第9話 大きな、魚

 ユダをそのままベツサイダに残して、シモンとアンデレはカペナウムに戻ってきた。アンデレは、あれ以来、考え込むことが増えた。やがて救世主キリストが現れて、神の王国を再興するという言い伝えについては、幼いころからシナゴーグで教えられてきた。自分たちが律法に従って安息日を守ったり、食物のことや祭りのことなど細かな規定に沿って生活したりしているのも、救世主キリストの到来を待ち望んでのことだと教えられてきたし、アンデレ自身もそう信じていた。

 キリスト、とは「油注がれた者」という意味である。この国では王が即位する時に、頭から香りの高い油が注がれる儀式を受けることになっている。だから具体的には歴代の王の中からいつか現れるのがキリストのはずだった。

 しかし、ヘロデ大王は正統な王ではなかった。そんなに突き詰めて考えたことはなかったが、改めて知ると、たとえば、気付けば他人が勝手に自分の家に住みついていたような、不快な感じがした。第一、正当な王でないのに、ローマ帝国にかなうはずがない。今のこの国の状況は、正しい王が治めていないことから来ているのか。

 ユダと同じように熱心党に加わって、自分もキリストが現れる時に備えるか。そうも考えた。しかしなんとなく、それだけでは不十分な気がした。なにより、兄シモンがあまり心を動かされた様子がない。兄が動かないのに自分だけが参加することなど、アンデレには考えられなかった。

 それにしても兄は近頃落ち着かない。なんだかそわそわしていたり、沈み込んでいたり、そうかと思うと急に上機嫌になったりと、少し心配な様子が見られる。かといって、熱心党の話をしてもほぼうわの空で、明らかに心ここにあらず、という感じだった。


 アマンダと出会ったのは一月ほど前のことだった。ユダを鍛冶屋のシモンの家に連れて行ってから幾日も経たないころ、魚をマグダラまで運んで戻ってきた。アンデレが舟の様子を見ておきたいと言ったので、一足先に帰りかけていた時だった。

 市を冷やかしながら歩いていたシモンは、大きな荷を抱えている婦人を見かけた。自分の母親くらいの年齢だろうか。気のいいこの男は、大きすぎる荷を抱えきれずに難儀している、その様子に同情し、声をかけたのだった。

「ばあちゃん、重そうだな。持ってやるよ、荷物。遠慮しなくていい。大丈夫、怪しい奴じゃないよ。俺はシモンっていうんだ。漁師をしている」

 婦人は驚いた顔をシモンに向け、そのよく日に焼けた顔をしげしげと見た。やがて、どうやら悪い者ではないらしいということが分かったのか表情を崩し、

「ありがとうよ。けれども、さすがに見ず知らずの男に持たせるのは悪いよ。なに、たいしたことはないさ。ちょいと調子に乗って買い過ぎてしまっただけでね」

 そう言って荷を抱え直そうとしたが、その拍子に包んでいた布がほどけて、中身をぶちまけてしまった。芋や干魚などの食料の他、衣類や木の器のようなものまで確かに買い過ぎてしまったというにふさわしい量の品々が、地面に転がる。

「ほら、言わないことじゃない。大丈夫だよ、盗ったりしないから。貸してみなよ、力だけはあり余っているんだ」

 シモンは散らばったものを拾い集めるのを手伝ってやり、もう一度包み直した布を、自分の肩に軽々と担ぎ上げて見せた。

「すまないねえ、重いだろう。でも確かにちょっと買い過ぎたかもしれないねえ。あたしはドナって言うんだ。カペナウムの西の外れに住んでいるんだけど、まあ、途中まででもいいからちょっと持ってもらったら助かるねえ。でも、本当にいいのかい」

