第11話 婚礼

 ヨナは先ほどから家の前を行ったり来たりしていた。荒れた湖の上で、舟を操る冷静さとたくましさはどこへ行ったのかと思えるほどに落ち着きなく、しかも、間の抜けた表情をしている。

「父ちゃん、少しは落ち着けよ」

 アンデレは少々あきれながら、何度目かの言葉を父にかけていた。婚礼の支度は整っている。次の安息日までの一週間、招待している客が十分に飲み食いできるだけの肉もパンもぶどう酒も、準備した。後は花嫁の到着を待つばかりである。


 シモンから、結婚するんだ、と突然聞かされた。でも、アマンダと出会ったところから、アンデレには分かっていた。本人は隠していたつもりなのかもしれないが、はじめからばれている。だから少しも不思議ではなかった。しかし、普通は婚約をして何か月も、場合によっては何年もかけて結婚の準備をするものなのに、シモンときたら、すぐにだ、と言って譲らない。兄らしい大胆さだったが、さすがにそれには驚いた。慌ててありったけのものをかき集めて、町中に話して回って何とか一か月あまりで、婚礼の準備を整えた。母が死んで、父と自分たち兄弟だけの家は、がらんとして無駄に広く感じられていたが、これからは明るくもなるだろう。


 しばらくして、あたりが賑やかになってきた。花嫁の一行が近づいてきたらしい。やがて通りの向こう側に、色とりどりの布や花で飾り立てられた、天蓋が現れた。負けじと着飾った女たちが数名、その前を歩いてくるのが見える。どうやら、花嫁自身も輿は使わず、天蓋の下を歩いてきているらしい。

「き、来た」

 ヨナは声をうわずらせて言い、その場で固まってしまった。よほど緊張している。はやし立てる周りの人垣とは対照的に、静かに近寄ってくるその一行を見て、アンデレ自身も漸く緊張してきた。あきれたことに、義理の姉になるアマンダの姿を見るのは、今日が初めてだ。それほど、あわただしい婚礼準備だった。


 見え始めてから気が遠くなるほどの時間をかけて、花嫁の天蓋はアンデレの前まで進んできた。天蓋が立ち止まると、騒ぎ立てる周囲の声も途切れて、静寂に包まれた。先導してきた女たちが左右に分かれると、正面に立っていたやや小柄な女性が、ヨナとアンデレに軽く会釈をしてから、天蓋の下に手を差し出した。花嫁の母のようだ。その手をそっと握り返し、天蓋の下から現れたのは、母親とは対照的に少し大柄な姿だった。かぶり物をつけているために全部は見えないが、口元に朗らかな笑みをたたえ、周りにいる付き添う人々にいちいち顔を向けて会釈をしている。幸せそうな笑顔で応えている周りの人々の様子は、まるで彼女を中心に花が咲いたように見える。この人なら兄ちゃんとお似合いだ、とアンデレは思った。


 アマンダは初めて見るシモンの父と弟に迎え入れられ、これから自分の住まいとなる家の奥の間に座って、付き添いの女友達に髪をとかしてもらっていた。きっと緊張して、かちかちになるんじゃないかと思っていたのに、不思議なことに家を出る時から落ち着いていて、むしろわくわくしている自分に驚いていた。

「母さん、シモン達の家は男ばかりのはずだけど、きれいに片付けられているわね」

 向かい合って座っているドナに向かって、アマンダはころころと笑いながら言った。

「お前よりもずっとしっかりしているみたいだねえ。話に聞いていたところからすると、弟のアンデレがきちんとしているのかしら」

 これから婚礼が始まるというのに、ずいぶん不躾な会話だと自覚しながら、ドナは娘の楽し気な様子にほっとしていた。やっぱりシモンでよかった、と心から思った。はじめて市で会った時から、なんだか息子のような気がしていたのだ。それが本当に、息子になろうとしている。夫と死に別れてからは、アマンダにはさみしい思いもさせただろうけれど、我ながらいい娘に育ってくれた。ドナは、これから始まるシモンとアマンダの暮らしが、ずっと幸せに続くようにと、心の中で、祈り続けずにはいられなかった。


 日が傾き始めたころ、町のはずれにある漁師仲間の家で、やはり友人たちと一緒に待機していたシモンは、灯皿を手にして移動を始めた。そうして花嫁の待つ家を訪れるというのが、婚礼の儀式だった。アマンダも準備を終え、ドナやアンデレと一緒に待ってくれているはずだ。

