第5話 黒い化け物
「いいか、あの岩が目標だからな。せえの、で行くんだぞ」
ガリラヤ湖は大人たちにとっては生活の糧を得る場だったが、シモンたちにとっては格好の遊び場になっていた。どの時代でもどの国でも、少年たちが集まると、いつも何らかの競争が始まる。
その岩は、少年たちが投げた石が届くほどの距離にあって、しかも岸からその岩までは湖底が浅くなっており、シモンたちでも大きく外れたりしなければ、なんとか湖底に足を付けたままでたどり着くことができた。岩と浅瀬のために大人たちの舟も近づかず、石投げの的になったり、泳ぎ比べの目標点になったり、その上に座りこんでは釣り糸を垂れたり、また押したり引いたりして落とし合う闘技場になったりと、少年たちの一等お気に入りの場所になっていた。
この度の少年たちの課題は、「湖上を走って目標まで競争する」というものであった。事の発端はいたって単純で、石投げをしていた少年たちが、石でさえ水の上をはねられるのなら、人間だって当然はねられるはずだ、という誰かの発言を受けて、すっかりその気になってしまったのだ。それならば誰が最も水上を速くに駆けられるのだろうということになり、「湖上の駆けっこ」が始まることになったものである。
シモンも例に漏れず、他の少年たちと一緒にこの競争に参加しようとしていた。陸上の駆けっこではいつも遅れをとってしまうけれども、水の上だったらきっと速いはずだ。根拠もなく勝手にそう確信し、アンデレに、
「水に足をつけると沈むだろう? だから、沈む前に足を上げてやればいいんだ。それを繰り返したら駆けるのと同じだ。見てろよ、兄ちゃんが一等はじめにあの岩まで行くからな」
アンデレは目を輝かせてうなずいた。それだけでシモンはもう勝ったつもりになっている。膝の少し上まである着物の裾をからげて、腰に巻いている帯に巻き込み、尻を丸出しにした。他の少年たちもほぼ同様の格好である。
「じゃあ行くぞお、せえのっ」
少年たちは掛け声を合図に一斉に湖に向かって駆けだした。当然のことながらわずかでも湖面にとどまれる足はなく、踏み出すと同時に全員が前につんのめる格好になって、盛大に水しぶきを上げた。普通に湖底を歩くつもりならそうはならないが、何せ本人たちは湖面を駆ける見当で力いっぱい踏み込むのだから、いわば落とし穴に足をとられたような形になってしまう。
シモンも同じくつんのめり、飛び込みに失敗した時のように、思い切り腹を打ち付けてしまった。しかしこの少年はあきらめない。すぐに起き上がったかと思うと、足を振り上げ、駆け足を続けた。もちろん水面を踏みしめられるはずもないので、一歩ごとに沈むが、その都度思い切り湖底を蹴り、反対の足は思い切り振り上げる。だからとりあえず膝小僧くらいは束の間水面に出てくる。そして両手は水をかくように振り回している。最初の一歩であっさりあきらめた少年たちは、結果として溺れてもがいているようなシモンの「全力疾走」の様子を見ていたが、やがてその姿を指さし、続いてお互いを指さしながら大笑いをし始めた。そしてそのシモンも、岩までたどり着けるはずもなく、三分の一ほどのところで力尽きて、沈んだ。ぜいぜい言いながら立ち上がると、皆が腹を抱えて笑っている。それを見て、シモンも笑った。笑えば笑うほどおかしくなって、しばらくは笑い止まなかった。
でも、アンデレだけは、笑わなかった。なんでみんな笑っているんだろう。だれも岩まで行けなかったのに。それにしても、兄ちゃんまで途中で沈んでしまった。沈む前に足を上げればいいだけだって兄ちゃんは言っていた。足を上げるのが遅かったんだろうか。自分にはとてもできそうになくても、兄ちゃんだったらやれると思ったんだけど。
シモンは同年代の子供の中では体が大きい方だった。そのためか、駆けるのはあまり速くなかった。同時にあまり器用な方でもなく、石投げをしてもなかなか的に当てられなかった。体が大きい分、力も強かったが、組打ちをしても何故か自分よりも体の小さな少年に器用に投げられてしまった。しかし、色んな競争に勝てなくても、悔しがって不機嫌になったりすることもなく、
「また負けちゃったなあ」