「お安い御用さ、ドナ。俺は仕事も終わったし、今日の飯は弟のアンデレが用意する番なんでね、それまでやることはない。要するに暇なのさ」

ちょっとはにかむようシモンは答えた。数年前に亡くした母に、ドナはどことなく似ているような気がした。声をかけたのはなんとなくだが、話し始めてから「母ちゃんみたいだな」と気づき、少しでも話していたい、と思ったのである。

「じゃあ、お願いしようかねえ」

「よしきた、そうこなくちゃな」

 シモンは照れている自分を見られないように、荷を担ぎ直してさっさと歩きだそうとした。ドナがその背に待ったをかける。

「ちょい待ち。ただその前に、あんたに一つ言っておかなかきゃならないことがある」

「な、なんだよ」

 ドナの眉間に少しだけ縦にしわが寄っているのを認めたシモンは、母ちゃんに叱られたときのことを思い出して緊張した。

「あたしはまだ、あんたみたいな男にばあちゃんだなんて呼ばれる年じゃあないよ」

「そ、そいつは悪かった、つい口がすべって、あ、いやそうじゃなくてその、すみません」

 顔中を真っ赤にして詫びるシモンを見て、ドナは噴き出した。

「あっはっは、分かりゃあいいんだよ。なかなか素直ないい男だねえ、シモン。じゃあ、お願いしようかねえ。こっちだよ」

 ドナに先導され、今度こそシモンは、荷物を抱えて歩き出した。本当に母ちゃんと一緒に歩いているみたいだな。シモンは恥ずかしいような、少し寂しいような気持ちになりながら歩いた。


 途中で何度か「ここまででいいよ」と言うドナに、もう少し、もう少し、と答えながら、シモンは結局ドナの家まで荷物を運んできた。もっとも、はじめからそのつもりではあったが。

「すまないねえ、結局家まで持たせてしまったね。家は女所帯だから普段は人を入れたりしないんだけど、あんたなら大丈夫だ。よかったら水でも飲んでいきな」

 ドナにそう言われて、シモンは断れずにそのまま家の中に入った。決して大きくはなく、ずいぶんささやかではあったが、きれいに掃かれていて、屋内もきちんと片付けられていた。指示されたところに荷を下ろし、勧められるままに腰掛けたところで、表から声が聞こえた。誰かが帰ってきたようだ。水を汲みに出たドナが、迎える声が聞こえる。

「お帰り、アマンダ。エリサベツのお産は無事に終わったのかい」

「ただいま、母さん。無事に終わったわよ。お父さんのアモスに似て、とっても元気な男の子だったわ」

 母さん、ということはドナの娘なのか。アマンダと呼ばれた当人は、弾むような声で応えている。シモンがこのまま座っていていいのか、それとも立って迎えたがいいのか、いっそ裏口から逃げ出してしまおうか、などと迷っているうちに、ドナが水瓶を手に、屋内に戻ってきた。そのすぐ後ろにもう一人の姿がある。

「あら、お客様なの」

 どちらかといえば小柄なドナとは違って、頭一つ分くらいは大きかった。かといってごつい雰囲気ではなく、ふくよかで、健康的なにおいがした。ただ、一重まぶたの、ちょっと小さめの目元はドナとそっくりだった。シモンはドナに目をやったつもりでその後ろにいたアマンダの顔をまともに見てしまい、視線を逸らすきっかけを失って、まじまじとその目を見つめることになってしまった。

「あたしの荷物を市の方から担いでくれたんだ、シモンっていうんだよ」

「そうなの、シモン。母さんがお世話になりました」

 自分の名前がアマンダの口から出たのを聞いて、シモンは何故か動転してしまった。こりゃいかん。

「あ、ああ、どういたしまして。ええっと、アンデレが待ってるから、そろそろ帰らなくっちゃな。また困ったらいつでも声をかけてくれよ、ドナ。それじゃあな」

 ドナが水瓶を下す間もなく、シモンは立ち上がり、というより飛び上がって、まるでアマンダとの間につっかえ棒でもあるかのように、弧を描いてその横を通り抜けると、回れ右をしてそのままあたふたと駆け出してしまった。しかし、少しも行かないうちにふと思いとどまり、駆け戻ったかと思うと、

