第6話 ガリラヤ湖
少年たちの多くは、親の仕事を受け継ぐことになっていた。シモンとアンデレも当然、父ちゃんの跡を継いで漁師になるものと思っていたし、あんな腕利きの漁師になりたい、というのは二人の兄弟にとっての夢でもあった。父ちゃんは荒れることも多いガリラヤ湖でも舟を自在に乗りこなし、いつもたくさんの魚を獲って帰ってくる。シモンとアンデレにとって、父ちゃんの舟はあこがれの象徴だった。当然、勝手に乗ることは許されない。
決して大きなものではないが、それでも網を投げ、引き上げた魚を積んで戻ってくるための容量は備えている。それに、の他の漁師仲間たちの舟も幾艘か並べて舫われているため、子供二人がこっそりともぐりこんでしまえばまず分からない。見つかったら叱られるのは分かっていたが、漁が休みの時の父ちゃんの舟は、二人にとってはお気に入りの隠れ家となっていた。
例の化け物事件から半年ほど経った頃、夜通しの漁を終えて戻ってきていた舟に、二人は乗り込んだ。いつもの仲間たちはの中で集まって遊んでいたが、明るい間に舟が置いてある機会はそう多くないので、シモンとアンデレはこちらを選んだのだった。
父ちゃんが昼の漁に出たりする時には、何度も乗せてもらっていたので、大体の様子は分かっている。先ほどまで網をつくろったり帆をたたんだりする大人たちが何人かいたが、すっかり片付いたらしく、一帯は二人の独占になった。そのため、いつもはこっそりと舟の底に座り込んでいるだけが、今日は舳先に立ってみたり、網を投げおろしたり引き上げたりする仕草をしてみたりと、父ちゃんの真似をして遊んだ。気分はすっかり、漁に出ている一人前の漁師である。
今、二人は想像の中で、湖の深みに漕ぎ出して、漁をしている。少々風は出ていたが、太陽はよく照っていて、むしろ少し心地よい。
シモンは櫂をつかいながら、アンデレに網を投げるように命令した。魚の群れが、網に驚いて湖面に跳ね上がるのがいくつも見える。いいぞ、今日は大漁だ。シモンは櫂を置いて、アンデレと一緒に網を引き揚げ始めた……。
うららかな日差しの中で、二人は漁に出ている夢を見ながら、いつしか居眠りを始めた。普段ならしっかりと舫ってあるので、安全なはずだった。しかし、しっかり結び付けられているはずの舫い綱の結びが、この日に限って少し甘かった。大人たちが夜通しの漁で疲れていたからだろうか。打ち寄せる波に揺れる舟の動きも手伝って、杭にかけてあった舫い綱がほどけてしまった。舳先に寄りかかるようにして眠っていたシモンの重みも手伝って、二人を乗せた舟は知らぬ間に沖に向かってゆっくりと、動き始めた。
波を受けて大きく揺れた際、シモンは少しだけ目を覚ましかけたが、湖面の穏やかな波がゆりかごのように舟を揺らしたため、より深い眠りへと、入っていくことになってしまった。
舟は波に揺られ続けている。少し風が出てきたためか、舟底を洗う波は徐々にその強さを増してきていた。やがて、舳先にあたって砕けた波が頬を打ち、その水の冷たさに、ようやくシモンは目を覚ました。
しばらく、今自分たちがどこで何をしているのかが分からず、呆然としていた。地面が揺れている……違う、ここは舟の上だな。父ちゃんの漁について来たんだったっけ……。大きめの波がやってきて、舟は大きくせりあがり、また落ちた。その衝撃で、シモンははっきりと思いだした。違う。父ちゃんは漁を終えて家に帰ったはずだ。アンデレと二人で舟に乗り込んで遊んでいたんだった……。
シモンはあわてて飛び起きて、周りを見まわした。陸が見えない。流されちゃったんだ。気づいたけれども、どうしたらいいのか分からない。舟を扱う父ちゃんの姿を見てはいたけれど、実際に触ったことはない。お前たちにはまだ早い。そう言って、触らせてはもらえなかったのだ。
ここはどのへんだろう。岸に戻らなくちゃ。シモンは舟の周りを必死で見まわしたが、陸も他の舟も見えなかった。おまけに波がどんどん高くなっている。このままだと大変なことになってしまう。漸く、シモンは焦り始めた。舟底に置いてある櫂を持って動かそうとしたが、重たくって持ち上げることもできない。大体、櫂をどうやって使うのかも、知らなかった。どうしよう。頭を抱えた時、アンデレが目を覚ました。
「にいちゃん、どうしたの」
寝ぼけ眼をこすりながら、無邪気な顔でアンデレが言う。
「流されちゃったみたいだ」
シモンは思わずつぶやいてしまってから、途端に泣き出しそうになったアンデレの顔に気づいて、しまった、と後悔した。アンデレを怖がらせちゃいけない。俺が守ってやらないと。シモンはあわてて言い直した。
「だ、だいじょうぶさあ。ちょっと沖へ出てみたいなって思っただけだよ。さあてと。そろそろ戻ろうかなあ。それとも、もうちょっとこの辺で遊ぶかい、アンデレ」
シモンの顔はひきつっている。けれど、アンデレは素直に応じた。
「おうちに帰ろうよ、にいちゃん」
「よしきた」
