第12話 洗礼者ヨハネ
婚礼の宴を終えて、安息日の朝を迎えた。さすがに疲れが出て、シモンは少々朝寝をした。日頃は色々と細かな戒律に縛られている気がして、安息日は窮屈なものだったが、今日ばかりは何もするなというのはありがたい。お言葉に甘えてゆっくりさせてもらうとしよう、と思っていた。
「おはよう、シモン。よく眠っていたわね」
見慣れた自宅の風景に、聞き慣れない声が一瞬シモンを混乱させた。思い切り伸びをしようとしていたところで中断されたので、あくびをしかけた口を半開きにしたまま、シモンは声の主の方を見た。
「どうしたの、幽霊でも見たような顔をして」
アマンダがくすりと笑いながら、近寄ってきた。
「ああその、なんだ、おはよう」
そうか、結婚したんだな。朝、目覚めたら当たり前にアマンダがいる。これが結婚ということなんだな。ようやく、目がはっきり覚めて、実感が湧いてきた。
シモンが起き上がった寝台の上に、アマンダが静かに腰かける。なんだか、いい匂いがした。なんとなく、照れくさいが、それを力一杯吸い込む。少しだけ、勿体ない気がして息を止めてみたが、すぐに吐き出した。けれどもなぜか、その吐息には、ため息の要素が幾分混じっていた。シモンの顔をそっと撫でながら、アマンダがのぞき込む。
「それにしても、ずいぶん飲んだわね」
婚礼の宴は五日の間続いたが、いつも陽気なはずのシモンが、途中からどちらかというとやや言葉数が減り、ぶどう酒を飲んでばかりいた。
「いや、どうもな……」
宴のぶどう酒を思い出して、シモンは少しだけ顔をしかめた。
「やっぱり、ゼポンのことが気になっているのね」
アマンダが、切り込んだ。図星だった。気にするだろうからと思ってシモンは口には出さなかったが、ゼポンが町中から誤解を受けて、外出もままならなくなってしまっているということを想像すると、やはりやり過ぎてしまった、という後味の悪さが残る。だから、レビが持ってきたぶどう酒――恐らくはゼポンがレビにそう言うように頼んだに違いない――を、なくしてしまいたくて、ひたすら飲み続けたのだ。
「……うん」
いたずらを叱られてしょんぼりしている子どものように、シモンは肩を落とした。誰かが沈んでいると分かっていて、自分だけが楽しむということがこの男にはできなかった。
「ね、行ってみようか」
「えっ」
「だから、ゼポンの家に。安息日が明けたら、一緒に行ってみようよ。こんな風にもやもやしているだけなんて、あなたらしくないわ、シモン」
アマンダはその細い目を大きく開けながらうつむいているシモンの顔をのぞき込んで言った。
「いやでも、用事もないのに訪ねていくのも」
「ぶどう酒を差し入れてくれたじゃない。レビからだって言っていたけど、あれはゼポンの考えに違いないわよ。だからそのお礼を言いに行けばいいのよ」
「ぶどう酒の、礼か。なるほど」
それなら確かに訪ねていく立派な理由になるし、顔を見た上でやり過ぎたことを詫びればわだかまりもなくなるんじゃないか。シモンは少し気持ちが軽くなってアマンダを見た。アマンダもシモンを見て、にっこり笑っている。その頬にえくぼがあるということに、今さら気付いたシモンだった。
「で、何をしに来たんだね。税金でも納めに来たか」
ゼポンは2人が訪問しても、立ち上がりもせずに言った。
「でも、それならレビのところへ持って行ってくれ。俺はもう、徴税人は廃業しようと思っているんでね」
吐き捨てるように言ったゼポンはそのまま寝転んでしまった。ふてぶてしいというより、座っていられないという感じである。
「徴税人を辞めるって、どういうことだい。あ、それより、俺たちは税金のことで来たんじゃないんだ。その、ぶどう酒の礼を言おうと思って」
「ぶどう酒だって? なんのことだね」
「レビが、私たちの婚礼に、ぶどう酒を差し入れてくれたわ。本当はゼポンが頼んでくれたんでしょう」
「レビがそう言ったのか」
寝そべって、目も合わせないままゼポンが言う。
「レビは自分からだって言っていたけどさ、個人的に付き合いもないレビがぶどう酒を差し入れるなんて考えられないじゃあないか。それに、本当はゼポンが来たがっていたんだが、とは言っていたよ」