といつも陽気に笑っていた。シモンはその明るさのために皆から慕われており、いつも少年たちの中心にいた。アンデレはそんな兄のことが大好きだったし、あこがれてもいた。
アンデレの方はまだ四歳で、いつも一緒にいる少年たちの中では一番小さかったが、律法の暗唱は早く、あどけない顔をしながら結構鋭い質問をしたりするので、仲間として認められていた。実はシモンが少年たちの中心にいるのは、アンデレがあこがれてやまない兄だから、という側面もあるのだが、ひとりシモンだけはそれを知らなかった。いや、自分自身が少年たちの中でどんな位置づけなのかということにすら、鷹揚なこの少年は気づいていないのかもしれなかった。
漁師の息子だけに、湖にいるとシモンはその才能を発揮した。泳いだり小舟を漕いだりすることは得意で、とりわけ魚釣りだけは他の少年たちよりも抜きんでて上手だった。そして、他の少年たちよりもたくさん釣った魚を、釣れなかった少年に決まって気前よく分けてやるので、それもまた、シモンが慕われる理由の一つになっていた。
もちろんシモン自身はそれを意図していないし、そもそもたくさん釣って持って帰ったところで、シモンの家には魚はいくらでもあるので、あまり意味もない。なにせ、漁師の息子なのだ。他のことではいつも遅れをとっているが、魚釣りだけは誰にも負けないということが、この少年の誇りでもあった。
そんな風にして少年たちは、親の仕事を手伝う合間を縫って、よく集まって遊んでいた。その日も、ガリラヤ湖の例の岩に向かって石投げをしていた。すると町の方が何やら騒がしい。嵐の他は大きな変化のない毎日を過ごしている少年たちは、いつならぬ騒がしさに、すっかり気をとられ、投げていた石を握りしめたまま、町の方に注目をした。ほどなく、土ぼこりが上がり、その騒ぎはだんだん少年たちの方に近づいてきた。
「なんだろう。泥棒でもつかまったのかな」
街道は、少年たちのいるすぐ近くで西に曲がり、ガリラヤ湖畔に沿って南下していく。その街道をどうやらたくさんの馬や荷車が集団で移動してくるようである。
「泥棒じゃないな。もっとたくさんでこっちに向かってる」
シモンは言うなり駆け出した。街道の際にまで移動して、その騒ぎを直接見ようと思っている。それを合図に、他の少年たちも一斉に駆け出した。例によってシモンはあっという間に追い抜かれ、最初に駆け出した割には最後尾を追いかける形になったが、そう大きく離れた場所でもないので、大きな差はつかず、ほぼひとかたまりの状態で街道の傍らにたどり着いた。
ほどなく、土ぼこりの原因が近づいてきた。馬上にいるのは、ローマ軍の兵士のようだった。恐らく数百騎という規模で行進している。先頭を行く男は、鈍色の甲冑と兜に、赤いマントをはためかせて胸を張っていた。兜の上には立派な羽飾りもついている。
「すげえ。ローマ軍だ。ひとつ、ふたつ、みっつ……だめだ、数えきれないや。こんなにたくさんで行進しているのは初めて見た」
少年たちは興奮している。占領下にあるとはいえ、まがりなりにも王が立てられているので、駐留軍は大規模ではない。このあたりではローマと行き来する伝令が数騎、時折通り過ぎるくらいである。しかも、海沿いにヘロデ大王が建設したカイザリヤがその本拠になっていたので、そもそもエルサレムからの伝令は主にそちらに向かう。地中海沿岸からは大きく東にそれているこのカペナウムは、まだこの時期には、歴史の流れからは忘れられたような存在になっていた。
軍隊は、整然と、長い時間をかけて狭い街道を通り過ぎて行った。少年たちはその様子を、息を呑んで見送った。
「……かっこいいなあ。俺も大人になったらローマ軍に入ろうかなあ」
シモンが思わずつぶやいた。少年たちの中で少し年長者である、鍛冶屋の息子のシモンは、それを聞き逃さなかった。険しい顔をして、ヨナの子のシモンをたしなめる。
「そんなことを言っちゃだめだ。ローマは俺たちの国を占領しているんだぞ。いわば敵じゃないか。それに俺たちはローマ市民でもない。そもそもローマ軍に入ったって、奴隷としてしか扱われないさ」
「へえ、そうなのか。でも、せんりょうってなんのことだ。なんで言っちゃだめなんだ。俺と同じ名前なのに、お前は何でも知ってるんだな」
