第14話 捕縛

 ヨハネはその後も変わらずに悔い改めを説き、洗礼を授けてはいた。しかし、その説くところは微妙に変化した。

「斧は木の根元に置かれている。救世主キリストはすでに来ているのだ。その姿を公に示される時が間近になっている」

 内容としては、より激しくなっている。しかし、語る口調は静かになっていた。そして、公に教える時間も、極端に少なくなっていた。弟子を決め込んで側にいる者たちとも多くを話そうとせず、ひとりで祈っていることが増えていった。弟子の中には、ヨハネがそうして祈りをささげに行く際、

「私の役割も、もう間もなく終わるのだ」

 そんな風につぶやく声を、確かに聞いたという者もいた。

 アンデレがカペナウムからやってきて、そんな情報を他の弟子たちと交換し合っていた時のことだった。川の対岸から、物々しい一団が近づいてきた。まだ、説教をする時刻ではなく、弟子たちの他には誰も集まってきていない。第一教えを聞いたり洗礼を受けたりするために集まる者たちは、連れ立ってはいてもせいぜい数名といったところだが、どう見ても二十名以上は固まっているように見える。中には、ローマの兵士の姿もあった。

 ヨハネはかつて、「神の子羊」と叫んだ時と同じように、彼らの姿を見て、立ち上がった。しかし、その時とは違って、緊張している様子も、臆する様子もない。顔の見える距離まで近づくと、三人ほどがさらに前に出てきた。

「お前がヨハネか」

 年長らしい男が、居丈高に言った。

「いかにも、私だ」

 アンデレたちを下がらせながら、ヨハネが答えた。物静かだが、凛として、胸を張っている。

「我々は、ヘロデ王に仕える者だ。お前は領主ヘロデ・アンティパス殿を咎めるようなことを言っているという情報が入ったのだが、それは本当か」

 ヘロデの王室。恐れていたことが現実になった。王室の役人たちが、難詰に来たのだ。抵抗すれば捕縛できるよう、ローマの兵まで同道している。アンデレは隣の男と顔を見合わせた。気の毒なほど、真っ青になって震えていた。しかしアンデレの方もどうすることもできない。緊張のせいか、噛みしめた奥歯がきしんでいた。

「アンティパスが弟の妻を横取りした、というのは隠れもない事実だろう。モーセの律法は、はっきりとそういう行為を禁じているはずだ。罪を罪として警告するのが、預言者の役割だからな。お前たちも罪を悔い改めて洗礼を受けたらどうだ」

 ヨハネは、逆に悔い改めを迫った。話していた男の方が顔色を変えた。しかしそれは恐れではなく、怒りの表情である。三人ともに見る間に首まで真っ赤になった。愚弄されたと感じたのだろう。

「お前は、そんなことを口にして、無事に済まされると思っておるのか」

「無事に済むか、だと。無事でいたいだけならはじめから預言など、せん。預言者は神から遣わされて語っているのだ。私が恐れるのは人ではなく、神だ。お前たちも、神を恐れるべきではないか」

 一歩も退くつもりはないようだ。しばし沈黙をした後、はじめに話し始めた年長の男が、怒りを噛み殺しながら言った。

「ヨハネよ。そういうことなら、一緒に来てもらおう。領主様がお呼びだ」

 男の合図とともに、ローマ兵が槍を構えた。アンデレたちはあとずさり、ある者は腰を抜かしてその場に座り込んでしまった。ヨハネは振り返って彼ら一人一人の目を見て小さくうなずいて見せた。大丈夫だ。目が伝えていた。

「よかろう。案内してもらおうか。領主に直接警告を伝えることができるなら、願ってもない機会だ」

 そう言いながら、彼らに向かって自ら歩き出した。後ろで構えていた者たちが慌てて荒縄を取り出し、ヨハネを縛り上げる。

「大層なことだな。逃げもしないし暴れもしないのに」

 苦笑いをしながら、さっさと歩きだした。三人の役人の方が逆にヨハネを追いかける形になる。一行が立ち去った後の荒野では、アンデレたちがなすすべもなく、立たずむばかりだった。