レビが言っていたことを思い出しながらシモンが言った。
「ふん、まあどうでもいいさ。それより、用件がそれだけだったらもう済んだろう。さっさと帰ったがいいぜ。なにせおれのところにいるとあんたたちまで穢れた者として扱われちまう」
「それさ。そのう、野うさぎの死体を持ってきたのはちとやり過ぎてしまったと思って。すまなかった」
シモンが頭を下げた。それを聞いて、ゼポンはのっそりと身を起こしてきた。
「そのことなら、気に病むことはないさ。実はな、おれもあの時、困ったもんだ、と思ったよ。大勢の町の連中が見てもいたからな。ところが、だ。実際には、何も変わらなかったんだよ」
「変わらなかった? 何も、変わらなかったのか」
肩透かしをくらったような、間抜けな顔をしてシモンが繰り返した。
「そうだ。何も変わらなかった。だからあんたたちは何も気に病むことはないんだよ」
「じゃあなんで家に閉じこもっているんだ」
「何も変わらなかったからだよ。つまり、おれは穢れた動物を食べていようがいまいが、町の連中にとっては変わらない。はじめから、穢れた人間として扱われてたってことさ」
それだけ言うと、ゼポンはまた寝そべって、今度は壁の方に寝返りをうち、シモン達に背を向けてしまった。
「そういうことでな。帰ってくれ」
手で追い払う仕種をしたきり、ゼポンはシモンたちの方を再び見ようとはしなくなった。シモンとアマンダはなすすべもなく、また、かける言葉も見つけられないまま、ゼポンの家を出る他なかった。
「なんだか、かわいそうな人ね」
とぼとぼと歩きながら、アマンダはつぶやいた。税金を取り立てている時にはなんて嫌なやつなのだろう、としか思えなかったのだが、今目の当たりにしてきたゼポンの姿は、アマンダの心を締め付けた。それはシモンにとっても同じで、
「一度道を間違えてしまったら、戻ることはできないのかな」
その思いは、言葉にすることのないまま、二人の中にずっとわだかまることになった。
年が明け、シモン達は過越の祭りのために、久しぶりにエルサレムに上ることにした。毎年神殿に行くほど熱心ではなかったが、なにせシモンが花嫁を迎えたのだから、今年くらいは、ということで、皆でやってきたのだ。
「あたしまで加えてもらっちゃって、なんだか申し訳ないわねえ」
ドナは少しも申し訳なさそうではなく、むしろ嬉しそうに目を細めながら言った。夫と死に別れてからは一人娘のアマンダと二人っきりだったので、エルサレムどころかほとんどカペナウムの町を離れることもなく過ごしてきた。
「にぎやかな方がいいですからね」
ヨナの方も、家の中が華やかになって、近頃は目尻が下がりっぱなしだった。それにしても、やはりエルサレムのにぎわいは、カペナウムやベツサイダとは比較にならない。カペナウムでも市を冷やかして歩くのが好きなシモンは上機嫌で、軒を連ねている露店をあちこち覗きながら歩いている。アマンダもそんなシモンと肩を並べて、楽しげだった。アンデレは、これまでは自分が占めていたその位置に、朗らかな義姉が入ったため、居場所を確保しきれないでいたが、離れて歩くのも奇妙な感じだと思ったので、二人の後ろをついて回る形になっていた。
「とにかくよ、いつ行っても行列なんだよ」
「大層な人気だなあ。で、お前はどうしたんだよ。その行列に並んでみたのかい」
「ああ、なんて言うだろうなあ、心がこう、きれいになったって言うか、さっぱりしたっていうか、生まれ変わった気分だな」
果物を売る露店の前で、ナツメをかじりながら男たちが話していた。そこで売っているものを褒めているんならその商売の宣伝だと思うが、どうやらナツメの話ではないらしい。
「生まれ変わったって、どういうことなんだい」
アンデレが口を開く前に、シモンの方が尋ねていた。こういうとき、この男にはためらいがない分、あれこれと考えてしまうアンデレよりも、動きが速い。
「ああ、あんた、知らないのかい。預言者のことだよ」
「なんだ、預言者か。そんなもの大して珍しくもないが、それがどうして生まれ変わった気分になるんだ」
「よくは分からないけどよ、小難しいことは何も言わないで、ただ悔い改めよって、そう教えてるだけなんだ。それでヨルダン川に浸かってな。俺たちにでも、よくわかるのさ」