「あの、今度漁に出たら、魚を持ってきてやるよ。わざわざ市に出なくてもいいようにな。必ずだからな」

 とそれだけを言って再び踵を返し、あわてて駆け去った。

「なんだか慌ててたみたいね」

 不思議そうに見送るアマンダと、その背中越しに駆けていくシモンの後ろ姿を見比べながら、ドナは愉快そうに、一人、笑った。

「さあねえ。だけど、あの様子だと明日か明後日にはまた来てくれそうだねえ。魚を持って。それを楽しみにしていようじゃないか」


 シモンは駆けながら、頭に血が上っているのを感じた。それでなくても、体の大きな男がわき目もふらずに駆けているのだから、街道にいる人々はたまったものではない。その姿を認めるや、皆が驚いて道を開けているのだが、当のシモンは全く気付いていない。

「そうなの、シモン。母さんがお世話になりました」

 アマンダの口から出た、少しかすれ気味の、でもよくとおる声がぐるぐると頭の中で響いている。市を通り抜け、自分の家も通り抜けてしまって一気に湖まで駆け、膝まで入っていって、ざぶざぶと顔を洗った。いっそそのまま飛び込んで泳ぎたいと思うくらいに、体中が熱いのは、久しぶりに駆けたから、というわけではないらしい。こりゃいかん、こりゃいかん、と言いながら何がいかんのかもよく分からないまま、家の方に向かって今度はとぼとぼと歩いて戻っていった。


 翌朝、まだ暗いうちに起き出したシモンは、半分寝ぼけているアンデレを強引に引っ張り出して、舟に乗った。一晩中網をおろしてとった魚をマグダラまで運んだところだったので、そんなに慌てて漁に出なくても、いいはずだった。しかしアンデレの異議に耳を貸す様子は、シモンにはなかった。シモン自身は、ほとんど眠れなかった。じっとしておれなくて、漁に出てきたのだ。

 しばらく漕いで沖に出て、網を投げおろしてからようやく、シモンはなぜ漁に出ようと思ったのかということについて、考えた。そりゃあ、漁師だから漁に出るのが当り前さ。自分で自分にそう言い聞かせながら、ドナに、いや、アマンダのいる家に、魚を持っていこうと思っているということは、考えないようにしていた。

 アンデレの方は、舟を漕ぐうちにすっかり目が覚めて、兄の様子を観察していた。やみくもに体を動かしているかと思えば、ぱったり止まってしばらく呆然としてみたり、突然にやにやと笑ってみたり。昨日、家に戻ってからずっとこの調子だった。市に立ち寄ってきたらしいのだが、その割にはなぜかびしょ濡れになって帰ってきていた。

 これまでシモンにはなかったことだが、アンデレはその様子を見てなんとなく事情を察していた。これあ、女だな。市で何かあったんだろう。そこまでは想像できる。アンデレ自身はそんなに経験豊富というわけでなかったが、兄ほど無邪気でもない。だから、その様子を見て、ひとりで笑っていた。いいことさ。兄ちゃんにはそういうことも、必要だ。

 案の定、引き揚げた網にいくばくかの魚が入っていたのを見ると、シモンはアンデレに、あっさりと白状した。

「アンデレ、すまないんだが、この魚は売りにはいかない。ドナとアマンダのところに持って行ってやりたいんだ」

「構わないよ、兄ちゃん。どうせ売りに行くったってこの量じゃたいした額にはならない。それに一昨日は頑張っていたんだから、今日くらいは漁を休んだって、大丈夫だ。戻ろうぜ。俺も本音を言うと、もう少し眠っていたいしね」