 これが、洗礼者ヨハネと呼ばれ、近頃大変な人気を集めている男か。ヘロデ・アンティパスは近頃建造させたぺレアの離宮で、荒縄で縛り上げられた預言者を迎えた。

 エルサレムにある宮殿が住まいではあったが、神殿に隣り合っていて何かと煩わしいことがあるため、近頃では自分の領地であるこの地方で過ごすことが多かった。とりわけ大祭司とのやり取りは、相手が領民たちに絶大な影響力を持っているために色々と気を遣わなければならず、可能な限り距離をとっていたいと思っていた。

その大祭司のアンナスから、自分のことを公然と非難している、という情報が届いたので、仕方なく王室の役人を送ったが、正直なところ、たいした関心は持っていなかった。ユダヤ人の領主という立場上、一応は彼らの律法を尊重するふりはしていたが、アンティパス自身はさして信仰心を持っているわけでもなく、モーセの律法など、どうでもいいと思っていた。だから、その説くところが正しかろうが誤っていようが、どちらでもよい。荒野で何を叫んでいようと聞く耳も持たない。ただ、民衆の人気を集めているということなので、珍しいもの見たさという意味での好奇心だけはあった。

「そちが、ヨハネか。預言者だと名乗っておると聞いたが、そうなのか」

 なるべく、尊大にふるまおうとしていた。どうせアンナスの手の者が紛れ込んで、様子を探っているに違いない。自分こそユダヤの王だ、というところを見せておかなければならない。

「私は確かに、神の警告を伝えるために来た者だ」

 顔を上げ、まっすぐにアンティパスを見ながらヨハネは答えた。そこには権力を持つ者への恐れやへつらいは微塵も見られない。かすかに気おされていることを感じながら、アンティパスは続けた。

「神の警告と申したな。神の名を語るからには、いい加減なことでは済まされぬぞ。そちは神と話したことがあるとでも申すのか」

 我ながら、よくできた返しだ。いかにも神を畏れる者という感じではないか。是非とも大祭司の耳に入れてもらいたいものだ。

「モーセの律法と、預言者たちの書。それは神がお与えになったものだ。私はそこに書かれていることを正確に伝えているだけだ」

 ヨハネの回答はしかし、いささかも動揺する様子を見せない。屁理屈を言いおって。少しくらいはたじろぐだろうという予想を覆されて、アンティパスの方が逆に少し慌てた。

 尋問をしているのはこちらだ。弱いところを見せてはならない。アンナスから報告のあった自分への非難については、こちらからは持ち出すまいと考えていた。そんなことをいちいち気にしていない、というところも見せなければなるまい。やり取りの中で追い詰め、非を認めさせた上で、むち打ちにして放り出そうと考えていた。

「正確に伝えているだけ、か。ずいぶん自信を持っておるようだが、どうしてそちは自分の解釈が正確だと分かるのだ。誰の下で学んだのだ」

「クムランの荒野で修業をする者は、互いに学び合っている」

「クムランだと。神殿に仕えるサドカイ派でもパリサイ派でもない、異端の者たちか。つまり自分勝手な解釈をしているだけということではないか」

 実はクムランの者たちのことなど、何も知らない。神殿で教えている者たちのことですら、真面目に聞こうとしたためしもないのだ。ヨハネが連れられてくるまでの間に、アンナスが送ってきた律法学者たちに、尋問すべき内容を考えさせておいたのだ。

「そう思いたければ思えばよい。しかし、あなたの言う神殿に仕える者たちの中からも、洗礼を受けに来る者は後を絶たない。それが、私の語ることが間違えてはいないということを表しているではないか。第一、モーセの律法の命じるところは明快だ。誰にでも理解できる」