シモンは素直に感心した。実際、占領されているということがどういうことなのか分からない。何をたしなめられたのかも分からなかった。単純に、間近で見たローマ兵の行進が、強そうで、格好良かったのだ。
「でも、確かに強そうだったよな。石を投げられてもへっちゃらそうな服を着ていた」
「あれはな、よろいって言うんだ。石ころどころか、剣で切られてもへっちゃらなんだってよ」
ヨハネに兄のヤコブが教える。鍛冶屋のシモンはいつも少々固い話をするので、二人はあまり聞いていない。ただ、少年たちの目には、さっそうと行進していくローマ軍の姿が焼き付いたのは確かだった。その姿に様々な意味が加えられていくのは、後日の話になる。
クレニオは少々いら立っていた。ローマを出発してからこの方、小休止が頻繁である。ローマ南方の港町レギオンからアンテオケまでは、ガレイ船で地中海を航海したため順調に来ることができたが、レギオンまでとアンテオケからの道程は、陸路だった。本来ならばとっくにエルサレムに到着していてもおかしくない日数が経っていたが、この分だとまだ幾日かはかかりそうである。もちろん、少々時間がかかったところで影響はない。戦争ならば情勢の変化も起こりうるが、今度の任務はユダヤ地方を治めることである。多少の抵抗はあったとしても、歴戦の強者であるクレニオにとってそれは、手を焼くほどのものではないはずだった。
時間がかかってしまっている原因は明らかだった。隣で真っ青な顔をしながら馬に乗っている、アンナスのためである。ユダヤの祭司階級の男で、アルケラオスに罷免された大祭司ヨアザルの甥だった。どういう経緯かは不明だが、アピウスが連絡をつけ、逼塞していたヨアザルと一緒に、アルケラオスを訴えるためにローマまで出頭してきたのである。アルケラオスの追放が決まり、元老院によってクレニオのシリア総督再任が決定した後、ユダヤ地方の案内役として改めて紹介されたため、彼を伴ってエルサレムに向かうことになった。
アピウスが推挙するだけあって、アンナスは非常に博識で、明晰な男だった。打てば響くようなところがあるため、クレニオにとっても良い話し相手になった。この旅を通してすっかり親密になったと言える。ただ、軍人でないために体力はない。おまけに極端に馬に弱く、数刻乗り続けていると、倒れ込んでしまう。実際、少しくらい大丈夫だろうと考えて休憩を先延ばしにしていると、失神して馬からずり落ちそうになったことがあった。そんなわけで、町を通過するごとに、小休止を命ずることになったのである。
しかし、時間をかけて移動するということにも利点はあった。町ごとに小休止をしている間に、住民の様子や町の様子を見る機会が持てたのである。これまでにも総督としてその州を治めるという経験は少なからずあったが、基本が軍人であるため、部下の報告をどう裁くのかということに終始していた。小休止のために町に立ち寄ると、応対に出てくる代表者たちとは直接言葉を交わすことになったし、遠巻きに見ている住民たちの目線や雰囲気などを見ることができた。兵たちが水や飼い葉の手配についてやりとりをしている中で、直接情報のやりとりができるし、そこで、住民の反応をはかることもできた。
少なくとも今回の、アルケラオスを追放してユダヤをローマの直轄領に戻すという元老院の決定については、強い反発は感じられなかった。よほど領主としての人気がない人物だったのだろうということが伺い知れた。
そして、そうしたやり取り含め、アンナスが同行していることが様々な意味で役に立った。彼らの文化の一つ一つについての解説を聞き、また、ローマの習慣についてアンナスから伝えさせることができた。彼らの民族の間では、祭司階級は尊敬されている存在らしく、アンナスが同行しているというだけで、様々な交渉が円滑に運んでいるのだろうということが実感できた。
苛立ちを隠せないでいるクレニオの隣で、アンナスは慣れない馬の背に、絶えずこみ上げてくる嘔気をこらえていた。実際、自分自身がこんなに馬に弱いとは思わなかった。しかし、移動にできるだけ時間をかけるというのは初めから考えていたことなので、自分の弱さが図らずも活かされたという形になっていた。以前もシリア総督を経験しているとはいえ、クレニオは武辺一辺倒の軍人のはずである。それがエルサレムに駐屯するというなら、無用な摩擦を避けるためにも、自分たちの信仰のあり方や社会のしきたりについて、できる限り伝えておきたいと思っていた。
