第8話 熱心党のシモン

「おいユダ、そろそろ起きろ。夜が明ける前に舟を出すぞ」

 いつの間に寝入ってしまったのか、自分の荷物を枕にして横になっていたユダは、シモンの声に、揺り起こされた。人が動く気配にも気づかずに眠り込んでいるなど、これまでの生活の中では考えられなかったことだった。場所が違えば、命がなくなっているところだな。苦笑しながら体を起こした。まだ辺りは真っ暗である。

「ちょうどいい、お前はこいつを持って行ってくれ」

 シモンからなにやら大きな籠を手渡された。どうやらベツサイダの鍛冶屋とやらに会いに行くのに、自分も舟に乗って漁を手伝うことになっているようだ。

 まあ、一日くらいなら付き合ってもいいか。そう思える程度には、このシモンという図体の大きな漁師のことが好きになっていた。ユダがこれまで出会ってきた中にはあまりいなかった種類の人間である。とはいえ、これまでの生活が後ろ暗い世界にあったことを考えれば、こういう人間の方が、あたりまえの世界では普通なのかもしれない。

 家の外に出ると、つい数刻前に通り過ぎた時には、陽気に町を照らしていた篝も今はすべて沈黙し、月明かりに照らし出された家々は、静寂の中にその輪郭をむしろくっきりと、浮かび上がらせていた。

 暗闇の中を湖までたどるということには、やや足下に不安を覚えたが、歩いてみると意外に明るく、昼間にさえ暗闇を歩くように感じて生きてきたユダは、柄にもなく少し浮かれ気味になっている自分を発見して、驚いた。少し先を、シモンの大きな背中がゆったりと進み、その後ろにはアンデレが、ユダの方を気にしながらも何故か嬉しそうに歩いていく。彼らのような同行者がいたら、これまでの旅も少し違ったものになっていたかもしれない。そう思った。


 湖に出ると、夕刻に出会った時に二人がとりついていた舟が舫ってあった。意外に大きく、しっかりとした造りになっている。詰めれば、人間だけなら十人は乗り込めるのではないか。

「親父の代からの舟でね。まだまだしっかり使えるよ。その籠をこっちに貸してくれ。さてと、手伝ってもらうと言って、どっちについてもらおうか。釣り合いをとるのが難しいな……いや、待てよ」

 舟の上からそこまで言って、ようやくシモンはユダが仲間の漁師ではないということを思い出したようだった。

「大体あんた、舟を扱ったことはあるのかい」

 アンデレに問われ、ユダはかぶりをふって、首をすくめて見せた。

「じゃあ釣り合いを気にする必要もないな。ユダは艫の方でゆっくりしていてくれ。舟は俺たちで漕ぐから。なに、大きな図体をしてはいるが、いざとなれば一人でも何とか動かすことはできる。二人で十分だよ。網を引き揚げるときにはちょっと力を貸してもらうことにしよう」

 そうして三人を乗せた舟は、まだ夜の明けない真っ黒な湖面を滑り出した。シモンとアンデレが器用に櫂を操っている。さすがに先ほどまでのお道化た様子はなりを潜め、息の合った動きを見せている。ユダは言われた通り艫に座り、舟べりにもたれかかってその様子を眺めていた。


「小さな子供の頃、この舟の上で居眠りをしていて、沖へ流されたことがあるんだ」

 舟を操りながらアンデレが話しかけてきた。

「どうしたんだ、それで」

 この舟は子供では動かせそうにない。ユダは腕組みをしたまま、聞いていた。

「舫い綱がついたままだったんでね。兄ちゃんが飛び込んで、泳いで引っ張ろうとしたんだ。もちろんびくともしない。溺れかかったころ、親父が助けに来てくれたんだ」

「あん時は本当にもう駄目だと思ったなあ。水をいっぱい飲んで、目の前が暗くなってな。小さいころから湖で育ったから泳ぎだけは得意だけど、沖の波の大きさは半端じゃあない。まるで山みたいに見えたなあ」

