第10話 エルサレム神殿

 アンナスは、神殿の脇間の一つに座って、最近では半ば以上白くなったあごひげをもてあそびながら、集まっている群衆の賑わいを聞いていた。大祭司のための部屋は、この国の最高議会であるサンヘドリンが置かれている、広い脇間の奥に別に用意されていたが、神殿の向こう側になるために、外の音はほとんど聞こえてこない。群衆のざわめきが聞こえる、異邦人の庭に面したこちらの部屋の方が、アンナスは気に入っていた。

 多くの巡礼者が集まっている。この神殿は世界中の民から尊ばれるべき場所だ。かつては破壊され、崩れ落ちてしまった悲劇の時代もあったが、今は再建され、こうして多くの民が礼拝をささげている。これこそあるべき姿であり、自分たち祭司の一族に委ねられた、聖なる場である。何者にもこの賑わいに水をささせてはならない。そのためにはどんな手を使うことをも辞さない。


 老将軍クレニオを伴ってエルサレムに戻ってから、十五年ほどが経っていた。着任してから分かったことだが、クレニオは歴戦の勇将であっただけでなく、老練な政治家でもあった。追放となった前領主のアルケラオスに対する不満を実に巧みに利用し、かなり混沌としていたこの地方に、自らの力を浸透させた。

 例えば、着任早々に、自身を暗殺しようとした人間を、あっさり返り討ちにした上で、彼らの住んでいたケリオテの町全体を、厳しい取り調べと弾圧の対象にした。その厳しさが見せしめとなり、表立って総督に反抗しようとする者は影を潜めた。命を狙われたということさえ、機会として逆に用いて見せたというわけである。

 ヘロデ家の息子たちは、まだガリラヤ地方に領主として君臨し続けており、暴動の種はあちこちにくすぶっている。しかし、ローマ皇帝の権威は以前にも増して、絶対的なものとして植え付けられている。

 アンナスはそのクレニオに協力することで大祭司に就任し、また、クレニオの政治家としての手腕を身近に見て、学んできた。だから、数年前に大祭司を退いた後も、クレニオに倣って様々な方面に手を回し、工作を積み重ねてきたおかげで、いまだに事実上の大祭司としての権威を失ってはいない。ハスモン家に長く奪われていた大祭司の座を、サドカイ派に取り戻した。もはやこの流れは揺らぐことはあるまい。王権はヘロデ家に移ったままだが、ローマ帝国から任ぜられる総督がすべての権限を持っているので、実質は無きに等しい。それらの間をうまく立ち回ることで、神殿の権威をさえしっかり保てておれば、それでいいと考えていた。

「大祭司様、そろそろお越しになるようです。今しがた、先ぶれの兵が見えましたので」

 神殿に仕えている、ツィラという若者が扉の外からそう伝えてきた。本来、神殿の奥にあるこの一角には、祭司階級の者だけしか立ち入ることを許されていないが、神殿の雑用をするためにごく限られた数名だけは、例外とされていた。その中でもツィラは、アンナスが様々な情報を集めさせるために、直接抱えている一人だった。目鼻の整った、どちらかというとまだ少年の面影を残した美男子だが、サンヘドリンの議員の住まいや総督府、王室など身軽にどこへでも入り込み、様々な情報を集めてくる。複雑な政治情勢の中で生き残るために、アンナスとって欠かせない人材だったが、こういう人間を抱えておくとよい、ということも、クレニオに教わった。

「そうかね、ありがとう。では、カイアファを呼んでおいてくれ」

 立ち上がりながら、そう命じた。クレニオの後、総督は幾度か入れ替わった。皆軍人で、クレニオのような政治手腕を持ってはいなかった。ために、この国の複雑な事情を読み違えては混乱を招いてきた。しかし、今度赴任してくるのは、元老院議員の息子らしい。正式な命令書が届いていないのでまだ分からないが、ツィバに調べさせたところでは、ピラトという名で、もちろん軍に籍を置いてはいるが、なかなか博識で、軍務よりは学問の方が得意な男という噂だった。総督の職で実績を積んだ後は、父親の跡を継いで元老院議員の座を狙っているのだろう。直情径行の軍人より扱いには注意しなければならないが、うまく関係をつなげることができれば、ローマに対しても何かと便宜を図らせられるだろう。そろそろ大祭司職に就かせようと考えている娘婿にも、早い段階で会わせておいた方がいいだろうと判断していた。


