第7話 イシュ・ケリヨテ(ケリヨテの男)ユダ
男の名前はユダという。ケリヨテの町から流れてきた。幼い頃、両親が殺された。町の大人たちから、ローマから来た総督に反抗したためだ、と聞かされた。クレニオというその総督は、その地方を支配していた領主を追い払って居座ったのだという。
もちろん幼いユダにはどういう意味なのかよく分からなかったが、自分の親を殺されたという事実だけは理解できた。おまけに、反抗者を出したということでケリヨテの町全体が厳しく取り調べられ、直接関係のないような者まで捕らえられたり鞭うたれたりしたため、町の大人たちの冷たい視線がユダの心をいつも刺していた。お前の親たちのおかげで、町中がひどい目に遭ったんだ。もちろん、面と向かってそんなことを直接言われることはなかったが、何かと意地悪な扱いを受けることが日常的だった。少しでも反抗的な態度をとると、
「やっぱり血は争えん」
などと言われ、子供たちもそんな親たちに言われているのか、ユダと交わろうとはしなかった。そのため、孤独な少年時代を過ごさざるを得なかった。ちょっとした雇われ仕事をしても、賃金が十分に支払われなかったり、一人だけ与えられる仕事が厳しかったりするといったことも珍しくはなかった。
悲しみは怒りになり、やがて、憎しみとなっていった。みんなローマのやつらが悪い。いつか、この町からローマ人を追い出してやる。憎しみは、そんな情熱に形を変えてユダの中に根付いていった。
もちろん、同情的な大人たちもいた。その多くはユダの両親と同じように、ローマを憎んでおり、「反逆者の子」であるユダを守ることが、ささやかな抵抗となっていた。
クレニオ以降、幾人か総督は交替したが、その誰もが軍人で、元老院の議員が赴任している他の州とは異なり、なかなかまつろわないユダヤに対するローマ元老院の警戒度が想像できた。その上、ケリヨテの町が警戒されているためか、いつも屈強なローマ兵が集団で送られてきていて、つけ入る隙は見いだせなかった。だからローマ人にはかすり傷一つつけることもできないまま、歳月だけが過ぎて行った。
ユダの、ローマに対する憎しみは体の成長と共に大きくなっていったが、現実には手も足も出せない葛藤は、生活をすさませていった。そんな中で、少年時代にはかばってくれていた大人たちも、だんだんユダから離れていき、気が付けば周囲は素性の良からぬ連中ばかりになっていた。
それですら、心許せる交わりが持てた訳でなく、目の前の欲にのみ動かされる彼らを、心の底では軽蔑していた。当然それはユダ自身の態度にも表れ、彼らからも敬遠されるようになったユダはやがて、ケリヨテの町にはいられなくなっていった。
そうして居場所を失ったユダは、あちこちを放浪するようになったが、その荒っぽさを生かして用心棒のようなことをしてみたり、時には直接盗みを働いたりしながらとりあえず生きることはできた。
それは幸福であったとは言えない生い立ちだが、ユダ自身を強くしたという面があるとも思えた。しかし、これではいけない、こんなはずではないといった思いも、いつも頭から離れることはなかった。生きていくためには仕方がないことだ。ユダはともすれば絶望に呑み込まれそうになる都度、自分にそう言い聞かせてきた。こんな時代に生まれていなかったら。ローマさえいなくなれば。
そんな風に時代を恨みながら放浪していたユダは、やがて同じようにローマの支配をはね返そうとする動きがあちらこちらで起こっているということを知るようになった。中には、ケリヨテの、まとまりきれなかった反抗とは異なり、ある程度組織だった動きを見せていた一派もあるようだった。なんとかそうした連中に合流できないものか。そう思うようになり、接点を求めて移動を続けたが、さすがにローマ軍の監視の下にあってよそ者のユダに簡単にその動きがつかめるはずもなく、手掛かりのないままでユダヤ地方を抜け、ガリラヤ地方にたどり着いたのだった。