 ユダは懐かしそうに話すシモンを見ながら、湖に抱かれるようにして育ってきたのだろうこの兄弟の、少年時代の姿を想像してみた。親父が助けに来てくれた、か。その顔すらおぼろげにしか覚えていないユダにとっては、想像もつきにくいことで、それがこの兄弟と自分の人生を全く別のものにしたのだろうと思った。もちろん、だからと言ってうらやんでも仕方がない。ただ、そういう事実があるというだけのことだ、と自らを皮肉な目で見ていた。


 しばらくそうやって、真っ暗な水の上を舟は走った。篝火に照らされた湖面には、三人を乗せた舟を中心とした円い光が、浮き上がっているように見えている。きれいなもんだな。まだ酒が残っているのだろうか。その幻想的な風景を、ユダは心地よく眺めていた。

 やがてその、光の円は少しずつあいまいになり、代わりに空に色彩があらわれはじめた。シモン達は篝火を消し、網を投げおろした。無造作に置いてあるものを抱え上げては、でたらめに投げ捨てているように見えるが、投げられた網は、篝火の代わりに空の色彩を映しつつある湖面に、きれいに広がりながらゆっくりと沈んでいく。これはこれできっとこつがあるのだろう。

 二人は網を投げ終わると、再び櫂にとりついて、舟を進め始めた。

 空に現れた色彩がみるみる鮮やかな光となり、あたりの風景の輪郭をほのぼのと浮かび上がらせ始めると、湖面のそこここに、小さな水しぶきが見えるようになった。魚が跳ねているようだ。

「おう、魚が集まっているな。ユダ、これはついてるぞ。いいところに乗り入れた。さあ、網を引き揚げるのを手伝ってくれ」

 シモンがそれまでになくきびきびと動きながら、指示しはじめた。言われた通り、アンデレと一緒になって網を引くと、予想に反して相当に重かった。網そのものはいくら何でもこんな重さではなかったはずだ。水の中から引き揚げようとしているからだろうか。それとも、獲物がたくさん入ったからだろうか。いずれにしても、座り込んで舟の動く様子を見ていただけなので体は半分眠っていたが、全身に力を入れたために一気に目が覚め、夜明けの冷気がある中で、汗まで噴き出してきた。

 手繰り寄せるうちに、湖面をはねる魚の姿が増えてきた。まるで、雨が降り始めるときの水面のように、同心円に広がる波がいくつも生まれ、それが一面に増え広がったと思ったら、大量の魚が折り重なってはねる網の底が現れた。

「ひょうっ、これは大漁だ。昨日の夜に無理して出かけなかったのがよかったな」

 シモンが心底嬉しそうに、叫んだ。汗まみれで歯を食いしばって網を引き揚げながら、アンデレの顔にも笑みが浮かんでいる。

「兄ちゃん、やったな。こいつあ久しぶりに景気がいいや。ユダ、あんた漁師に向いてるんじゃないか」

「よしてくれよ、一回っきりで十分だ」

 照れながら言い返す。そんなに弾んだ自分の声を、ユダは初めて聞いたような気がした。


 結局、乗り込んだ時に舟に運び入れた籠は、一回の漁で一杯になった。

「こんなことは珍しいんだ。いつもはちょっと南のマグダラって町に持っていくんだ。そこでだったら持って行っただけ売れるから、もっと獲るんだけどな。今日はこのままベツサイダに持っていく。明日は安息日だからな。あそこのやつらが食べる分だけしか売れないから、この籠一杯で十分だ。だから今日の漁は終わりだ」

 アンデレが網を器用にたたみながら説明した。シモンは網から落ちた魚を拾っては、籠に放り込んでいる。まだ日が昇ったばかりだからいくらでも続けられそうだが、このまま岸に向かうつもりのようだ。

「もしかして、俺に気を遣っているんじゃあるまいな」

 ユダは尋ねてみた。

「言っただろう。明日は安息日だ。だから、これ以上獲っても仕方ないんだ。安息日には荷を運ぶこともできないからな。それに、ベツサイダは俺たちの故郷なんだ。ユダに逢わせたい奴もいるが、俺達が逢いたい奴もたくさんいるんだよ」

