第4話 裁定

 この国の民は皆、安息日になるとシナゴーグに集まった。どの町にもそれはあり、誰かが羊皮紙に書かれた、トーラーと呼ばれる律法の書を読み、時にラビが訪れては、教えを説く。何百年もの間、その習慣は受け継がれてきた。

 この国はかつて一度、滅びた。それは律法の教えをないがしろにしていたからだと教えられていた。二度とそのような悲劇に見舞われることのないよう、また、大昔にあって世界に君臨したという王国を再興させる、伝説の救世主キリストを待ち望みながら、こうして集まるようになったのだった。

 シモンとアンデレも、両親に連れられて、安息日を守っていた。ラビの教えは退屈だったが、町中の子供たちも集まってくるので、それはそれで楽しみだった。本当は安息日に走ったりしてはいけないのだが、彼らがそれを守るのはシナゴーグから出てほんの数歩進む間だけである。大人たちも分かっているが、そこは大らかな田舎町のこと、気づかないふりをしながら、大人は大人同士で政治向きの話や漁の話に熱中していた。

 ただ、子供たちも一定以上の年齢になれば、律法を暗唱することが決められている。だから、説教の時間が終わってもしばらくの間は、ラビの指導の下に練習し、進み具合を確認させられる時間があった。シモンはどうにも暗唱が苦手で、いつもラビの手直しを集中的に受けていた。アンデレもその年齢になると、兄をはじめ、年かさの子供たちに交じって、恐ろしくひげの長いラビから、律法についての講義を聞かされた。さすがにまだ四歳になったばかりのアンデレには難しく、ラビの話をぽかんとした表情で聞いていたが、暗唱を始めると、驚くべき記憶力を発揮した。ラビは初め驚き、次に目を細めて、アンデレを見ながら言った。

「お前はなかなか賢いな。しっかり頑張って覚えなさい。すぐに兄さんたちを追い越せるようになるぞ。いや、もう追いついておるかもしれんな」

 アンデレがまだ赤ん坊の頃から暗唱を始めていたはずのシモンは、初めの一巻すら時々詰まってしまうことがあり、ラビの言う通り、じきに追いつかれ、追い越されそうな気がしてちょっと身震いをした。


 子供たちがそうしてラビから律法を教わっている間、彼らの親たちはシナゴーグの入り口の付近になんとなく集まって、この地方の領主たちの動きについての噂を話していた。

 エルサレムの領主であるアルケラオスは、着任早々に大祭司を強引に交替させてしまった。その強引さは、周囲の人間が彼のすることに異を唱えることを困難にさせ、結果彼のやりたい放題という状況を作り出してしまった。領民たちが農地のために引き込んできた水を、自分の個人的な果樹園に引き込ませたり、不当な裁判で財産を取り上げてしまったり、およそ領主としてのまつりごととは言えないような、公私混同ぶりであった。その上、結婚についてもスキャンダラスな話題に事欠かず、民衆の不満と軽蔑を集めていた。それらが限界に達し、その地域の有力者たちがローマ皇帝に彼を糾弾する訴えを起こしたといううわさが届いていた。

「情けない話だな。領主が領民に愛想つかされて、訴えられるとは」

「しかもそんな中で当の本人は、自分が王に即位するんだって申し出たらしいじゃないか。その上、長男に対抗して、次男のわれらがアンティパスも名乗りを上げたって話だ。もう滅茶苦茶だな。ご先祖のダビデ王様が聞いたらお嘆きになるだろうよ」

「まあ、どっちにしても、これ以上悪くはならんさ」

 そんな調子で、旅の商人などの口を通して、こんなガリラヤの片田舎の漁師にさえ、ローマ元老院を悩ませているこの地方の現状は伝わっているのだった。


 朝になり、議員たちが集まってくると、元老院ではまず、本日の議題を募った。マーニウスはいつものようにユダヤ地方の王位継承問題について議論をすべく、挙手をした。先日の話通りだとすれば、アピウスが追随して、かの地に赴任する候補者としてクレニオを推薦し、それまでの議論に決着をつけることになるはずだった。

 ところが、思わぬところから手が挙がり、想定外の論点が浮き上がってきた。ユダヤとサマリヤの有力者たちが複数で、アルケラオスの暴政ぶりを皇帝に直接訴え出たというのである。

「彼らは一体何の権限があって彼ら自身の領主を訴えるのですか。秩序もなにもあったものではない。こんなことが起こるから、かの地は厄介なのだ。やはり、わがローマが余計な労力をかけずに、彼らの問題は彼ら自身に処理させればよい」