 アンナスは脇部屋を出て、神殿の南にある王の回廊に向かった。一応は出迎えている姿勢を見せておかねばなるまい。それにしても、ヘロデ大王がこの回廊を通して、神殿と宮殿とつないでしまったことにはほとほと迷惑をしている。総督府そのものは町の反対側にあるが、一応は領主のいる宮殿に顔を見せるのが礼儀なので、当然総督をはじめとする為政者が神殿のすぐ隣に出入りすることになる。

 ほどなく、盛大に土ぼこりをあげながら、近づいてくる集団が見えた。相変わらず、不愉快な圧迫感に満ちている。歩兵を合わせると数百騎といったところだろうか。ただ、なんとなくだが、少なくともアンナス自身も同行した、クレニオが率いていた軍に比べて、まとまりが悪い気がする。軍事のことは分からないが、やはり率いる将軍の能力の違いが、そんなところにも出るのだろうか。

 神殿のふもとぎりぎりのところまで行軍してきた彼らが一斉に停まると、一帯を覆う砂ぼこりの中から、鈍色の甲冑の群れに囲まれるようにして、神殿前の階段を上ってくる人影が見えた。アンナスが想像していたよりも、ずっと若い男だった。一団がふもとにたどり着いた時点から少し時間が経っていることからすれば、先頭ではなく、中程以降にいたのだろう。クレニオはいつも、一番先頭を走っていたが、その位置は将軍によって全く異なり、それぞれの性質をよく表していると言えた。

「ようこそ、エルサレムへ。ピラト総督、でしたかな」

 アンナスはピラトが階段を上がり切る直前に、あえて自分の方から声をかけた。先に口を開くことで礼を尽くした形をとったが、互いの位置関係上、ピラトはアンナスを見上げる形になる。何事も初めが肝心だ、と考えていた。


「これは、大祭司アンナス殿か。出迎えてもらえて光栄なことだ」

 ピラトは、アンナスの意図に気付いたが、それでも無視はせずに、応答した。しかし、表情は笑ってはいない。アンナスが太陽を背にしていたので、まぶしさを装って大いに顔をしかめていた。

 食えない男だ。ピラトはあらかじめ調べさせていたアンナスのことをそんな風に思っていた。いや、それ以前からすでに知っていた。クレニオが総督として派遣されることに決まった夜、父親に連れられて、アピウスという元老院議員の屋敷で見たことがある。片隅におとなしく腰掛けていたが、油断なくその場を見渡していた目は、単に支配を受けている辺境の住民のそれではなかった。ローマ帝国の真ん中にいるというのに、畏れている様子はなく、むしろ、見上げているその目には、集まっているすべての人間に対する蔑みの色さえ、見られる気がした。紹介されることもなく直接言葉を交わしもしなかったが、アピウスからクレニオを紹介された際、あの男には気をつけた方がいい、と耳打ちをされた。まだ少年だった頃のことだが、その時の不快な感じは、今でもなんとなくだが覚えている。

 それにしてもあの時には、ユダヤなどに派遣されてはたまったものではないと思っていたし、間違えても自分が総督に赴任することになるなど、想像もしなかった。そもそも、直轄領ならば直接総督府に入れば事足りるところを、一応は領主に顔を見せておかなければならない。アルケラオスが追放された今、形だけはアンティパスがその代理を兼任する形になっている。しかも、その領主代理の前にさらに神殿で大祭司に会わなければならないという。その煩雑さだけでも、ここがいかに治めにくい領地であるのかということが想像できる。しかし、辺境と言えども皇帝に代って一国を治めるのだ。そこで手腕を発揮できれば、元老院議員の道は決して遠くない。父のマーニウスは老境にあり、元老院を退きたがっている。可能な限り早い段階で、功績を上げてローマに戻らなければ。恐らく目の前にいるこの男をどう扱うかで、仕事のやりやすさは変わるだろう。


「早いお着きでしたな、ピラト殿。知らせが届いて、まだ一月ほどしか経っておりません。急ぎで来られて、さぞお疲れでしょう」

「さほどでもありませんよ。エジプトにも何度か行きましたのでね。ただ確かに、ローマで命令を受け取ってからは、それなりに出発は急ぎました。せっかく前任者が治めていたところですから、あまり空白の期間は空けないようにしたいと思いましてね」