 アンデレにそう言われて、シモンは弟を強引に漁に連れ出してしまっていたことをはじめて思い出した。

「ああ、アンデレ、すまなかったな。たたき起こしてしまった。もう戻ろう。お前は帰って休むといい。網の片づけや何かは俺がしておこう」

「無理すんなよ、兄ちゃん。片付けくらい、俺がやっておいてやるさ。それよか、少しでも早く、持って行ってやりたいんだろう、その娘のところにさ」

 シモンは耳まで真っ赤にしながら、頭をかいた。


 三日と空けずに訪ねてくるようになったシモンは、その都度魚や芋や麦などを少しずつ持ってきた。魚は自分の舟で獲ったものだろうけれど、芋や麦などはいつも誰かにゆずってもらったものだとか、少し余ったからとか、色んな理由をつけてはいたが、ほとんどはシモンが市で買ってきたものに違いなかった。

 決まって大きな声でドナの名を呼びながら入ってくるくせに、ドナを前にしながらきょろきょろと部屋を見まわしている。そしてアマンダがいると

「ああ、君もいたのか」

 と白々しいことを言った。声は裏返るかどうかぎりぎりのところになる。

 アマンダはアマンダで、シモンが帰った後、

「おかしな人ねえ」

 と言ってはシモンの様子をまねたりしながら笑うのだが、その耳や首筋が赤く染まっているのをドナは見逃していない。そして、素知らぬ顔をしていながら、シモンの姿が二日も見えないと、そわそわしている愛娘の様子に、ちょっと小さめの目を細めるのだった。


 その日は、いつになく大漁だった。シモンは後片付けもそこそこにして、ドナの家に急いでいた。色んなものを持って行っているが、ドナもアマンダも、シモンが獲ってくる魚を一番喜んでいた。シモン自身にとっても、自分の舟で獲れたものだ。一番の自慢でもある。

「なによ、女二人の家だからって無茶が通ると思わないで」

 普段は陽気なアマンダの声が、険しさを帯びて家の外まで聞こえてきている。シモンは鼻歌を止めて、警戒した。何かあったんだろうか。

「アマンダ、怖い顔をしたってだめだよ。納めるべきものは納めてもらわないとな」

 聞き覚えのある甲高い声が、シモンの耳に飛び込んできた。ちっ。舌打ちをして家に入ると、案の定そこには顔色の悪い、痩身の男が立っていた。このあたりで仕事をしている、徴税人のゼポンだ。ぬっと入ってきた大男に一瞬たじろいだが、すぐに意地の悪い薄ら笑いを浮かべ、

「おや、お客さんが来たようだ。野暮は止して退散するとしよう。一日だけ待つから、おれの家まで納めに来るんだ。明日中に来なかったら、今度は総督の兵を連れて来なけりゃならん。そんなことはしたくないんでな、分かるだろう、ドナ」

 言い捨てて出ていこうとしたゼポンに、シモンはいきなり持っていた魚を籠ごと押し付けた。珍しく腹を立てている。

「ご苦労なことだな、ゼポン。こいつは取り立てに来た手間賃だ。持って行けよ。今朝湖から上げてきたばっかりなんだ。市に持っていけば、それなりの銭になるぜ。ああ、でも銭が入ったら税がかかるな。そういやお前がもうけた分の税金は誰に払うんだ? ややこしいから、自分で食った方がいいかね。これだけ食えば、そのやせた体にも少しは脂がつくだろう」

 シモンの剣幕にたじろぎながらも、ゼポンは籠を押し返し、

「お、おれは魚はあまり好きじゃないんだ。それに、ここまでやってきた分の手間賃はアマンダに支払ってもらうように伝えてある。もっとも、総督の兵を連れてもう一度来ることになったら、手間賃はさらに大きくなってしまうがね」