ガリラヤ湖畔に立つと、対岸が見えなかった。ユダヤ地方のすぐ西側はサマリヤである。サマリヤの住民はユダヤ民族として純潔ではないということで、彼らとの交流が避けられている。そのため、ユダ自身も気づかないうちにその地方を避けて東に歩いてきた。だから海に出るはずがないのだが、方角を間違えてしまったのではないか、と疑ったほどに、ガリラヤ湖は広かった。荒野の中にあるケリヨテの町に生まれ育ったユダにとっては、それは驚くべき風景だった。
湖に沿って歩き続けるうちに日が傾き始め、漸く赤く染まり始めた湖面に自分の影が映るのを認めたユダは、風に運ばれてくる笑い声を聞いた。岸辺で舟にとりついてなにやら作業をしている最中らしい人影を発見し、声をかけてみた。
「すまないが、このあたりに宿をとらせてくれそうな家はないだろうか」
突然かけられた声に驚いたのか、笑い声は一瞬止み、警戒の視線が送られてきたが、相手がユダ一人であるとわかると、すぐに陽気な声が返ってきた。
「旅をしているのかね。残念だけどこのあたりに宿屋はないよ。見ての通りの田舎町なんでな。そうだ、あてがないなら、うちに泊めてやるよ」
体の大きな、人のよさそうな男だった。年の頃はユダと同じくらいだろうか。隣に立っていた少しやせ気味の方の男が、その言葉を聞いて驚いたように大柄なもう一人の顔を見た。
「兄ちゃん、いきなり泊めてやるって、どこの誰かも分からないのに、物騒じゃないか」
言っていることはもっともだが、当の本人を前にして言うことでもなかろう。よほど人慣れしていないのだろうか。ユダは少々あきれながら、
「名乗りもしないで失礼をしたな。俺の名前はユダという。ケリヨテから来た。何の罪もないとは言えないが、お尋ね者というほどじゃない。特別に物騒なことはないと思っているんだがな。迷惑をかけるつもりもない」
と答えた。男は自分の非礼に気づいたようで、すぐに顔を赤らめ、頭をかきながらユダの方に向き直った。
「いやその、申し訳ない、失礼なことを言いました。俺はアンデレって言うんだ。こっちは兄貴のシモン。ガリラヤ湖で漁師をしているんだ。家はこの近くのカペナウムって町だよ」
「元々はベツサイダってところにいたんだけどな。魚はよく獲れるんだが、ティベリヤやマグダラに売りに行くにはこのあたりに住んでいた方が、都合がいいもんでね。それに、ローマの総督が兵隊を駐留させるために、俺たちの家の近くに天幕を立てたんだ。近くにそんなのがあると何となく息が詰まるしな。それならちょうどいい、移っちまおうってんで引っ越したんだ。もう十年以上昔の話なんだが」
「別にそこまで言わなくてもいいよ、兄ちゃん」
アンデレと名乗った男が苦笑しながら制する。ユダはしかし、シモンという兄の言ったことにひっかかった。
「ローマの総督が、と言ったな。やつらはまだいるのかい。そういえば、このあたりに元気のいい奴らがいるという噂を聞いたんだが、あんたら、知らないかい」
「このあたりの漁師は元気なやつばっかりだよ。ガリラヤ湖はこう見えて荒れるときは結構荒れるんでな。元気でなきゃ、漁師はやってられねえんだよ」
シモンという男は人が良さそうだがあまり知恵は回らないようだ。アンデレの方が鋭いらしい。
「兄ちゃん、そういう意味じゃないと思うよ。……元気のいいやつら、か。それを聞いてどうするつもりなんだ。」
