第13話 見よ、神の子羊を
騒ぎが大きくなったのを機に彼らから離れたツィラは、そのまま一気に駆けて小さな丘を一つ越えた。恐らく、そこにいた者たちからは、忽然と姿を消したように見えただろう。気付かれることなくその場を離れることなど、ツィラにとっては何でもない。
それにしても、驚くほど簡単に引っかかった。何度か足を運び、ヨハネが教えている内容から、王家の批判をさせればいいのではないかと考えた。公の場では問答もしづらかったが、一部の弟子たちと語り合っている時ならば、やりとりもできるだろうと見当をつけた矢先だった。
アンナスからは様子を詳しく探ってくるように、という命令を受けただけだったが、本当は何とか相手の弱みをつかんで来いという意図がある。しかしそれを、決して明らかな言葉にはしない。万が一にも自分が捕らえられた場合、アンナスには何の後ろめたさもないという形になっている。あくまでも様子を探る中で、たまたま分かったという形で報告をする。何年もの間アンナスに仕える中で、そういう呼吸が出来上がっていた。
「これで大祭司様も安心なさるだろう」
そう独り言ちながらふと、自身の胸の内を乾いた風が吹き抜けていくのを感じていた。
ツィラの報告を聞きながら、アンナスはこみあげてくる笑いをこらえることができなかった。どうやら案外に脆い相手だったようだ。確かに純粋に真理を追い求め、自ら清廉な生活を行っているヨハネという男に弱みなど見つけられず、厄介な相手だと思っていた。しかし、謀を巡らせることなど、想像もしていないに違いない。公の場で堂々と、ヘロデ王家を否定してみせたのだ。後はツィラが持ってきたこの情報を、アンティパスに知らせてやるだけでいい。こちらが手を出さなくとも、ヘロデ党が捕縛に動くだろう。もし、ヨハネ本人が否定したら、圧力があると言説を変える男だ、と吹聴して回らせればよい。いずれにせよ、クムランに拠るエッセネ派の勢力拡大はこれで止められる。それに、アンティパスに対しても、貸しを一つ作ることになるので、一挙両得というものだ。
それにしても、ツィラの動きはいつもながら見事だった。群衆に紛れて、教えを聞きに来た求道者というふりをして通い、洗礼の儀式も経て、いつの間にかヨハネの側にいた。集まっていた弟子たちに混じってその説教を聞きながら、アンティパスに対する批判を引き出したのだ。それも、他の者も聞いている中でのことなので、いざとなれば証人にも事欠かない。念の入ったことに、その場にいた何人かについては名前や住まいまで突き止めてあって、呼び出すこともできるようにしてあった。
アンナスは、足下にひざまずいているツィラの、表情のない顔を見ながら、ふとこの男が心変わりをして裏切ったら、と想像した。
元は神殿に仕える者の中から、アンナス自身が見出した者だ。何人かを使ってみて、この男が最もすぐれた適性を顕した。はじめは、大祭司としての宗教的権威にものを言わせ、信仰心に訴えかけた。いかにも善良で、誠実な好青年で、大祭司の命に従うことは神の意志に従うことに等しい、と無条件で信じていた。だからこそ、疑われることなく、どこにでも自然に入り込むことができたのだろう。しかし、役割をこなして頭角を現すにつれて、表情が見えなくなっていった。ひざまずいている姿勢だからか、アンナスの前では目線を上げることもあまりなくなった。それでも変わらずに任務を果たせるのは、必要に応じて表情をも作ることができるようになったからだろう。今では、宗教心というよりも、仕事そのものに魅せられている、という雰囲気がある。それだけ優秀だということではあるが、無条件の忠実さを期待することは難しくなっている。
もし、自分とのこうしたやりとりをピラトなりアンティパスなりに流したとしたら、形勢は一気に逆転してしまう。そしてそうならないという保証はどこにもない。純朴な信者だったはずの男を、そのようにさせたのは他ならぬ自分である。アンナスは、自らの足下の危うさに、かすかな恐れを覚えるのだった。
ツィラの家は裕福な商家だった。悪事を働くわけではなかったが、富を何より優先する父の生き方に、幼いころから反発を感じていた。安息日の都度、立派な服を着てシナゴーグに行き、勿体をつけて献金もするくせに、日々の暮らしの中では律法などまるでどこ吹く風という態度に、ある時耐えられなくなって、家を出た。そして神殿で仕えるようになった。