 しっかり脅しも加えて言い放ちながら、なかば逃げ出すようにして、戸口から姿を消した。後を追いそうになったシモンの腕を、アマンダがとっさに引き留める。

「シモン、ありがとう。でもこれ以上はだめよ。あいつは本当に百人隊長のところに訴えに行くわ。あることないことでっち上げられて、下手したらあなたまで捕まってしまう」

 シモンは自分の腕を握るアマンダの手が震えていることに気づいた。少し青ざめているアマンダの顔を見て、昂っていたのが一気に鎮まった。確かに、ローマの総督から任命されている徴税人に逆らったところで、益はない。皆、それが分かっているから「手間賃」と称して上乗せされる分も含めて、税金を納めるのだ。彼らがそれで私腹を肥やしたところで、総督やその部下の百人隊長は何も言わない。第一、シモンは争うことが苦手だ。理屈を言うことが苦手だし、暴力をふるうことはもっと苦手だ。つい先ほどゼポンに喧嘩をふっかけようとしたことも、自分でも信じられないくらいだった。

「大丈夫だよ、アマンダ。もう落ち着いたから。それにしてもゼポンのやつ、一体何のために来ていたんだ、わざわざ」

「この間、アモスの奥さんのエリサベツのお産を手伝いに行ったのよ。その時に少しお礼をもらったんだけど、それをどこからか聞きつけて、税金を払えって言ってきたのよ。日頃、ぶどう園の手伝いでもらっている分はきちんと払っているのよ。それを、いかにもいつもごまかしているような言い方をしてくるんで、頭に来たの」

 本当は、シモンは落ち着いてなんかいない。ここで息巻いてもアマンダやドナに迷惑がかかるだけだと思うから、落ち着くんだ、と自分に言い聞かせていただけだった。でも自分の腕をしっかりとつかんで離さないでいるアマンダの体温にうろたえ、この陽気で気立てのいい娘をこんなに震えさせるゼポンに対する怒りが、どんどん沸き起こってきた。あの野郎。一泡吹かせてやらなきゃ、収まらない。少しだけ、天井を見上げてから、思いつくことがあって、にやりと笑った。

「アマンダ」

 シモンはアマンダの手に、自分の手を重ねた。

「ちょっとばかし、懲らしめてやろう。なに、きちんと税は払ってやるさ。利息をつけてね」

 意味ありげに笑うシモンを見ながら、アマンダもその手を握り返した。

「おやおや、あたしはお邪魔だねえ」

 そう言って奥に引っ込もうとしたドナの声に、自分たちが部屋の真ん中で手を取り合って見つめ合っているということに気づいた二人は、声にならない悲鳴とともに、あわてて手を離した。どちらの顔も、耳まで真っ赤になっていた。


 ドナから支払いをするべき銅貨を預かったシモンは、その日は早々に引き揚げていき、翌日の昼過ぎになってから、一抱えもありそうな袋を担いでやって来た。

「どこに行ってたの、シモン。それにその袋は何なの」

ドナもアマンダも心配になって色々と尋ねたが、シモンはにこにこしているだけで、答えない。とにかく行こうとばかり、立てた親指で外を指し、そのまま歩き出したので、アマンダもついていかざるを得ない。担いでいる袋はそれなりの重さがありそうだったので、手を貸そうとしたが、

「触っちゃいけない。大丈夫、これは俺に任せてくれ。それより君は、打ち合わせ通り支払いに来てやったことを宣言してくれたらいいんだ」

 シモンはアマンダから袋を隠すようにしてさっさと歩いていく。ほどなく、市のはずれにあるゼポンの家に着いた。人通りはそれなりにあるが、ゼポンの家の前は皆、足早に通り過ぎて行く。わざわざそこを訪ねようとしている二人の姿を見て、まるで忌まわしい風景を見たかのようにして顔をしかめる者もあった。