「シモン」

 友人の一人が隣を歩きながら話しかけてきた。

「なんだ」

「鼻の下」

「えっ」

 何かついているのだろうかと手をやってみるが、ひげ以外に特に触れる物はない。

「鼻の下がどうした」

「伸びてるよ」

「やかましい、ややこしいことを言うな」

 思い切り顔をしかめて怒鳴ろうとしたが、うまくいかない。どうやら、指摘の通り、鼻の下どころ体中の力が抜けているようだ。とりわけ、顔面の筋肉は緩み切っている。ここは緊張しているべきところなのだろうけれども、一向にその気配は訪れない。むしろ、どうかすると笑い声が漏れてしまいそうだ。


 早くアマンダに会いたい。着飾った、花嫁姿の彼女はきっといつにもまして美しいに違いない。駆け出しそうな勢いで歩き始めたが、手にした灯皿の火が消えそうになり、慌てて立ち止まる。

「あわてなくても花嫁は逃げて行かねえよ、多分な」

 一人がたしなめ、付き添っている仲間たちが一斉に噴き出した。シモンは仕方なく、慎重に、ゆっくりと歩くことにした。松明とは違って、ずいぶん繊細だ。花婿として婚礼のための盛装をしているため、大柄なシモンはずいぶん恰好がいいはずなのだが、灯皿の火を気遣って背を丸め、よちよちと歩く姿はどこか滑稽で、この男の人間味が感じられた。


「来た」

 今度は戸口に立って町の外れの方を見ていたアンデレが、短く叫んだ。がやがやとにぎやかな人々の声の中で、それはかき消されそうな一言だったが、奥の部屋で待機していたアマンダの耳には、はっきりと届いた。ぴくっと肩の震えるのを自覚した後は、先ほどまでのうきうきした気分とは打って変わって、やにわに緊張し始めた。我ながらどうしてしまったのだろう、と思うほどに心臓は高鳴り、顔のあたりが熱くなっている。そのくせ、体の芯の方では小刻みな震えが止まらない。

「母さん」

 思わずドナを見た。ドナは落ち着いた目で、わが娘を見て微笑んでいる。

「アマンダ。いよいよだね」

 静かな母の語りかけに、アマンダはああそうか、いよいよなんだ、だから緊張してきたんだと妙に納得した。


 いくらも離れているわけではない。目をつぶっていてもたどり着けるほどの距離だが、シモンにはずいぶん長い道のりに思えた。同行している友人たちは相変わらずにぎやかにはしゃいでいるが、シモンの耳には入ってこなかった。やがて到着した自分の家は、松明の光と映し出された人々の影が揺らめいていて、なんだか見慣れない、別のもののように思えた。

「兄ちゃん」

 その不思議な風景の中から、アンデレの声がした。一行はそれを合図に騒ぐことを止め、神妙な顔になった。松明の火のはじける音が響く。

「アマンダが待っている」

「うん」

 短く応じて、シモンが鴨居をくぐり、宴が始まった。


 宴が三日目を終えようとする頃、少々異質な来客があった。居並ぶ客が婚礼の礼服を着ている中、一人普段着のままというのが目立っていたが、人々が反応したのはそのためではない。男は引き連れている若い者に甕を運ばせていて、そのまま、シモン達のいる奥の間に進んだ。

「徴税人のレビじゃないか。何の用だ。婚礼の宴にまで押し掛けるとは、不躾にもほどがあるぞ」

 正面に座っていたアンデレが眉をひそめながら、詰問した。一緒にいたユダなどはすでに身構えている。

「これは失敬。しかし、今日は税の取り立てに来たわけじゃない。祝いに来たんだよ」

 男の合図に、甕を抱えていた二人の若者が、腰ほどの高さもある大きな甕を床に下した。

「これは私からの祝いのしるしだ。受け取ってくれ。そろそろ甕の酒も、寂しくなり始めるころだろうと思ってね。本来ならこのあたりを担当しているゼポンが来たがっていたのだが、あいにく不慮の事故でね。あることで町中から、穢れたものを好んで食べているのではないかという誤解を受けていて、婚礼の席などに姿を見せようものなら、穢れを持ち込んだということで、石打にでもされかねない。それで、遠慮したのだよ」

 ゼポンに野うさぎを持って行ったことか。シモンの方はすっかり忘れていたが、そういえばあれ以来、姿を見かけていない。ちょっとやり過ぎてしまったのかもしれないな、とシモンは思った。そうなるとこの男は、ゼポンに腹を立てたことや、いたずらをしてせいせいした気持ちなどはどこかに行ってしまって、心底申し訳ないという顔になった。