 上機嫌のシモンを見ていると、嘘を言っているわけではなさそうだ。

「まあ、俺としては熱心党の男とやらに逢わせてもらいたいだけなんで、この方が都合はいいんだがな」

 そう言いながら、実のところ、この時間がもっと続いてもいいのに、と少し残念に思っている自分に気付いて、ユダは少しあきれた。


「おう、見えてきたぞ。岸の手前に、少し大きな岩があるだろう。あの岩のあたりが俺たちの縄張りだったんだ。そのちょっとこっち側がベツサイダの舟着き場さ」

 シモンが相変わらず嬉しそうに、指差しながら説明した。ユダにははじめ、うっすらと岸が見えているだけだったので、からかわれているのかと思ったが、どうやらこの二人は自分よりもずっと遠くが見えるらしい。差された方角に目を凝らしていると、やがてユダにも小さな点のような岩らしきものが見えてきた。シモンとアンデレが舟の操作に集中し始めると、することがなくなったユダは、今度は立ったまま、近づいてくる岸を見ていた。

 ユダの目にもはっきり岸の上の様子が分かるくらいの距離まで来た時、アンデレが少し声を潜めるようにして、付け加えた。

「言い忘れてたんだけどさ、この町にはローマ軍のやつらがいる。間違っても熱心党がどうだこうだ、なんて言葉をうかつに口にしないでくれよ。あいつらに聞かれたら少々面倒なことになる」

 ローマ軍という言葉に、ユダはすぐに元の自分を取り戻した。分かっているさ。そんな下手はしない。それにしても、よりにもよってローマ軍が駐留している町にいるとは、熱心党とやらは相当に心臓が強いのか、むしろ狡猾なのか。いずれにせよ、やっと仲間に合流できそうだ、とユダは思った。


 舟を岸辺に舫って、町に入った。魚がいっぱいに詰まった籠は驚くほど重く、木の棒に縄で括り付けて、アンデレと二人がかりでようやく担げるほどだった。シモンはにこにこしながら、先を歩いている。いつもはシモンとアンデレの兄弟で、こうして籠を担いでいるのだろう。

「しっかり担げよ、アンデレ、ユダ。ひっくり返しちまったら、魚が売れなくなる。今日の晩飯がなくなるぞ」

 シモンが振り返って笑いながら言う。

「なんだよ、兄ちゃん。代わってほしけりゃそう言いな」

 アンデレが言い返した。それに合わせて笑いながら、ユダはふと、少年の頃からこうして三人で魚を担いでいるような錯覚にとらわれ、少し愉快な、そして少し切ないような気持ちになった。


 市はカペナウムで見かけたのと大差はない。売られているのは食糧や酒など日常の生活に必要なものばかりで、エルサレムあたりで見かけるような、宝飾品や香油などの高価な品物は見当たらない。それでも人の賑わいはあり、湖上の静かさが、瞬く間に人々のざわめく声と土ぼこりの中にかき消されていくようだった。

「タマルばあちゃん、変わりないかい」

 どうやら魚を商っているらしい老婦人に、シモンが話しかけた。商っている、とは言っても、シモンたちが持ってきたのと同じような籠がいくつか並べてあるだけだ。木の枝に布をかけただけの簡単な日よけがしつらえてあって、そこに老婦人が座っている。

「ヨナんところのシモンとアンデレかい。久しぶりじゃないか。ヨナは変わらずにしているかい」

「ああ、元気だとも。ただ、母ちゃんが死んじまってからは漁に出かける回数は減ったな。俺たちに任せて自分は家でのんびりしていたり、岸辺で釣りをしていたりすることが多くなったよ」

 タマルばあちゃんと呼ばれたその老婦人は、顔中で笑ってシモンとアンデレを見た。目がしわの奥に隠れてしまって見えないくらいだった。きっと小さな頃からシモンとアンデレを知っているのだろう。彼らは、今住んでいるカペナウムの他に、このベツサイダにも自分の居場所を持っている。行き場を失いながら流れてきた自分とは、正反対だとユダは思った。