「ゼポン、約束通り、税金を納めに来たわよ」

 アマンダが声をかけると、ゼポンはすぐに出てきた。少し顔を赤らめているところを見ると、昼間から酒を飲んでいたのだろう。

「やあ、アマンダ、やっぱり君は賢明だな……あんたも一緒かね」

 後に立っていたシモンの姿を見て、ゼポンは明らかに不快な表情を浮かべた。シモンは、構わずに袋をゼポンの前に下した。

「よお、ゼポン。昨日は失礼したな。魚が嫌いだとは知らなかったんでな。肉だったらいいだろうと思って持って来たんだ。手間賃代わりに受け取ってくれよ。」

 そう言って袋の口を開けると、戸口の前に、その中身をぶちまけた。

「……こ、これは」

「見ての通り、野うさぎだよ。なかなか立派だろう。ここまでの大きさのやつはなかなかお目にかかれない。穢れた動物だから食べちゃいけないんだが、お前さんにとっちゃそんな決まりは屁でもないだろう。食ったことがあるやつに聞いたら、肉は柔らかくって、結構うまいらしいぜ。喜んでもらおうと思って、苦労して捕まえたんだ。遠慮なく食ってくれ。ああ、アマンダの税金分は、こいつの口の中に仕舞っておいた。なくしたり、落としたりしないようにな」

 それだけ言うと、シモンはアマンダを促して、元来た道を戻り始めた。周囲にはちょっとした人だかりができている。口を覆っている者や、頭をふって忌まわしさを表現している者もいる。律法では食べてはいけない穢れた動物とされていて、しかも絞め殺されたものを食べてはならないともされているので、二重の禁忌である。いくら嫌われ者の徴税人とはいえ、家の戸口に置かれたのだから、ゼポンはたまったものではない。きよめの習慣に従って、日常の生活に戻るのに、当分かかるだろう。それにこんなにたくさんの人間が見ている。どうせこの話は尾ひれはひれがついて、広がってしまうだろう。何せ日頃から、皆に愛される生活はしていないという自覚はある。町中を歩くのだって、しばらくは苦労しそうだ。

 しばらく歩いてから、シモンは耐えきれなくなってふきだし、腹を抱えて笑い始めた。アマンダはあっけにとられてそんなシモンを見ていた。

「わざわざ野うさぎを、このために捕まえに行っていたの、シモン」

 言いながら、担いでいた袋を決してアマンダやドナに触らせなかったこと、家にも入ろうとしなかったことなどを思い出し、自分一人で穢れを抱え込むつもりだったのだということにも気付いた。

「あなたって人は……」

 あきれた、という口調で言おうとして、湿った声になり、思わず言葉を引っ込めた。気丈なアマンダには珍しく、その瞳は少しうるんでいる。シモンは、愉快そうに笑いながらそのアマンダの様子に気付いて、あわててしまった。

「いや、その、なんだ。ちょっとやり過ぎかな」

 野うさぎの死体を持って行ったことは、アマンダを怖がらせてしまったのではないかと思ったのだ。アマンダとしてはシモンの気遣いに感動してしまったのだから、大いに勘違いである。

「違うのよ、シモン。嬉しかったの。あなたが私のためにしてくれたことが」

そう応えてシモンの顔をまじまじと見つめた。シモンはまたも意表をつかれ、今度はどんな表情をしたらいいのか分からず、目を白黒させている。そんなシモンを見て、今度はアマンダの方がふきだした。シモンの方もアマンダの様子を見て安心し、とりあえず笑った。二人して、笑いが止まらなくなっていた。


 愉快そうに笑い合いながら戻ってきた二人を見て、ドナはおおよそのことを察した。シモンがゼポンに一泡吹かせて、アマンダの留飲を下げてくれたのだろう。決して器用ではないが、陽気でやさしいこの大柄な漁師のことを、ドナは気に入っていた。きっとアマンダにとってもそうだろう、と思った。家の外まで迎えに出ていたドナは、シモンをきちんと招こう、と思った。