「いやその、ちょっとやり過ぎたかもな。すまなかった」

 小さくなって頭をかきながら詫びる花婿に、事情をよく知る一同は失笑したが、今度はレビの方が多少あわてて、

「いや、気にしなくてもいい。きっかけはあんただったとしても、誤解を受け続けているというのは、ゼポンの日頃の評判の悪さがそもそもの原因だからな。だが、あんなのでも、かわいい弟分なんでね。代わりにあいさつに来させてもらったというわけさ」

 と言わずもがなの言葉を返さざるを得なくなってしまった。


「徴税人なんかでローマの手先にならなくても、あんただったら食っていける方法はいくらでもあるだろうに」

 昔からレビのことをよく知っている鍛冶屋のシモンにそう言われ、レビは肩をすくめて見せただけだった。

「まあ、私の用は済んだのでね。お呼びでないようだから、さっさと退散するよ」

 踵を返したレビは、誰にも聞こえないくらいに小さなため息を一つついて、そのまま後ろを振り返らずに出ていった。

 私だって、できることならそうしたいさ。しかし、なかなかそう簡単にはいかない。一度この仕事をはじめてしまったからには、いまさら他の商売をしようとしても、信用されないからな。早足で歩き去るその背中を、甕を運んできた若い者たちが慌てて追いかけていった。


「あいつも、根は悪い奴じゃないんだけどな。子供のころから、俺なんかちょっとうらやましいと思うくらいに、頭も良かったんだ。どこで間違えてしまったんだかな」

 レビが出ていった戸口の方を寂しげににらみながら、鍛冶屋のシモンがつぶやいた。

「ローマのやつらを皆追い出すことができたら、戻ってくるさ」

 身構えていたユダがそのまま立ち上がりながら言った。敵か味方か。ユダにはその区別しかない。ローマの手先になっている者に対する同情的な空気が流れ始めたことに、かすかないら立ちを覚えていた。この地方にたどり着いたときにはすでにレビは徴税人の親分だったので、古くからのベツサイダの仲間たちとは温度差がある。なんとなくおかしな酒になりそうだから、今日のところは引き揚げよう、と思った。

それを合図にして、他の面々もなんとなく気勢をそがれたように、席を立ち始めた。

「続きは明日ということにしようか。今夜はこのあたりで失礼するよ」

「新郎新婦もそろそろ疲れたろう。ゆっくり休んでくれ」

 口々にあいさつを交わしながら、ばらばらと解散していった。

 

 皆が引き上げていった後の食卓を見つめながら、アンデレはシモンに切り出した。

「あのさ、兄ちゃん。こんな席で言うことじゃないと思うんだけどさ」

 シモンは先を促すように、言いあぐねているアンデレを見て、首をかしげてみせた。

「兄ちゃんは、鍛冶屋のシモンやユダの熱心党のことをどう思っているんだい」

 アンデレは、ユダを連れて行ってからずっとそのことを考えていた。このままじゃいけない。この国は神の約束の国のはずだ。でも、はるかかなたにある、見たこともない外国の支配を受けている。王はいるが、それも神が立てたダビデの子孫ではない。エルサレムにいる大祭司も、律法を教えながらローマにも従い、偽物の王にも逆らわない。だれも、この国のことを正しく導くことができないでいる。だから、タマルばあちゃんも、ユダの両親も、いやそれだけでなく、レビやゼポンだって本当は犠牲者なのだ。そんなことを考えると、自分もじっとしてはいられないという気持ちが強くなってくる。けれども、ユダのように熱心党に加わるという決心もなかなかつけられないでいた。兄ちゃんはどう思っているのだろう。鍛冶屋のシモンから熱心党の話を聞いてからというもの、それをずっと聞きたかったのだ。

 アンデレが意を決して投げかけた質問を聞いて、シモンはふっと口元で笑った。なんだ、そんなことで悩んでいたのか、とでも言いたげな表情だ。

「俺は、好きじゃないな」

 あっさりと、答えた。

「好きじゃない、か。でもどうしてさ。兄ちゃんはこのままでいいと思っているのかい」

「そうじゃあない。でも剣や槍でもって戦うんだろう。それは俺たちの暮らしを壊してしまうことだ。そういう意味では熱心党もローマも一緒じゃないか。それだけさ」

 アンデレは燭台の向こうでアマンダと頭を寄せ合って微笑んでいるシモンの顔を見つめ直した。兄ちゃんの答えははっきりしていた。そして、それが正しいと心から思えた。それでこのところ迷ってきた熱心党の件については、完全にふっきれた。やっぱり兄ちゃんの考えることは確かだ。弟として、誇らしく思った。鼻の奥がつんとして、アンデレはあわてて目をこすった。