 シモンはタマルに籠ごと魚を渡してしまった。それで引き換えに受け取った銀貨を、シモンはそのままユダに投げて寄越す。

「こいつはお前が持っててくれ。これから鍛冶屋に会いに行くのに、酒の一つも買っていかないとな」

 そう言うと、タマルに別れを告げたシモンはさっさと歩きだした。魚の籠を置いたアンデレも同じようについて行く。ユダが受け取ったものを掌に載せてみると、すすけて真っ黒になっていたが、かろうじて一デナリの銀貨だということが分かった。一日分の賃金にあたる額だ。

「あの魚の代金がこれなのか」

 ユダはこういうものの相場をよくは知らない。けれどもあれだけの量があったのだから、もう少しあってもいいのではないか、と思ったのだ。シモンは少しだけユダを見て、口を開きかけたが、面倒くさく思ったのか、すぐにアンデレに目配せをした。

「ユダ、あの籠の中に、魚は幾匹入っていたか、数えたかい」

 口元に笑みを浮かべながら、アンデレが尋ねた。ユダは怪訝な顔をして、

「数えられるわけがないじゃないか。お前たちはいつの間にか数えていたっていうのか」

 と答えた。

「数えてないよ。無理だろう。けれども、あれでもお客に売る時には一匹いくらということになる。だから、とりあえずって形で預けるんだよ。籠ごと置いてきたろう。だから戻る時にはまた籠を引き取りに行く。その時に、足りなかった分があるようなら支払ってもらうんだ」

 なるほど。よく考えられた仕組みだ。ユダは素直に感心した。その場限りでしかモノを考えてはこなかった。第一他人を信用することもないので、預けておくとか後で引き取りに来るなんていう発想は、出てこない。自分のこれまで生きてきた世界の狭さを改めて実感する。


 酒だけでなく、木の実や干魚なんかを買って、一行が訪れたのは町の中ほどにある、大きな家だった。鍛冶屋と聞いていたが、こんな町中にあるのはどうしたことだろうか。火を使うし、日がな一日槌音がするから、ユダの知っている鍛冶屋は、大抵は町の外れに住んでいる。

「おい、鍛冶屋。カペナウムのシモンとアンデレが会いに来てやったぞ」

 シモンが大声で告げると、奥からシモンに勝るとも劣らない大きな男が出てきた。

「やかましい。お前の声は辻の向こうからずっと聞こえとるわい。アンデレ、お前の兄貴を少しは静かにさせろよ。おう、もう一人いるな、どちら様だ」

 荒々しいやりとりとは裏腹に、三人とも満面の笑みで、楽しそうに肩をたたき合っている。アンデレが少しだけ真面目な顔になって、ユダを指した。

「この人はね、ユダだ。エルサレムのまだ南にある、ケリオテという町から来たそうだ」

「高名な鍛冶屋殿に会いたいっていうから、連れてきたんだよ」

 シモンがユダの肩を引き寄せながら、紹介した。ユダは抱えてきた酒の甕を鍛冶屋に手渡しながら、

「ケリオテのユダだ。よろしく」

 と短く言った。目はじっと鍛冶屋の顔を見ている。こいつは本当に自分が探し求めてきた同志なのだろうか。自分のことを受け入れてもらえるのだろうか。シモンやアンデレと一緒にここまでくる間には感じなかった不安や緊張が、何故か今更ユダを固くしていた。鍛冶屋のシモンの方も、ユダの顔を見返す。顔からは笑みが消えている。束の間、にらみ合いのようになった。ユダの緊張はさらに高まる。するとふいにシモンが、

「だあーん」 

 と叫んだ。特に意味はなさそうだったが、一同はそれを合図に、はじけるように笑い出した。ユダも例外ではない。屈託のないシモンの笑いに、妙な力みは溶けていくようだった。