「ずいぶん楽しそうじゃないか。せっかくだから、食事をしていきなさいな、シモン。私がごちそうしてあげるよ」

「あら、いいわね。シモン、そうしなさいよ。母さんの料理はとってもおいしいのよ」

 ドナもニコニコしながら応じた。シモンはドナと顔を見合わせながら一緒に家に入りかけたが、戸口にさしかかって思い出したように飛びのいた。

「おっといけない、俺は穢れているんだ。今お邪魔するわけにはいかないな。きよめの期間が終わったらまた来させてもらうよ」

 そう言って踵を返そうとしたが、ドナがその腕をとって引き留めた。そしてアマンダの手をとってシモンの手を握らせてから、二人を家の中に迎え入れた。

「大丈夫さ。あんたはアマンダのためを思ってくれたんだ。きっと神様も、お赦しになるよ」

「そうよ、シモン。このまま帰らせるなんて、その方が神様はお怒りになるわ」

 シモンはかぶりを振ったが、二人の手を振りほどくほど強くはなく、結局は家の中に導かれ、腰を下ろした。ドナの荷を持ってはじめて訪ねて来た時に、座らされた場所だった。


 ドナの料理は本当にうまかった。久しぶりの「いたずら」をしてすっきりしたことや、楽しそうに笑っているアマンダと一緒に食べていることなどが料理を一層うまく感じさせたのだろうけれども、きっとそんなことを差し引いても、うまい。赤レンズ豆と野菜を煮込んだ汁や、果物や香辛料と一緒に焼いた羊の肉、それにすりつぶした芋を油でいためたものなど。パンにつける酢さえ、果物やオリーブなどで風味が添えられている。特に母ちゃんが死んでからは、食事を作るとは言っても、せいぜい魚を焼いてオリーブ油や酢にパンを浸すくらいで、こんなに手の込んだ料理は久しく口にしていなかった。

「いつもこんなのが出てくるのかい」

 大げさではなく、シモンはパンをいい香りのする酢にひたしながら、感嘆した。

「まさかね。今日は特別だよ。女二人だと、パンに野菜を添えるくらいだね。それでも食べきれない日もあるくらいだもの」

「そうよ。食べる人がいるからこそ、のごちそうね。そういう意味ではシモンのおかげで私もひさしぶりに母さんの料理をたくさんいただけたわ。重ね重ね、ありがとう」

 アマンダは形のよいまっすぐな眉を吊り上げて見せた。思いがけず動揺したシモンは耳を赤くしながら天井を見て、

「はは、こんなことならいくらでも力になるぜ」

 と精一杯強がってみた。その様子を見てアマンダとドナはそろってふきだし、ひと呼吸遅れてシモンも笑った。穏やかな時間がそうして和やかに過ぎて行った。

そうして食い、笑い、ぶどう酒も飲んで幸福な気分になったころ、ドナが真顔になって、言ったのだ。

「それにしても、あんたたたちを見てるとじれったくていけないね。アマンダもそろそろ結婚しなくちゃいけない年ごろだしね。放っておくといつまでもそのままだろうから、私が言ってあげるよ。あんたたち、一緒になりなさい」

 不意を突かれたのはシモンもアマンダも一緒だった。アマンダは、

「か、母さん、何をいきなり……」

 とだけ言って、顔を真っ赤にしたままうつむいてしまった。シモンはどうしていいか分からず、顔をあちこちに向け、手の平でなんども頬をたたいたが、やはり言葉は出てこなかった。

 その後、どうしたのか、記憶も定かではない。とにかく、それきり黙り込んでしまったアマンダの隣にじっと座り続けておれなくなり、

「ま、また来る」

とだけ言い残して、シモンは慌ててドナの家を辞した。見送りに出てきたドナが、微笑みながら、

「私は本気よ。ゆっくり考えてみてね」

 そうささやいたことだけは確かだった。アマンダは出てこなかった。きっとあのまま、あそこで座り込んでいるんだろう。

 