アンデレがシモンを軽くたしなめてから、尋ねてきた。いい加減なごまかしは認めない、と険しい目が伝えてくる。しかしその態度がかえってユダに悟らせた。ここにいるんだ。ローマに反抗している勢力が。この兄弟か。それとも彼らの知り合いなのか。もしかするとカペナウムといった、その町全体がそうなのか。誤解を与えないよう注意をしながら、しかしユダは自分自身のこれまでのこと、ローマへの抵抗勢力を探して合流したいと願ってきたことを正直に話した。彼らは自分を間者だと疑っているかもしれない。信頼を得られなければせっかく見つかりかけた手掛かりが逃げてしまう。ありのままを話すしかない。あるいは彼らの方がローマの間者かもしれない。それならここで切り結んで戦うだけだ。いずれにしても、今ユダにできることは語ることだけだった。
一通り語り終えると、黙ってユダの話を聞いていたアンデレが、ふと表情を和らげたのが分かった。小さく息を吐いて、言った。
「分かったよ。あんたを信用しよう。嘘をついている目じゃなさそうだ。でもあんたの言う元気な連中というのは俺のことじゃない。俺自身も詳しくは知らないんだ。ただ、恐らく連中の一人を知っている。そいつを紹介してやるから、あとは自分で聞いてくれ」
今度はユダが息を吐く番だった。やっと、戦う仲間に会えるかもしれない。自然に、笑みがこぼれた。アンデレも、笑みで返してくる。シモンは話についてくることができていないようだったが、二人の顔を見比べて、とりあえず声を出して笑った。そのシモンにつられて、ユダとアンデレも笑い出し、暮れかかったガリラヤ湖畔に、三人の笑い声が溶けていくようだった。
カペナウムはにぎやかな町だった。ユダヤの地方に比べれば規模はずっと小さかった。けれども、宿こそないが、市もあって、酒場もあった。シモンとアンデレの兄弟に連れられて町に入ったが、日はすっかり暮れているというのに、灯りがあちこちにあって、人の往来もある。家の中だけでなく軒先まで篝を焚いて、酒を呑んでいる姿がそこここに見られた。それはシモンの持っている、どこかおおらかな雰囲気と似ているようだった。
案内された家は比較的大きく、シモンたちの父親が一緒に暮らしているとのことだった。今日はもう遅いから、どちらにせよ、泊っていくといい。シモンのその一言で、三人はシモンの家に移動することになった。シモンとアンデレは最初に言った通りガリラヤ湖の漁師で、篝火を焚いて夜の漁に出かけようとしていたらしい。しかしユダが現れたので、漁を取りやめにして、家に帰ることにしたようだ。それを聞いてユダは恐縮し、宿は別のところを探すから、と断ろうとしたが、シモンの方はさっさと片づけて歩き始めてしまった。アンデレに肩をたたかれ、迷いながら後をついて歩くうちに、町まで来てしまったのだった。
「遠慮せずにどうぞ。なに、気を遣うことはないさ。今夜は漁に出るつもりだったとは言っても、あんまり収穫は期待しちゃいなかったんだ。ちょっと風が出始めていただろう? こんな日は夜中になって荒れ模様になることが結構ある。本当のところ言うと、荒れて戻ってくるくらいなら、出なきゃよかったってことになるから、取りやめにする、いいきっかけになったんだ。それに兄ちゃんは客を呼ぶのが好きでね。旅をしてきたんなら、他の町の話でも聞かせてくれよ」
気を遣うな、と言いながら、アンデレの方はずいぶんユダに気を遣っているようだ。はじめに不躾なことを言ってしまったので、気まずさを感じているのかもしれない。シモンの方は特に気を遣う様子もなく、家に入るとニコニコと座り込んでしまった。
「今夜は舟の上で漁をしながら、と思っていたんでね。家といってもおふくろは何年か前に死んじまって、男所帯なんだ。これしかなくて悪いが、食おう」
と言いながら、持って帰って来た荷物の中から、パンと干魚を取り出す。アンデレの方は家の奥に行ったかと思うと、すぐに甕を抱えて戻って来た。
「その代わり、これを呑みながら、食おう」