「ほう、たとえばどういうことだ」

 思わず、問うてしまった。まあいい、言わせておけ、とアンティパスは思った。

「兄弟の妻をめとることは忌まわしい、と書いてある」

「……それで。何か申したいことがあるようだな」

「あなたのことだ。ヘロデヤ殿との結婚は、律法にかなったことではない」

 やはり自分から切り出したか。若いころから、ヘロデヤは美しい女だった。異母弟のピリポが妻にしたと聞いて、余計に気になった。ガリラヤ東岸の税がなかなか上がらないという問題を、総督府から指摘されたとき、少しそれを助けてやる代わりにヘロデヤを手放すように、と密かに耳打ちをした。

 意外なほど、ピリポはあっさりとそれに従った。もっとも、総督府からの指摘と言ってもそう深刻なものではなく、決まり文句のようになっている発言をアンティパスが大げさに加工し、今すぐに対応できなければ領地を召し上げると息巻いている、と脚色して伝えたものだった。それに実のところ、税収が上がっていないのは、アンティパスの領地でも大して変わらない。しかし、元々アンティパスに強く言えない気弱なところがあったピリポは、むしろ守ってくれたことに感謝しながら、ヘロデヤを娘とともに放り出したのだった。

「今からでも悔い改めて、洗礼を受けなさい」

 宮殿で兵に囲まれ、縛られた状態だというのに、ヨハネはまるで荒野で説教をしているかのように、堂々と語っている。たいした度胸だと思う。それにしても、領主をつかまえて、洗礼を受けなさいとは。

「ちと言葉が過ぎるようだな、ヨハネ。余は荒野でそちに教えを乞う者たちではない。皇帝陛下から領主として任ぜられ、そちらを治める者である。余に対する言葉は、皇帝陛下に対するものでもある。その余に悔い改めよ、というのは、皇帝陛下を汚すに等しかろう。考え直す時間をやろう。地下牢で、頭を冷やしてみるがよい」

 アンティパスは兵に合図した。二人が両側からヨハネの腕をつかんだ。

「あなたは」

 ヨハネはかすかに抗い、言葉を続けようとしたが、アンティパスは手を振り払うようにしてさえぎり、連れていけ、と命令を出した。こんなものでいいだろう。正直なところ、飽きた。しばらく地下牢で頭を冷やせばこの男も変わるだろう。次の瞬間にはヨハネのことなど頭からなくなり、宴会での余興について、思いを巡らせ始めた。


「アンデレはまた、ペレヤに行ったのね。大丈夫なのかしら」

 アマンダはかまどに木をくべながら、シモンに話しかけた。漁から戻り、片付けを済ませると、休む間もなく出かけてしまったのだ。

 先月、アンデレが話を聞きに行っていた時に、ヨハネが捕縛された。領主のことをあからさまに批判したため、王宮の役人が兵を連れてきたのだという。それを聞いてシモンもアマンダも、アンデレが落ち込んだり、やけになって無謀なことをしたりしないかと心配したのだが、当の本人は、意外に落ち着いていた。ただ、ヨハネが捕縛されているペレヤの地下牢に、何度も面会に訪れていた。投獄された後も主張を変えることなく、何度問われてもアンティパスの批判を続けているという。

「大丈夫さ。ペレヤの宮殿の地下牢は開放的で、他のところに比べてずいぶんましだってアンデレが言っていたからな。面会者の出入りも厳しくないらしい」

 シモンが呑気な声で応じた。

「ましって、他の地下牢のことは知らないじゃない。開放的な雰囲気なのは、アンティパスが罪人に寛容なわけじゃなくて、捕らえた者を面白がって見物したり、話を聞いたりするためらしいわよ。むしろ……」

「気に入らない者はすぐに殺させてしまう、残忍なところがあるって言うんだろう。確かに鍛冶屋がそう言っていたのは聞いたけどさ」

 アマンダはシモンが続きを引き取ったので、心配しているのは自分だけではないのだということに気付いて、それ以上言い募るのはやめにした。黙ったままで、薪を燃やして熱くなってきた石の上に、伸ばしたパン生地を載せる。程なく、小麦粉の焼ける香ばしい煙が部屋の中を漂い始めた。


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