「悔い改めよ、か」
シモンはなんとなく、ゼポンの顔を思い浮かべた。あいつも行ってみたらいいのにな。アマンダも同じことを考えたらしく、シモンを顔を見合わせている。
「その人はどこに行けば会えるんですか」
アンデレが尋ねた。シモンが関心を持ったらしいのを見て、確認してみようという気になっている。
「ベタニヤの、郊外だよ。荒野にいるんだが、なに、あの辺りまで行ったら大抵何人かは集まっているから、すぐに分かるさ」
ナツメの種を吐き出しながら、男が答えた。神殿の帰りに、ちょっと様子を見に行ってみよう、とアンデレは考えていた。
エルサレム神殿は、さらににぎやかだった。そもそも山の上にある町なので、エリコからの道のりの半分は上り坂になっているが、城壁の門をくぐってさらに続く坂道を上りきったところにやっと神殿の大理石が現れた。
異邦人の庭と呼ばれる神殿の外庭では、あちこちでいけにえにするための動物が売られていて、外国から礼拝に訪れる者のための両替商や怪しげな店まで所狭しと並び、大声で客を呼び込んでいる。
「いつ来てもやかまし過ぎるな」
ヨナが顔をしかめる。生粋の漁師で、こんな喧騒は落ち着かない。
「いつ来てもにぎやかだな」
シモンの方は対照的に、こういう祭騒ぎが好きなので上機嫌だった。さしあたり、自分たちのささげるいけにえにする動物を買うために、そうした喧騒を物色していると、アマンダがシモンの袖を引いて、神殿の入口の方を指した。
「ねえ、あれ……」
シモンがそちらに目をやると、痩せた男が一人、立ち尽くしているのが見えた。
「ゼポンじゃないか」
思わず駆け寄ろうとして、アマンダに引き留められた。
「待って、シモン。様子が変だわ」
ゼポンは喧噪の中で一人、ただうつむいて、身動きもしていない。そっと近寄ってみると、どうやら肩を震わせて泣いているようだった。すぐそばを通り過ぎる人々は、一瞬怪訝な表情をするが、すぐに忘れたように立ち去っていく。シモン達は言葉もかけられないまま、小石を投げて届くほどの距離から、じっと見守っていた。やがて肩の震えが激しくなり、ついにはしゃくりあげながら胸をたたいて、
「こんな……罪人のおれをあわれんでくれ」
そう叫ぶと、そのまま神殿には入らずに踵を返して立ち去った。
「あの人なりに、悔い改めようとしているのね」
アマンダは切なそうな表情を浮かべて、その後姿を追っていた。シモンは、どうしていいのか分からないまま、やはり悶々と、その後姿を見送った。
そばで見ている分には、ずいぶん荒々しく感じられたが、実際に順番が回ってきて、自分の頭に置かれた手は、存外柔らかく、繊細だった。水面にたたきつけられるように見えていたのは、ヨハネの手によるものではなく、そっと置かれた手に応えて自ら水に沈もうとするときに、川の流れがぶつかって盛大な水しぶきが上がるからのようだった。
祭りで聞いたうわさを確認するため、アンデレはシモン達と別れて、ベタニヤ郊外の荒野にいるという預言者に会いにやってきた。
身をきよめるための沐浴はそう珍しいことではなかったが、通常は自分で水に入るだけで、祭司が一緒に浸かることはない。祭司がきよめの水をふりかける、という儀式もあるが、この男は川の中ほどまで一緒に進み、水に沈むための手助けをする。それだけのことなのだが、連日行列をなすほどの人々が、わざわざベタニヤ郊外の荒野に出向き、ヨルダン川でこの洗礼と呼ばれる儀式を受けているのだ。
「悔い改めよ」
その語るところは、きわめて単純で、明快だった。国のあり方を語るのではなく、難しい律法の解釈を語るのでもなく、救世主キリストが来る前に、神の前にある自分自身の生き様をまず改めよ、と迫っている。立場や考え方の違いを超えて多くの人々が惹かれるというのも、道理だった。
ラクダの毛皮をはおり、腰まわりを荒縄で縛っただけの出で立ちには、一見、山賊か何かを連想させるような猛々しさがあった。しかし、伸び放題の髪はきちんと束ねられていて、顔や手にも汚れは見当たらない。何より、叫んでいる言葉や身なりの激しさにも関わらず、その前に進み出た人々を見つめるまなざしの柔らかさは、この男の本質が荒々しさではなく、人への慈しみにあるのだということを示していた。