 アンナスが王の回廊の方にピラトを誘導した。異邦人を神殿に踏み込ませるわけにはいかない。しかし、ピラトがためらう様子も見せずに案内に任せる様子を見て、むしろアンナスの方がやや自尊心を傷つけられた。神殿を右手に迂回しながら、

「あれがエルサレムの神殿です。あいにく、我々の民族以外は、本堂にお入れするわけにいかないもので」

 言わずもがなのけん制にも、ピラトは動じない。

「なるほど。ローマにある神々の神殿とは、少々造りが異なるようですな。ギリシャやエジプトのものとも違っているようだ。しかしご心配なく。わざわざここまできて、あなた方の神殿を拝借しなくても、そちらの方は間に合っているのでね」

 間に合っている、だと。あまりに言い草に、アンナスは思わずピラトの顔をまじまじと見てしまった。様々な謀略を巡らせる自身をきよいとは思わないが、それでも神への信仰心は誰にも劣らないと自負している。否、だからこそ、その神殿を守るために自ら不浄を背負っているのだ。こんな男はいっそ天から火が下されて焼き尽くされるなり、地面が割れて地の底に呑み込まれるなりすればいい、と思った。

一方、ピラトの方は平然としている。エルサレム神殿の荘厳さはローマ人にとっても目を惹くものがあったが、それで感心する様子を見せたくはなかった。少年の頃に見たこの男の、他民族を蔑むような目は変わっていなかった。その驕慢な態度の拠り所になっているのがこの神殿だとすれば、意地でも無関心を装わずにはいられなかった。


「それにしても、思ったよりずっとお若いですな、ピラト殿は。その若さで総督に任ぜられるとは、さぞかし皇帝陛下も期待しておいでなのでしょうな」

 神殿のことでそっけない反応を返されてしまったので、アンナスとしては特に関心がなくとも、とりあえず話の接ぎ穂が必要だった。差支えのないところの話題にしたが、思っていたよりもずっと若く見える、というのは本音だった。三十にはなっているはずだが、ローマ人特有の、短めの巻き毛とひげもない顔は、新総督を実年齢よりもずっと若く見せていた。

「皇帝陛下のことなど、私ごとき者が話題にするのもおこがましいというものですが、いただいた任務は全力で果たすつもりですよ。ところで、お忘れでしょうが、私はアンナス殿とお会いしたことがあります。アピウス殿の屋敷でね。クレニオ閣下のシリア総督就任が決まった祝いの席でした」

「アピウス殿の? ああ、あの時ですか」

 言われてアンナスはもう一度ピラトの顔を見た。話しかけている割にはアンナスの方を見ずにまっすぐに前を向いて歩いている。秀麗と言ってもよい横顔には、何の表情も浮かんでいなかった。

 アピウスのことならよく覚えている。自分のことをユダヤから引き出した、ある意味での恩人のような存在である。当時の領主アルケラオスから大祭司を罷免された叔父のヨアザルは、失意の中でなかば抜け殻のようになっていた。憤りながらその様子を見守っていたアンナスのところに、ローマのアピウスからの使いだという者が現れたのだ。

 今思えば、あの時の呼びかけに応えて、ヨアザルと共にローマに出向いたところから、様々なことが転がり始めた。アルケラオスの追放と総督の派遣が決まった日の宴会に、アンナスも招待されたが、この男もいたということか。全く覚えがない。もっとも、ピラトだけではなく、あの席にいた人間など、アピウスとクレニオの他は一人も覚えてはいない。招かれはしたがクレニオと引き合わされただけで、後は片隅に座ってじっと様子を見ていただけだ。誰とも、言葉を交わしてさえいない。

「いや、すっかり失念しておりますな、失礼いたしました」

「いえ、私の方もお会いするまでは忘れていたのですよ。何せあの頃はまだ子供でしたからね。後学のためにと元老院議員の父に連れられて行っただけですので」

「そうでしたか。だとすればすっかりご立派になられましたな。考えてみれば十五年は経つのですから、私も年を取るはずです」

 さして内容のない会話をしながら、アンナスはピラトという男の特徴を掴もうとしていたが、どうも要領を得なかった。ただ、王の回廊の入り口まで出てきていた、娘婿のカイアファを引き合わせることだけはできた。