応じながらシモンは舟の艫の方に移動した。内心、どうしよう、と思っているがそれは決して口に出してはいけない。いかにも舟を動かす準備でもしているような仕草で、舟底に置いてある櫂をいじっていた。アンデレの方をちらりと見ると、泣き出してはいないものの、不安そうな表情は変わらない。もう一度櫂を持ちあげてみる。今度は少しだけ、持ち上りはしたが、とてもこれを操って舟をこげるとは思えない。
落ち着け、落ち着け。シモンは自分に言い聞かせながら櫂をあきらめて、湖面を見た。すると、綱が一本、水の上を舟についてくるように流れているのを見つけた。舫いの綱だった。岸の杭からは外れてしまっていたが、舟の舳先にはしっかりと結び付けられている。シモンはその綱と湖を見比べてから、決心した。よし。これで引っ張るしかない。
「アンデレ、兄ちゃんが引っ張って帰るから、舟の上から動くんじゃないぞ」
そう声をかけると同時に、上着を脱ぎ、勢いよく湖に飛び込んだ。早くはなくても、泳ぎは得意だ。大丈夫、泳いでこの綱を引っ張れば、岸まで舟を持っていける。自分の体に綱を巻き付けたシモンは、全力で泳ぎ始めた。
ところが、いつも泳いでいる岸辺ではない。大きくうねる波の中では、いくら泳いでも前に進んでいる気がしない。それに、湖面に浮かびながら見ると、舟も結構大きい。押そうが引こうが、びくともしそうにない。
ちくしょう。こんな時こそ、湖の上を走れたらいいのに。そんなことを考えながらシモンは必死に体を動かし続けた。すぐに息が上がってくる。何度も波をかぶって水を呑んだ。頑張れ。もうちょっとで岸が見えるはずだ。アンデレは連れて帰ってやらなくちゃ。何せ兄ちゃんなんだから。けれども、どんなにもがいても、やっぱり岸は見えてこない。
「にいちゃあん、とうちゃあん」
アンデレの声が舟の上から聞こえてくる。アンデレ、大丈夫だ、兄ちゃんが連れて帰ってやるからな。心の中でそう言いながら、シモンは手足の感覚すら、あまり分からなくなりつつあった。
「とうちゃあん、とうちゃあん」
アンデレの声がだんだん遠のいていく気がした。俺は父ちゃんじゃない、兄ちゃんだぞ……目の前がだんだん暗くなって、自分がどこにいるのかということも分からなくなり始めた。
ヨナは必死だった。なんとなく気になって、舟の舫いがちゃんと結べていたかどうかを確かめようと思って、湖に戻ってみた。すると自分の舟だけがない。確か子供たちがこのあたりで遊んでいたはずだが、その姿もない。
「シモン、アンデレ、どこにいる。どこで遊んでるんだ。出てこい」
呼んでみるが、応答はない。まさか。もし子供たちが乗ったままで流されたのだったら、大変だ。とっさに隣に舫ってあったゼベダイの舟を拝借し、漕ぎだした。ゼベダイには後でちゃんと謝ろう、今は一刻を争うかもしれない。そう思いながら、必死に漕いで沖へ出た。
荒れているわけではないが、沖合いの波のうねりは大きく、油断をしていると舳先がぶれていく。少なくとも、小さな子供たちが舟で遊ぶような余裕がある状態ではない。
ほどなく、自分のものだと思われる舟を見つけた。どうやらアンデレらしい姿が見える。しかし、シモンの姿は見えない。どこへ行ったんだ。ヨナは大慌てで舟を近づけた。艫から綱がのびている。まさか。綱をたどって湖面に目を滑らせる。いた。シモンだ。綱で舟を引っ張ろうとしているらしい。馬鹿なことを。漕ぎ寄せて怒鳴ってやろうかと思ったが、その姿が湖面の下に沈みかけた。いかん。
シモン。呼ぼうとしたが、声にならない。飛び込んで、シモンの方に向かって泳いだ。シモン。必死で手を伸ばした。指先が、触れる。しかし、とらえきれない。水を掻いた手に、何かが触れた。綱か。シモンと一緒に、沈んでいこうとしている。引き寄せると、沈みつつあったシモンの体が浮き上がってきた。
アンデレの声が聞こえなくなった。水の中にまで、声は届かないらしい。シモンは、自分の体が沈んでいくのを他人ごとのように感じていた。
「アンデレ……ごめん……だめだ」
そう思ったときである。突然だった。大きなごつい手につかまれ、シモンの体はたちまち湖の上に引き上げられた。
「あれ……どうなったんだ」
それは父ちゃんの手だった。いつの間に近づいていたのか、父ちゃんが誰かの舟に乗って、探しに来てくれたようだ。どこかで同じようなことがあったな。そうだ、アンデレが生まれたとき、父ちゃんが俺を抱き上げて、アンデレの顔を見せてくれたんだった。シモンはそこで気を失った。
シモン。ヨナは思い切りシモンの体をつかんで、引き上げる。なんとか、間に合ったか。あきれたことに我が息子は、失神しながら舟の綱を握りしめていた。
すぐに舟に引き上げ、腹を押して水を吐かせた。幸い、そんなにたくさん飲んだ様子でもなさそうだ。すぐに息をし始めた。
「アンデレ……だいじょうぶだからな……兄ちゃんが、つれて帰ってやるからな……」
こいつめ。目を覚ましたらうんとお説教をしてやろうと思っていたが、弟を守ろうという必死さに免じて、勘弁してやる。
ヨナはシモンの握りしめていた舫い綱をとって、舟を二艘、しっかりと結び付け、岸に向かって漕ぎ始めた。
夜通しの漁で疲れ切った体に、うららかな日差しがしみとおるように感じた。
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