聞いていてすぐに、アンデレは納得した。とにかくまず、自分自身が神の前に悔い改め、正しく生きることだ。それは熱心党のことで迷っていたアンデレにとっては新鮮な教えであり、気づきだった。国がどうであろうが、神殿がどうであろうが、いや、兄ちゃんがどうか、ということでさえ、関係ない。確かに、幼いころから諳んじてきたモーセの律法は、ひとりひとりの生き方について語りかけていた。それで、自身も人々にならって、ヨハネから洗礼を受けることにしたのだ。
生まれ育ったベツサイダを流れているヨルダン川に比べ、死海に注ぎ込む手前のこの辺りでは、流れはゆるやかで川幅も広い。それでも、膝の上まで浸かると、水の勢いは結構強く、油断をしていると足を取られそうになる。頭の上に置かれたヨハネの手に、そっと力が込められたのを合図に、アンデレも川に潜った。その時、何の影響か、足下にあった石が動き、姿勢がずれたところへ川の流れを受けて、水中で、転びそうになった。腕を、つかまれた。そのまま水面まで、引き上げられる。ヨハネが、自分の方を見ながら、歯を見せて笑っていた。アンデレは、この人から学びたい、と素直に思った。
「私などよりも、はるかに偉大な方が、来られる。もう間もなくだ。私には、その方のくつのひもを解く値打ちもない」
ヨハネは、集まった者たちを相手に、教えていた。アンデレもその中に加わっていた。洗礼を受けてからというもの、アンデレはこのベタニヤとカペナウムを行ったり来たりしていた。漁に出ていないときには大抵、ここにいる。そのため、ほとんど家には帰っていない。
「それは救世主キリストのことでしょうか」
アンデレの隣に立っていた、若い男が尋ねた。エルサレムからの帰路、はじめてヨハネのもとを訪れた時にも見られた顔だった。
「その通りだ」
「キリストはダビデの子だと言われています。ヘロデ大王の三人の息子たちの誰か、ということなのですか。長男のアルケラオスは追放されていますから、次男のアンティパスがキリストということになるのでしょうか」
「そうではない。弟の妻を横取りするような男が救世主であるわけがないだろう。第一、ヘロデの家はダビデの血統とは全く違う」
アンティパスは、異母弟であるピリポの妻だったヘロデヤという女と結婚していた。うわさでは、ガリラヤ湖東岸の領主の座を引き続き認める代わりに、ヘロデヤを強引に求めたと言われていた。
男の表情にかすかな笑みが浮かんだ。しかし、それは親しみを込めたものというより、むしろ酷薄な印象を与えるものだった。引き下がる様子を見せずに、続けて口を開く。
「では先生は、ヘロデ家の王をお認めにならない、ということでしょうか」
ざわめきが起こった。
「王が誰であるのかということなど、どうでもよろしい。いずれにせよ、ローマの支配下にあるのだから、何ができるわけでもない。神が言われたのは、ダビデの子孫から救世主キリストが現れる、ということだ」
「それでもアンティパスはガリラヤの領主ですが、その行いが間違えていると先生はおっしゃるのでしょうか」
ざわめきはますます大きくなった。アンデレは違和感と不快感を覚えた。一体、この男は何者だ。教えを乞う者の態度とは思えない。
「神の前に領主も民も関係ない。すべての人間は、等しく律法の下にあるのだ」
そうだ、その通りだ。ざわめいていた一同が口々に叫び出した。それは領主を堂々と批判してみせたヨハネに対する快哉と、大丈夫なのだろうかという恐れの現れだと思えた。アンデレ自身もその明快な宣言に心から賛同するとともに、アンティパスの周りにいるヘロデ党の人間の耳に入りでもしたら厄介だ、と思い、その男の方を見た。しかし、たった今までヨハネと言葉を交わしていたはずの若い男は、ざわめきの中から忽然と姿を消してしまっていた。あたりは見渡す限りの荒野であるが、歩き去る姿すら見つからず、ただ不吉な予感だけが、吹き抜ける風に乗って、運ばれていくようだった。
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