 家に帰っても、ずっと考えていた。アンデレが何か話しかけてきたが、頭には入らなかった。熱心党がどうだとか言っていたようだが、こっちはそれどころじゃない。ちょっと飲み過ぎたからだろうか。足下がふわふわして、落ち着かない。そのまま床に倒れ込んだ。こんな時は、眠っちまうに限る。けれども、全然眠れる気配はない。アマンダ。名前を口にするだけで、指先までなんだかしびれるような感じがする。眠ろうとしているのに、まぶたを閉じることさえ忘れていることに気が付いた。だめだな、こりゃあ。

 結局、シモンは朝まで一睡もできなかった。こんな時に、シモンがすることは決まっている。隣で寝ているアンデレを揺り起こした。アンデレは、予想していたように、すぐに目を覚ました。

「アンデレ、湖に出るぞ」

「そう言うと思ってたよ、兄ちゃん。陸であれこれ考えこんでいるのは、兄ちゃんらしくない」

 アンデレには大体の想像はできていた。自身は国のこと、熱心党のこと等を色々と考えていたが、兄ちゃんは鍛冶屋の話を聞いた後も大して心を動かした様子がない。だとすれば、それは自分にとってもたいしたことじゃあないに違いない。それよりも、今、兄ちゃんの心を占めていることが、一番大切なことだと思った。

 湖の中ほどまで出て、網をおろすのかと思ったら、シモンは動かない。アンデレが様子を見ていると、網ではなく、愛用の釣竿を取り出した。少年の頃から、これだけは誰にも負けない。

「こいつで一丁、でかいやつを釣ってみよう」

 やることを見つけたシモンはなんだか嬉しそうだった。いつの間に用意したのか、小さなみみずを針につけて、湖に放り投げた。アンデレは、舟を漕ぐ手を止めて、櫂を引き上げ、まるで何か神聖な儀式に付き添っているかのような、厳かな気持ちで、竿の先を見ていた。ほどなく、竿を大きくしならせてシモンが釣り上げた魚は、いつも彼らが網ですくいとるよりも、確かに大きなものだった。


 どうしてあの時、シモンをそのまま行かせてしまったんだろう。アマンダはシモンが出て行ったあと、そのことばかりを、考えていた。どうして、せめて戸口まででも、見送らなかったのだろう。いや、どうしてシモンの腕をつかんで引き留めなかったんだろう。ドナに言われるまでもなく、自分の気持ちには気付いていた。でも、気付かないようにしていた。 壊れてしまうのではないかという不安があったからだと、今は分かる。もしかして、シモンはもう、来てくれないのではないだろうか。そう考えると恐ろしくて、眠れなかった。母さん、なんてことをしてくれるのよ。隣ですやすやと寝息を立てているドナのことを少し腹立たしくさえ思った。

 そのまま早朝から起き出し、水を汲みに行ったり家の周りを掃いたりと動き回ってみたが、日が昇り切る頃にはやるべきことはすっかりやり尽くしてしまった。ドナは普段と何一つ変わる様子を見せずに淡々としている。こんな日に限ってぶどう園の仕事もないし、お産の手伝いもない。粉を練ってパンを焼く用意まで済ませてしまうと、いよいよすることがなくなったアマンダは、昨夜と同じ場所に座り込むと、それきり動けなくなってしまった。

 やがて、開け放ったままの戸口から差し込む光が、赤みを帯びてきた。こんな風に何もしないまま一日を終えることなんて、これまではなかった。それがまた、アマンダを悲しい気持ちにさせた。だめだ、泣きそうだ。そう思った時に、戸口から大きな影が伸びてきて、座り込んでいたアマンダの足下まで、届いた。

「……シモン」

 夕暮れ時の光を背にした人影の、表情は見えなかった。答える代わりに差し出された両手には、大きな魚が握られていた。引き寄せられるように立ち上がったアマンダは、夕陽を写して虹色に光るその魚の尾をそっと触って

「立派ね」

 と言った。

「……うん」

 束の間の沈黙の後、シモンがようやく発した声は、それだけだった。でもお互いに、それで十分な気がした。

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