「まあその辺に適当に座ってくれ」

 戸口を入ったところは意外に狭い部屋だったが、奥にもいくつか扉があり、案内されたのはそのうちの一つの扉をくぐった先にある広間だった。万一ローマ兵に踏み込まれても、とっさに隠れたり裏口から逃れたりするための、時間を確保する工夫だろうと思われた。

 何度もそういう造りの家を見てきたし、事実ユダ自身も、そういう構造のおかげで逃れることができたという経験が何度もある。その造りだけでも、この鍛冶屋の男が平凡な生活をしているだけではないということが、よく分かった。

「鍛冶屋というのは大抵町の外れにあるもんだと思っていたんだが、ここはずいぶん町中にあるんだな。それになかなか凝った造りの家だ」

 とユダが言うと、この家の主は、

「気になるか。鍛冶屋の工房はここじゃないんだよ。町の外れにちゃんと別に構えてあるさ。ここは親父の弟が住んでいた家でな。何年か前に死んじまったから、俺が使わせてもらっているのさ。まあ、多少手は加えたけどな」

 と答えた。ユダのことを見る、探るような目線は変わらない。

「いや失礼、別に詮索するつもりじゃないんだ。不躾な物言いは性分でね。それに、この家と同じような造りの家をいくつか知っている。そのおかげで命拾いしたことも何度もあるから、ちょっとした関心もあったからな」

 探り合いをしているようなやりとりだったが、鍛冶屋の男はそれでユダのことを大体理解したらしい。シモンとアンデレの兄弟の方に目をやり、二人がうなずいたのを見て、今度は単刀直入に尋ね返した。

「で、ケリヨテの男が何のためにここへ来たんだ。この鍛冶屋に会いたいというのは何故なんだ」

 問われてユダは、両親のこと、ケリヨテにいられなくなったこと、ローマと戦う同志を求めて旅をしてきたことなどを訥々と語った。初対面で自分のことを明かすなど、これまではほとんどなかった。シモンとアンデレの兄弟に会ってから、どうも自分のそれまでのペースとは違ってしまっている。ここでも、シモンとアンデレがいるから、というある種の安心感があるのだろうか。


 鍛冶屋の男は、ユダが持ってきた酒の甕を部屋の真ん中にある机の上に置いて、そのまま腰を下ろした。土器ではなく、木をくりぬいた簡易の盃がいくつか転がっている。そのうちの一つをつまみあげて、甕から直接酒を汲んだ。どうやらそれを使って勝手に汲めということらしい。シモンとアンデレも、ユダもそれに倣って腰掛け、呑み始めた。そうしてしばらくそのまま黙々と吞んだ後、鍛冶屋の男が口を開いた。

「ユダ、とか言ったな。はじめに言っておくが、俺たちはローマと戦う反乱軍って訳じゃない。確かに必要なら戦うことも辞さないとは思っているがな。小さな反乱はいくつも起こったが、どれも長くは続かなかった。やっぱりローマ軍は強い。やつらからすれば、辺境に過ぎないこの地域に駐屯している一軍団の、そのまた一部の、小さな百人隊の一つにすらかなわないんだからな」

 そこまで話してから、鍛冶屋は一旦黙った。ユダの反応を待っている様子だった。

「確かに、まともに反乱を起こしたらあっという間につぶされてしまうのは目に見えているからな。それくらいは俺にも分かっているさ。ただ、必要なら戦うってところは大事だと思う。俺はその機会を待っている節があってね」

 ようやく本題に入れたからか、少し酔いも回り始めているからなのか、ユダも身を乗り出して話に入り込んでいた。

「戦いたくてうずうずしているようだが、大体あんたは何のために戦おうとしているんだ。両親が殺された敵討ちか、それともケリヨテにいられなくなったことの腹いせか」

 アンデレは、とらえようによっては挑発しているかのような言い方に、ユダが怒り出すのではないかと冷や冷やしながら聞いていたが、当の本人は気を悪くした様子はなく、むしろ考え込んでしまった。