大祭司から直接声をかけられ、仕事を頼まれたことは、信仰を大切にしたいと願っていたツィラにとっては大変な名誉だった。はじめは、神殿の庭に出て、人々の話すことをそれとなく聞いてくるように、といった他愛もない内容だった。少しずつその場所が微妙なところに移っていく中で、実は間者のようなことを期待されているのではないかということに気づき始めた。ちょうどその頃、父が死んだ。食事の最中に倒れ、そのまま意識が戻ることなく、数日眠り続けて息を引き取ったのだと聞かされた。
父と最後に交わした言葉は、何だったろうか。死ぬ直前に、どんな話をしたかったのだろうか。ツィラは看取ることもできなかったことを悔いたが、取り返しがつかないことを悟って、あれこれと考えることを止めた。そうして心を閉ざしてしまってからは、不思議なことに、ツィラの間者としての仕事ぶりには磨きがかかっていくことになった。
例の若い男はその後姿を見せていない。集まっている人々は、気を取り直して、ヨハネの説教に耳を傾けていた。ヨハネの方も、何事もなかったかのように、平然と説教を続け、集まった人々に洗礼を授け続けていた。アンデレを含め、周りで教えを聞く弟子たちは、ユダヤからガリラヤまでの諸地方でそれぞれの生業につき、暮らしを持ちながら、かわるがわるにこの荒野に出てきていた。ただひとりヨハネその人だけは、ほとんどの時間をその荒野で過ごしているようだった。一応はこのクムランの荒野の、さらに奥の洞窟に起居する宗団に属してはいて、時折そこに戻ることもあるのだ、と言っているが、少なくともアンデレがいつどのような時刻に訪れても、必ずいつもの場所に姿があった。
「救世主キリストが来たら、どんなことが起こるのですか」
火を囲みながら、数名の仲間たちと共に、アンデレが尋ねた。
「その方は、ご自分の脱穀場を隅々まで掃き清められる。その時にはイスラエル人も異邦人もない。モーセの教えに従って、裁きをなさるのだ。だから私は、その時に備えて民に悔い改めを説いている」
「裁きを行われる、というのはどういう方法なのですか。やはり、剣を持って戦うということなのでしょうか」
兄のシモンは、槍や剣を持って戦うなら、結局暮らしを踏みにじることになる、そういう意味ではローマも熱心党も同じだ、と言った。もし救世主が現れたとしても、ローマを相手に蜂起するなら、やはり同じことになる。その時に、自分はどうすればいいのだろうか。アンデレはそれを考えていた。
「神のなさることは、人には想像できない。天から火が下されて、たちまちのうちに焼き尽くされるのかもしれないし、地が割れて、罪人たちを生きたまま呑み込んでしまうのかもしれない。もしかすれば、激しい疫病が送られるということも考えられるだろう。いずれにせよ、かの時が来れば明らかになる」
ヨハネは火であぶったいなごを口に入れ、咀嚼しながら言った。
「天から、火が……」
アンデレの隣に座っていた男が、生唾を呑み込むのが分かった。地上が焼き尽くされる様子を想像したのだろう。ヨハネの方は、言葉の激しさの割に、穏やかな表情でいる。木をくりぬいた粗末な椀で、水を飲んだ。
不意に、ヨハネの動きが止まった。手にしていた椀を取り落としたかと思うと、何かに引っ張られるようにして、立ち上がった。
一同は唐突なヨハネの態度にひとしきり驚いた後、ヨハネの目線の先を追った。荒野の外れに、一人の男の歩いてくる姿があった。ゆっくり、まっすぐにヨハネのところに近づいてくる。それぞれが、知らず知らずに立ち上がり、やがて声の届く距離まで近づいた頃には全員が男の姿を、注視していた。
「見よ……神の子羊だ」
ヨハネの声がかすれていた。これと言って、目を惹くような際立った特徴があるわけではなかった。特別に背が高いわけでもなければ、きらびやかな衣装を身に着けているわけでもない。剣も杖も、手にしていない。亜麻布の肌着の上に同じく亜麻布の上着を羽織った、つまり一般的な、どこにでもいるユダヤ人だった。しかし、ヨハネの方は明らかに緊張している。