「あの新総督をどう見る、カイアファよ」

 ピラトをヘロデの王宮に見送ってから、アンナスは娘婿を伴って大祭司の脇部屋に入った。静かすぎてあまり好みではないが、ツィラの他、アンナスが認める人間以外は入ってこないので、ひそやかな話をするには適していた。

「どうにも掴みにくい男でございます。真面目で優秀だということはよく分かりますが、どうもそれだけでなさそうな部分も持っているようにも見えます」

「と言うと……」

「無表情を装ってはいましたが、色んなことを考えているようにも見えました。それを見せるまいとしているような、もしかすると臆病な側面もあるのかもしれません」

「臆病、か。そうかもしれんな」

 アンナスは、なかば感心しながら、カイアファの神経質そうな細面を見た。新総督とほぼ同年代であるはずだが、長く伸ばしたあごひげと眉間に深く刻まれているしわが、ずいぶんと年長に見せている。自分自身はアピウスやクレニオの影響を受けて謀略について学んできたが、この男の場合は発想が自然とその方面に向かうようで、今の場合も、アンナスが漠然と感じていたことを、わずかにあいさつを交わしただけで見抜いている。もっとも、そういう能力を買って自分の後継者として選んだという部分がある。

「臆病ということは慎重でもあるということだ。油断はできんな」

「しかし、益があると分かれば手を結ぶこともできるでしょう。つけ入る隙がないわけでございません」

 ひげを指先でもてあそびながら、カイアファが薄く笑った。

「あてはあるのかね」

「今のところはまだ。しかし、少なくともアンティパスと気が合うようには思えません。結ぶなら我らと、と考えるでしょう。それに近頃熱心党とかいう過激な一派があちこちで暴れております。火種はいくらでも見つけられるでしょう」

「熱心党か。我々としても、目触りなものには違いないから、折を見て情報を流してやれば喜ぶだろうな。まあ、暴動というほどの規模もない小さな事件ばかりで、神殿が危うくなるようなこともない。どう転んだところでヘロデ家や総督の兵が消耗するだけのことだから、材料としては確かに適当だ。それにしても、まったく律法のどこをどう読めばあんな行動につながるのか、理解に苦しむが」

 アンナスは満足し、丹念に石を積み上げた脇部屋の壁を見つめながら、うなずいた。カイアファに任せておけば大丈夫だろう。

「この神殿を守りさえすれば、他はなんとでもなる。我々サドカイ派が大祭司としてすべてを治めていけばよいのだ」

「左様でございます。ただ、粗暴なだけの熱心党や理屈ばかりのパリサイ派は、たいした影響力がないでしょうから放っておけばよいとしても、エッセネ派の一部が最近はかなり人気を集めているそうで。そちらの方は、神殿に依らない分、扱いが難かしゅうございます」

「クムランの荒野にこもっておる者たちだな。そのうちの一人が預言者だという評判が高いというのは耳に入っておる。ヨハネとか言ったな。悔い改めを説いては、川で沐浴をさせてきよめるという儀式を行っているらしい」

 すでにツィラを遣わして、探らせてある。救世主が現れる時が近づいているから、生活を改めよ、ということをしきりに訴えているだけだという。教えが単純であるほど、民衆には理解しやすい。しかも、ローマ帝国の支配下にあって、生活は逼塞している。解放してくれる救世主を待ち望む熱は、高まる一方である。

さらにまずいことに、集まった民衆から何の寄進も受けず、らくだの毛衣だけをまとった粗末な恰好でいる。私腹を肥やしてでもおればよいものを、金も地位も名誉も求めていない。民衆が夢中になるのもうなずける。こういう男がもっとも厄介である。

「集まる民衆は日を追うごとに増えているようです。中にはパリサイ派の中から加わる者もあるようで」

「もし、集まった民衆が何かのはずみで暴発したら、それこそローマ皇帝の思うつぼだ。総督が呼び寄せる軍勢で、わずかに残されている自治権すら失われてしまうだろう。そうなれば、この神殿を維持することもできなくなる。早いうちに、手を打たなければならんだろうな」

 神殿に仕える身でありながら。カイアファと交わす目線の仄暗さを自覚しながら、アンナスはそれでも、自らの使命を疑おうとは思わなかった。

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