土で焼いた杯が手渡される。ぶどう酒だった。パンも回って来る。当然ながら固く、冷めきっているそれを少し割って、口に入れた。ぶどう酒を呑むと、乾燥したパンに水気をとられた口の中が潤い、飲み下す心地よさが増した。干魚もかじり、咀嚼する。ほのかに塩の味がして、素朴だがうまいと感じた。考えてみれば、今日初めて口にする食事だった。
「ケリヨテから来たって言っていたな。よくは知らないが、どの辺りなんだ」
シモンが尋ねた。アンデレも、興味深げに聞いている。これまでの旅の中では宿をとっても誰かと関わり合いになることなどほとんどなかった。ユダの方が、心を閉ざし、避けてきたということもある。ここに来てからどうも調子がくるってしまっている。
「ケリヨテはユダヤ地方で、ここよりもずっと南にある町だ。田舎の小さな町で、これと言って特に何もないんだがね。エルサレムが近いので、ローマのやつらが結構わがもの顔に歩き回っていることが多い。この辺りはそこへ行くと結構のどかな感じだな。ローマ軍の姿も、ガリラヤ地方ではあまり見かけないようだが」
少々うらやましいと、ユダは感じた。ケリヨテの反逆者の子ではなく、こんなところで漁師の子としてでも生まれていたら、自分の生き方も変わったのかもしれないとさえ、思う。
「のどかはのどかだな。でも、ローマの影はしっかりあるさ。ウチの親父もよくぼやいているよ。前の馬鹿な領主を追い出しに来た時にはもうちょっと暮らしもましになるかと期待していたんだが、居座っちまったら税も上がって、かえって暮らしづらくなったってな」
馬鹿な領主、か。言葉は粗いが、屈託もない。ユダや、ユダがこれまで話してきた人間に言わせると、もっと言葉に暗さがあった。
「あんときのことはよく覚えているよ。アンデレはまだ小さかったから分からないだろうけど、俺はさっそうと行軍していくローマの総督ってやつを見て、格好いいなあと思ったんだ」
「俺だってよく覚えているよ、兄ちゃん。あの時兄ちゃんは俺もローマ軍に入ろうかなあなんて言って、鍛冶屋のシモンに叱られたろう」
アンデレが口をとがらせて言う。ローマから来た総督が前の領主を追い出した時のことを覚えているということは、この二人はユダよりも少しだけ年上なのだろう。ユダ自身はそのクレニオのことを直接は知らない。
「実はな、さっき湖で言っていた、元気のいい連中の一人って言うのが、その鍛冶屋のシモンなんだ」
「えっ、そうなのか。鍛冶屋のシモンがどうしたんだ」
シモンの方が驚いてアンデレに質問する。この兄の方は、どうやら何も知らないらしい。アンデレは一呼吸おいてから、ユダにも聞かせるように、シモンに答えた。
「俺も詳しいことは知らない。でも、ユダヤ人の国をもう一度取り戻すんだ、と言っているのを聞いたことがあるんだ。そういう連中とつきあっている。確か、熱心党とか言ったな」
「熱心党、か。初めて聞くなあ。なんでそんなこと知っているんだ、アンデレは。いつの間にそんなことを聞いたんだよ」
シモンはあくまでも呑気だ。
「まあ、なんとなくね。それより、ちょうどいい。明日はベツサイダの方まで舟で行って漁をしよう。明後日が安息日だから、どっちにしてもベツサイダに泊まって安息日を過ごすつもりにしていたんだ」
「そうだな、今夜の漁で行くか、明朝の漁で行くかの違いで、どっちにしてもベツサイダに行く予定だった。ああ、そうか、それなら、鍛冶屋のシモンのところにも行けるな」
シモンは、ようやく合点が行ったという顔で、二杯目の盃を飲み干した。ベツサイダの町も、ここと同じような雰囲気なのだろうか。ユダは同様に盃を重ねながら、久しぶりに心地よい酔いが訪れるのを感じていた。
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