「何のために、か」

 ローマと戦いたいという思いは、幼い頃からユダの中に根付いていた。その動機は敵討ちでもあるだろうし、腹いせでもあるだろう。けれども、それだけなのだろうか。そもそも両親はなぜローマと戦い、追い出さなければならないと思ったのか。言われてみれば、きちんと考えたことはなかった気がする。


「じゃああんた達は何のためにやっているんだ。というか、そもそも何をやっているんだ」

 聞いていたアンデレが割って入っていた。兄のシモンの方はただニコニコしながら酒を飲み続けている。

「アンデレ、お前は俺たちが何をやっているかも知らないで、この男を連れてきたのか」

 鍛冶屋のシモンがあきれ顔で言った。そもそも、何者であるのかも分からないユダという男を、何をやっているのかということすら知らない自分たちに引き合わせようと、わざわざここまで連れて来たというのか。底が抜けているにもほどがあるではないか。まあいい、この際だからきちんと説明して、ついでにこの二人の幼馴染も仲間に加えてしまおう、とこの家の主は考えた。軽くため息をついてから、杯を置いて一同を見回して言った。

「俺たちはな。来るべき時のために、人を集めているのさ」

 ユダがかすかに身じろぎした。

「来るべき時、とは」

「王が現れる時さ。ローマを追い出し、神に選ばれた民の王国を再興する時のことさ」

 王国の、再興。三人はいきなり話の規模が自分たちの掌をはるかにはみ出してしまったことに戸惑った。とりわけ漁師ヨナの二人の息子たちはせいぜい、偉そうな顔をしているローマ人に一泡吹かせる、くらいのことしか想像していなかったので、幼馴染のこの男が話そうとしていることが、むしろ荒唐無稽なものに感じられた。

「王が現れるって、つまりヘロデ大王の三人の息子の誰が跡を継ぐのかが正式に決まるってことかい。確かユダヤ地方にいた長男は追い出されたって話だったが」

 ユダや弟があっけにとられているようだったので、ここは自分が応じなければならない、と漁師シモンが尋ねた。

「そうじゃない。ヘロデ家は元々ローマにおもねって王位をもらったに過ぎない。彼らはこの国を興したダビデ王の子孫じゃない。いや、イスラエル人ですらない。エドム人の子孫だって話だ。ヘロデ大王が死ぬ前にしたことを知っているだろう。正当な王が生まれたという噂を聞いて、幼子を大量に殺させた。自分の地位を守るためだけに、だ。むしろ、ヘロデ家がこの国を食いつぶしているとも言える。ヘロデ家の前はハスモンという一族が治めていたらしいが、それもダビデの子孫じゃあない。」

 ヘロデ大王が幼子を殺させたというその話はシモンとアンデレもよく知っている。大人たちが話すのを幼いころから耳にしていた。

「ダビデ王がこの国を興したということは誰でも知っている。けれどもヘロデ家もハスモン家も、ダビデ王家とは関係ない、ということなのか」

 アンデレは唖然としながら言った。ダビデ王のことは、幼いころからシナゴーグで律法を学ぶとともに、教えられてきた。だから、王というのはダビデの子孫だと無条件に思ってきた。しかし、この国に実際にいる王は、ダビデ王家とは無縁のものだという。

「そうだ。ダビデの子孫は、今は王位についていない。けれどもこの国のどこかに必ずいる。その中から、預言されていた救世主キリストが必ず現れる。小さな反乱など起こしてもすぐにつぶされるだけだが、ダビデの子孫が現れたらどうだ。俺たちは、その時のために、キリストの下に集まるべき同志たちを集めて準備している、ということだ。その時こそ、本当の勝利が訪れる。大昔に滅びたという伝説の王国が、もう一度現れるのだ。ローマ皇帝すら、その足下にひざまずくことになるだろう」


「救世主キリスト、ね」

 アンデレが身を乗り出して聞いている横で、兄シモンは足を放り出して、杯を干した。難しい話にはすでに飽きた、という様子だった。黙ってやりとりを聞いていたユダが、酒を汲みながら、尋ねた。