「行って来たぞ、ゼポン。私からだということでぶどう酒を届けた。それでよかったのかね、本当に」

 レビはシモンの婚礼にぶどう酒の甕を届けた帰りに、ゼポンを訪ねた。

「やあ、レビ、恩に着るよ。で、どうだい、シモン達は喜んでいたかい」

 部屋の片隅に座り込んでいたゼポンは、レビを見上げてかすれた声でつぶやくように尋ねた。もとより痩身だったこの男は、さらに痩せてしまって頬骨をとがらせている。ここしばらく、家にこもりっきりで、恐らくは食事もろくにとっていなさそうだった。

「にぎやかな宴会だったよ。私が行ったことで一瞬険悪になりかけたがね。税の取り立てではなく、祝いに来たのだ、と言ったが、目を丸くしていたよ。意味が分からなかったのかもしれんな」

「そうか、にぎやかだったか。そうだろうな、あの男のことだ。漁師連中だけでなく、町中から好かれているからな」

 かすかに目を細めてシモンのことを思い出していたらしいゼポンは、小さく、

「おれと違って……」

 と付け加えた。シモンが野うさぎを持ってきたからといって、特別に扱いが変わったわけではない。元より徴税人であるというだけで、同胞からは忌み嫌われている。ローマへの税を取り立てているだけでも反感を買うというのに、手間賃と称して求められている税に上乗せをする。しかもそれをローマ皇帝の権威をかさにきて、強引に取り立てる。徴税人たちのそうしたあり方は、圧政の象徴として憎悪を集めていた。

 レビは言葉を探しあぐね、黙ってゼポンと並んで座り込んだ。


「何年になるかね、この仕事をはじめてから」

「さあなあ。あんたと出会った頃にはまだ親父が生きていたからな。十年くらいは経つ計算になるか」

「……後悔しているかい」

「レビ、あんたには感謝しているさ。それに、今さらどうしようもない」

 ゼポンは足元から目を離さずに言った。貧しい家に、生まれた。農夫だったが、父は騙されて、わずかばかりの畑さえ、手放すことになった。まだゼポンが幼い頃のことだ。だから大人になっても耕す畑も持てず、雇われて得たわずかな日銭で、食べられるかどうか、という生活だった。

 スーラと出会ったのは、そんな毎日を過ごす中でのことだった。井戸の縄が切れていたために、水を汲めずに困っていた。たまたま通りかかったゼポンが応急的に縄を補修してやった。それだけだった。

 次に見かけたときには、町外れの娼家に座っていた。スーラに何があってそこにいることになったのかは分からないが、少なくともゼポンの目にはすさんだ環境にいるに相応しい姿とは映らなかった。その清楚な美しさが汚されるのを見てはおれず、なんとか助け出してやりたいと思った。

 せめて自分が客となれれば、その時間だけ休ませてやることくらいはできる。しかし、当時のゼポンにそんな家に入る機会はもちろんなかった。その日食べることができるかどうかという暮らしだった。どんなに頑張ったところでその費用を捻出することはできなかった。必死になって働いた。どんなことでもいい、と仕事を求めて懇願して回っているゼポンに、声をかけてくれたのがレビだった。金がいるのか、とレビは言った。夢中になってしがみついたゼポンに、徴税人の仕事を教えてくれた。

 レビの教え方がよかったのか、それともゼポンに素質があったのか。徴税人になったゼポンはめきめきと手腕を発揮し、たちまち富を築き上げることができた。金は入るとはいえ、他人から感謝されることもなく、憎まれるだけなので、中途半端な覚悟では、精神的に続かない。しかしゼポンには、そんなことに躊躇するゆとりはもとよりなかった。金さえあれば、そしてその金で、スーラを助け出してやることができれば。それだけを考えていた。同胞から一斉に憎まれても構わない。

 しかし、皮肉なことにゼポンが十分な金を手に入れた時には、スーラはいなくなっていた。流行りの熱病にかかって、あっけなく死んでしまったのだという。そうして引き返すこともできないまま、ゼポンは徴税人として生きてきたのだった。手元には、金と同胞からの憎しみだけが、残っていた。

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