不漁のため暗くなりがちだった気分がすっかりいやされていた。
しばらくの間そうして群衆に向かって話していた男は、教えることに一区切りをつけて、解散するようにと伝えた後、シモンとアンデレに向かって言った。
「ありがとう、おかげでとても話しやすかった。礼をしたい。深みに漕ぎだして、網をおろしてみなさい」
何を言っているのだ。耳を疑った。長い間この湖で漁師として生きてきた自分たちが、一晩中網をおろし続け、ほとんど何も獲れなかったのだ。確かドナの家でこの男は、ナザレで大工をしていた、と言っていた。舟に乗せてくれというのは分かるとしても、網をおろしてみろ、とは。けれども、二人とも、男の話に聞き入っていた。なぜだか分からないが、申し出を断ろうという気にはならなかった。
「まあ、そう言うんだったらな……」
二人で櫂を使い始めた。夜通し吹いていた強い風は嘘のように鎮まり、湖の上は穏やかに凪いでいた。こんなに穏やかな湖だったら、ただ舟を漕いでいるだけでも楽しい。しかし、網をおろして、その後はどうするんだろうか。どうせ、何も獲れない。漁師というのもなかなか大変でね。シモンは密かに男を慰める言葉を思い描きながら、舟を走らせた。あっという間に岸にいる人々が豆粒のようになった。
「ここらでいいかね」
櫂を置いて、シモンとアンデレは先ほどたたんだばかりの網を湖面に投げ入れた。錘が広がって、ゆっくりと沈んでいく。昼間の漁だったらよく見えてやりやすいんだがな。漠然とそんなことを考えながら網が湖水に溶けるように広がっていく様子を見ていた。
網が沈み切ったところで、シモンが櫂を操って、舟を動かす。辺りを小さく一周し、そうして魚を囲い込む仕組みなのだが、どうせたいしたものはかかっていない。片付ける手間がかかるから、木切れのような余計なものが引っかかっていなければいいんだが、とシモンは心の中でつぶやいた。
アンデレが引き綱を引く。はじめは静かにゆっくりと引いていたアンデレの表情が急に険しくなった。
「兄ちゃん、これは」
促されてシモンも引き綱にとりつく。重い。何かにひっかかったか。しかし、十分に深みに漕ぎだしているはずだから、こんなところに網がひっかかるようなものは、ない。それに、引っかかっているなら動かないが、少しずつでも網は上がっている。二人がかりで、必死に引いた。これまでにこんなに手ごたえがあったことはない。網が見え始めた。直接網を手繰り寄せる。気付くと、舟のへりが水面に迫っていた。網の下部が水面のすぐ下に見えてきた。大きな、塊がある。
「一気に上げるぞ」
シモンは舟の反対側に足場を移した。二人が並んでいると転覆しそうだった。アンデレが体を乗り出し、網の、塊になったあたりをつかむ。シモンは後ろから思い切り引いた。全体を上げる前に、一部が網の口から舟底に零れ落ちた。魚。大量だった。何とか持ち上げる。舟の真ん中に魚の山ができた。日の光を受けて、ぴちぴちとはねながら光っている。
「こんな……」
アンデレが積み上げられたその魚を見て、絶句している。これほどの大漁は見たことがないというほどの数だ。シモンは、舟の艫に座ってこちらを見ている、ナザレの男に目を向けた。シモンと目が合い、笑いかけてくるそのまなざしは、ほらな、とでも言っているようだった。ただ者じゃあない。そう思った瞬間、シモンは舟の上で男に向かってひれ伏していた。得体のしれない感情が、シモンの全身を小刻みに震えさせていた。
ドナの熱病を一言で治してしまった。群衆を教えるその言葉は、聞いたこともないような温かく、力強いものだった。それはそれですごいことだが、シモンにとっては、どちらもそもそも理解のできない分野の話である。しかし、漁に関しては、話は別だった。自分たちほど、このガリラヤ湖での漁に慣れた者はいない。それが一晩かかってもほとんどなすすべもなかったというのに、この男はいともたやすく、網をおろしてみよ、と言った。礼をしたい、とも言った。その一言に応じると、かつて経験のなかったほどの大漁になった。それがどれほど驚くべきことであるのか、シモンにはよく分かった。シモンより少し舳先の方で、アンデレがやはり同じようにひれ伏していた。
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