男はヨハネの前まで来て立ち止まり、束の間、向き合った。かすかに目を細めているその様子は、たとえば長く離れていた旧い友と再会したような、感慨深げな喜びがあふれているようで、アンデレには、ヨハネがその男にとって旧知の相手なのだろうかと思えたほどだった。
対照的に、目を大きく見開き、言葉を失ったように見えるヨハネの横を、男は通り過ぎて、衣服を脱ぎ捨てるとそのままヨルダン川に入っていった。ヨハネはその様子を見て、慌てて駆け寄り、
「私の方が、あなたから洗礼を受けるべきではありませんか」
と訴えた。しかし男は水の中からヨハネのことをまっすぐに見つめ返し、
「今はそうさせてもらいたい。すべての正しいことは、わたしたちにふさわしい」
と静かに答えた。その言葉を聞くとヨハネは、意を決したように自らも皮の衣を脱ぎ、恐る恐るという様子で川に足を踏み入れた。見ている一同はヨハネのその様子に圧倒されていた。なにかこれまでとは異なる、神聖なことが起こっているのだというおぼろげな感覚に戸惑うばかりだった。
「とにかくさ、すごかったんだよ、兄ちゃん」
アンデレは家に戻るなり、その男を見た時の様子を夢中でシモンに語った。なぜか、語らざるを得ない熱いものが、胸の奥から沸き起こってくるのだ。
「何のことだか、ちっとも分からん。何が、どうすごかったんだよ」
シモンには、アンデレがここまで熱心に語ること自体が珍しく、なかば面白がって聞いていた。祭りでエルサレムに上った際、ほうぼうでうわさを聞いた預言者に会いに行く、と言って一行から離れた。しばらくして戻ってくると、悔い改めを説くヨハネという名の預言者に会ってきた、と言っていた。それ以来、よほど気に入ったのか、三日はかかる道のりを幾度となく往復していたが、アンデレがそのヨハネについて話すことはあまりなかった。それがこの変わりようである。
「なにせ、えらい律法学者や祭司が来たって全然動じなかったのに、あの人の前ではかちんこちんに緊張していたんだ。何か言葉を交わしたわけでもないし、特別な奇跡をして見せたわけでもないのに、だよ。姿を見るなり、神の子羊だって言ったんだ」
「知り合いだったっていうことなのかしら」
アマンダが酒を運びながら、言った。仲の良い兄弟だったはずのアンデレが近頃あまり家に寄り付かず、留守がちになったのは、自分たち夫婦に遠慮しているのではないかと、少し心配をしていた。シモンからそれは思い違いだと言われても、やっぱり気にはなっていたのだが、目の前で元気に話しているアンデレの様子は、アマンダを安心させた。
「知り合いって感じでもなかったかな。水から上がった後も特にやりとりはなくて、そのまま行ってしまったからね。救世主キリストがもう間もなく現れるんだってヨハネはずっと言ってた。あの人がそれなんだろうか」
「救世主っていうからには、何か印みたいなものはないのか。それらしい恰好をしていたり、それらしいものを持っていたり。大体、ヨハネって預言者の方も、どんな格好をしているんだよ」
「言ってなかったっけな。ヨハネは皮の衣を着て、腰のところを荒縄で縛っている。それだけなんだけど、いかにも預言者って感じなんだよ。でも、その人はごく普通の恰好をしていたな。それらしいところはどこにもなくて、一人で歩いてきたんだ」
「普通、か。じゃあ、何がすごかったって言うんだ。さっぱり分からんじゃないか」
シモンは笑いながらアンデレの杯に酒を注いでやった。よく分からないが、とりもなおさずアンデレが何かに夢中になっているのはいいことだと思った。思慮深くて冷静なのはいいけれども、ちょっとくらい熱くなるものがあったっていい。熱心党の話を聞いたときも、気になっていたくせに自分に気を遣って、結局それ以上は関わりを持っていない。もちろん、弟が剣や槍を持つなんて物騒なことに首を突っ込むのも、困りものなのだが。
アンデレの方も夢中で話ながら喉が渇くのか、いつもより速く杯を干していった。明日からの漁が終わったら、またベタニヤまで行ってみよう、と思いながら、心地よく沈んでいった。
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