「それで、実際どれくらい集まっているんだよ、その同志とやらは」

 ユダにすれば、理想など、どうでもよかった。もちろん、人が集まるためにそういうものが必要であるとは思うが、そういうことはそういうことを得意としている誰かに任せておいて、その誰かの指揮の下、力を揮えればそれでいい。ユダが求めているのは、まさにそういう指揮をしてくれる誰かだった。

「言っただろう。反乱軍じゃあない。熱心党、と仮に名乗っているが、特別に定まったメンバーがあるわけでもない。こうして相談したり、時に小さな作戦を実行したりする者は、五人、十人という単位で町々にいるがね。その時が来たら協力すると言っているのは何も俺たち熱心党だけじゃない。パリサイ派やサドカイ派のような真面目に神殿に仕えている奴らも同じだ。救世主が現れたら集まろう、と言っている。そういう意味では同志は百や二百どころではない。この国の、ほとんどすべての民が同志になるはずだ。俺はもちろん、その一部しか知らんがね」

「その、救世主キリストなんだがね、預言者は何と言っていたんだったかな。実はあんまり正確には覚えていないんだ」

 アンデレは、明日の安息日にはシナゴーグに行く予定なので、そこでもう一度預言者の書を読み直してみようと思いながら尋ねた。しかし、鍛冶屋シモンはあっさりと、

「詳しくは知らんよ。皆そう言っている。それでいいじゃないか。大事なのは、皆が集まるための理由だよ。一人一人のここのところを熱くするものがあれば、それでいい」

 と言って、自らの胸のあたりを叩いた。

 なんだか、誤魔化されているような気がしなくもない。けれども、小さな作戦を実行する者が町々にいるとも言っていた。他に行くあてもないユダにとっては、それで十分だった。

「よく分からんが、俺もそんなところじゃないかと思っている。とにかく、しばらくは一緒に行動させてもらえるだろうか。よろしく頼む」

 そう言って、鍛冶屋の男、熱心党のシモンに頭を下げた。


 一行はそのままベツサイダで安息日を過ごし、二日後に鍛冶屋のシモンの家を辞して、舟着き場に向かった。ユダはこの町に残るつもりだが、世話になったからせめて舟まで送ると言って、ついてきた。本当は二人の兄弟と離れがたい気持ちがあったからだが、それは悟られないように振舞っていた。

 来た道を戻りつつ、市場を訪ねると、タマルばあちゃんは、来た時と同じ姿勢で座り続けていた。

「タマルばあちゃん、籠を引き取りに来たぞ。どうだい、売れたかい」

 アンデレに声をかけられたタマルばあちゃんは、二人から預かった籠のたもとに置いた、小さな器を指さしながら答えた。

「売れたのは売れたよ、一匹残らずね。ただ、全部で二デナリには足りなかったねえ」

 二デナリなら、先日預かった金額の倍になっている。ユダは追加の銭を受け取れるだろうと思って、様子を見ていると、シモンは少し寂しそうな顔をしながら、追加の銭を受け取るどころか、酒や魚を買った残りのアサリオン銅貨二枚を渡してしまった。驚いているユダに、アンデレが小さく耳打ちをした。

「税だよ。徴税人のやつが上前をはねるから、結局半分ちかくが税で持っていかれるんだ。一デナリもらってしまったら、あのばあちゃんの手元には税金以外残らないことになる。だからせめて、さ」

 ユダは居場所をなくして放浪してきただけに、まともに税を支払ったことがなかった。そんなに持って行かれているのか。

「まあ、一回おろした網で獲れた魚だからな。一晩の酒に換わったってことで、十分じゃないか」

 兄のシモンが気を取り直して朗らかに言う。しかしユダは、この兄弟が受けている扱いを目の当たりにして、理不尽だと感じた。

 こんなことが続けられているのは、不当だ。これまでは、ただ感情的でしかなかったローマへの反感に、はじめてきちんとした理由が伴った。

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