大祭司職は長い間、ヘロデ大王と結んだハスモン家に握られてきた。建国の祖、ダビデの下で神殿礼拝の基礎を作り上げたザドクこそ、正統な祭司である。そして、その系譜を継ぐサドカイ派に、大祭司職を取り戻す。それは自分たちの悲願だった。
そのために、これからは自分たちも少しローマに関わりを持ち、その政治的な力を背景にしていかなければならない。何とかつながりを作れないかと模索していた時に、元老院のアピウスという男が手紙を寄越してきた。相当にユダヤのことについて調べているらしいこの男は、アンナスのことも知っていて、領主アルケラオスの不正について、具体的な証拠や証人をそろえるようにと要請してきた。手紙には、協力すれば、大祭司の職を与えよう、とも書かれていた。もしかすれば罠かもしれない。ずいぶん、考えた。しかし今、政治的な力はほとんど持たない自分たちを陥れたところで、誰にとっても何の利点もない。それでなくともアルケラオスの暴政は目に余るものがあり、民の怨嗟は募っている。それで、賭けてみる気になったのである。
果たして、アピウスの申し出は罠ではなかった。もちろん、単なる正義感や親切心とは無縁であることは容易に想像できたが、少なくとも、この件に関してアピウスの誘いに乗ることで開ける道もある。大げさではなく、民族全体の今後がかかっていると言っても過言ではない。そして、そのためにも、武装蜂起による独立を訴えているような過激な連中に、衝突を引き起こす口実を与えるようなことが、あってはならなかった。エルサレム神殿を、二度と汚させるわけにはいかない。その悲壮な思いが今、アンナスを駆り立てていた。
シモンたちが町に戻ってみると、大人たちが総出で、たった今通り過ぎて行ったシリア総督の軍勢について話し合っていた。行軍の途中で小休止をとり、馬に水と飼葉をやっていた幾人かの兵士らから聞いた情報を合わせて、何が起こっているのかを理解しようとしていた。
「アルケラオスはついに追放になったということらしいな。シリア総督がこのあたりに来たということは、エルサレムは誰かが領主の座を継ぐのではなく、またシリア州の一部としてローマの直轄になるということだよな」
「これまでよりはましになるだろうさ。アルケラオスときたら、自分の欲のためにしか動いていなかったからな」
「でも、ローマの直轄ってのは、国じゃなくなってしまうってことだろう、それはそれで大変じゃねえか」
「どっちにしても、俺達にはどうすることもできねえ。ラビがいつも言ってるキリストが来るのを、ただ待つだけだ」
興奮気味に、そう話し合う大人たちの顔には不安と期待がにじんでいた。少年たちはそんな大人たちの、いつになく真剣な雰囲気に呑まれてしまって誰にも尋ねることができず、まるでいたずらを叱られた後のように、しゅんとしてそれぞれの家に一旦帰る他なかった。
その夜、シモンは夢を見た。なんだかよく分からない黒い化け物がすごい勢いで走ってきて、ガリラヤ湖に飛び込んでいく。シモンたちは逃げようとするけれども、その化け物に引きずられるように湖に一緒に落ちてしまう。沈みそうになってもがいているところで、目が覚めた。体中が、汗でぐっしょり濡れていた。
平和な田舎町に暮らす少年たちにとって、シリア総督率いるローマ軍の行進はやはり大きな出来事で、シモンだけでなく、何人もが化け物の出てくる夢を見た。少年たちは顔を合わせるごとに自分が夢で見た化け物の話を披露し合った。それはやがて、大きな角の生えた頭が三つもある、全身が真っ黒な毛におおわれた恐ろしい姿にまとまっていった。そして、そのうわさはいつか、当の本人たちの手を離れて話だけがふくらみ、再び少年たちの耳に入ってきたときには、湖に流れ込む小川の上流に棲みついていて、町で飼っている羊も、羊飼いごと食われてしまった、という怪談に成長してしまっていた。
この手のうわさ話は、少年たちの冒険心をあおらずにはおれない。当然、度胸試しにそれを見に行って、あわよくば退治してしまおう、という計画が持ち上がった。
シモンにとっては、仲間たちのその計画は大変迷惑だった。怖い。体は大きいが、気は小さい。幽霊だとか化け物だといった話は大嫌いだ。だけどそんなことを皆の前で口にすることは絶対にできない。できればそのまま流れてくれることを期待していたが、そんなシモンの期待を知ってか知らずか、計画は具体化され、あれよあれよという間に決行の日が来てしまった。
鍛冶屋のシモンが、
「全員が行く必要はないと思うな。危険だから、怖いと思う者は残った方がいい」
と言った。彼にすれば他意はない。ただ真面目にそう思っただけである。しかし、少年たちにとっては、後には引けないぞという宣告に他ならなかった。ここでうっかり、行かない、などと口にしてしまった日には、町中の少年たちから臆病者という烙印を押されてしまうに違いない。大なり小なり恐ろしさを感じていたはずの少年たちは、こぞって怖いもんか、俺が退治してやるさ、と先を争って参加の意思について表明せざるを得なくなったものである。
かくして、決死の覚悟を決めたベツサイダの少年たちは、一塊になって、川岸を遡って行った。見慣れたガリラヤ湖周辺を行くうちは、まだ良かった。川岸の葦をかき分け、岩を乗り越えていくうちに、大冒険をしているという高揚感に満たされていった彼らは、歌を歌ったり、互いにちょっかいをかけあったりしながら、元気よく歩いて行った。
しかし、辺りが見覚えのない景色に変わるころには、不安がむくむくと湧き上がってきて、やがて冒険心を大きくうわまわってしまった。そうなると歌どころではなく、意気揚々と張り切って歩いていた一同の隊形は、互いの帯を引き寄せ合って一塊の密集隊形になり、すぐに密着集団になっていった。草がなびく音にいちいち仰天して立ち止まり、そこに何者もいないことを確かめるまで、動けないという有様であった。
さらにもう少し進み、大きな岩をよじ登って乗り越えると、少し広くなっている、平らな場所に出た。その時、目の前の葦の茂みの中から、がさがさっと、明らかに何かが近づいてくる音がした。その方角、茂みの奥の方に、角のようなものが何本か見える。もう、限界だった。
「出、出たあっ」
誰かの悲鳴を合図に、少年たちは一斉に逃げ出した。足の速い少年たちは、いい。しかし、小さな子供たちは取り残される形になってしまった。シモンも本当はみんなと一緒に悲鳴を上げて駆け出したかった。しかし、隣にはアンデレがいる。駆けることはできるとは言っても、大きな岩を乗り越えていかなければならない。化け物から逃げ切ることはまず不可能だと思われた。それで彼は、その場に踏みとどまる決心をした。
「だ、だ、大丈夫だ、アンデレ。に、兄ちゃんがやっつけてやるからっ、なっ……」
歯の根が合わない。ひざはがくがく震える。おまけに……股のあたりが生暖かい。小便をちびってしまったようだ。それでもシモンは何とか立っていた。アンデレの後では、同じように、素早く逃げられなかったヨハネと兄のヤコブが抱き合うようにして目をつむって震えている。ヨハネはアンデレより一年だけ年長だったが、やっぱり手前の大きな岩を一気に駆け上がるにはまだ幼過ぎたようだ。
「……あれえ?」
気丈にも一人葦の茂みの方を見ていたアンデレが、首をかしげながら、言った。
「近づいてきてるのに、角だけ、動かないよ?」
えっ? という具合に他の三人の少年たちが茂みの方を見ると、ほぼ同時に小さな鹿が飛び出してきた。
「鹿じゃないか。……あ、角じゃなくて、ただの木の枝だ」
ヤコブが「化け物」の正体に気付いた。
「なあんだあ……」
三人の少年たちは安堵の声をもらした。
「しっしっ、へっへええ」
意味不明の声をもらしながら、シモンはその場に座り込んでしまった。涙と鼻水とよだれで顔はくしゃくしゃになっていたが、アンデレは皆が逃げ去ってしまっても、たった一人化け物の前に立ちはだかろうとした兄のことを、やっぱり兄ちゃんはかっこいいや、と心から思った。
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