 デキムスが続けたが、皇帝に直接訴えが上がったということであれば、放置しておくことはできない。従って、やや勢いはなかった。

「皇帝がどう審判を下されるかですな」

「左様。皇帝への訴えが上がってきたからには元老院で先走って議論をするわけにはゆかぬ。ここは皇帝のご判断を待つしかありますまい」

 大多数の議員が議論の中断に賛同する中で、マーニウスは発言を続けることができなかった。

 皇帝の称号を受けたオクタビアヌスは、当初他の議員と自分は同格であるとして元老院を尊重していたが、その議決を否定することができる権限を持つようになってからは、独裁者として他の議員を圧するようになってきていた。近頃では、皇帝の名が出ると元老院での議論もほとんど進まないようになっている。元老院が何を決めたところで、くつがえされてしまうのでは意味をなさない。皇帝への訴えが上げられたとなれば、その裁定が下されるまでは元老院としては身動きのとりようがなかった。それに、肝心のアピウスも挙手せず、沈黙を守っている。そのまま、やはりこの議題は後日、皇帝の裁定を待ってから、ということになってしまった。

「どういうことだ、アピウス。何故君は挙手もせず、発言もしなかったのだ」

 散会となってすぐに、マーニウスはアピウスを捕まえた。日頃なら議場の外でそのような動きは決してとらなかったが、せっかくの機会を失ってしまったことについては、腹に据えかねていた。アピウスは、それでもむしろ口許に薄く笑みを浮かべさえしながら、泰然としていた。そして、周囲に目を配りながら、マーニウスの耳元にこっそりと驚くべきことを告げた。

「まあ、そう焦るな、マーニウス。色々と調整すべきことがあると言ったではないか。大きな声では言えないが、今日のことはちゃんと把握しているよ。そもそも彼らに、皇帝に訴えるように勧めたのは実はこの私だ。もちろん、善良な助言者としてね。事前に皇帝の耳にも入れてある。数日中に直接彼らを召し出して話をお聞きになるだろう。これは君だけに話すが、アルケラオス本人もローマに上ってきている。彼らが訴えを上げるということを知って、弁明のために来ているのだ。それも私が伝えたからだがね」

 マーニウスは今度こそ驚きを通り越してあきれてしまった。そこまでこの男は画策しているのか。しかし何故アルケラオス本人まで呼び出したのだ。まさか公正を期するため、など考えているわけはあるまい。それを問うと、アピウスはおかしくてたまらない、というようにマーニウスの肩に手をかけながら続けた。

「簡単なことさ。皇帝が裁決をするにも、さすがにアルケラオス本人の弁明は聞かねばならない。何せ一応ローマ市民の権利を持っているのだからな。そうなると時間がかかってしまう。その手間を省くために、どちらも一緒に弁明する機会を用意したのさ。余計な画策をする時間的余裕もなくなるからね。いずれにせよ、これでかの地に総督を送り込む、正当な理由ができたというものだ。なにせ、領主が裁きを受けるのだからな」

 肩にかけられたアピウスの手が、何かまがまがしい者であるかのように感じられた。深くため息をつきながら、その手を払いのけ、マーニウスはその場を大急ぎで離れることにした。これ以上、この男のそばにいたら、自分まで抜き差しならないところに追い込まれかねない。

「私などの及ぶところではないということだな。失敬するよ。なんだか、とても疲れた。公衆浴場にでも立ち寄って、疲れをいやすことにさせてもらおう」

「ああ、それはいい考えだ。そうしてゆったりと吉報を待っていてくれ」

 アピウスの声が背中から追いかけてくる。振り払ったはずの手が、いつまでも肩に乗っているような気がして、マーニウスは何度も肩の埃を払いながら、逃げるようにしてその場を立ち去った。


 結局、アルケラオスの弁明は受け入れられず、訴えられた内容がそのまま認められることになった。訴えを起こした中にはアルケラオスに大祭司職を罷免されたヨアザル本人がいる。甥のアンナスという男が、逼塞しているヨアザルをたきつけて、直訴のために同行してきたのだ。それに灌漑用水を引き込む工事を実際に担当した職人や不正な裁判の記録係など、地方の有力者だけではなく、具体的な証人までいたので、申し開きの仕様がなかったのである。

 先王ヘロデの政治力を評価していたオクタビアヌス帝は、その才を受け継ぐ部分の一切見られない長子について、皇帝の代理人として民を正しく治められなかったという理由で彼を有罪とし、流刑を言い渡した。

 アルケラオスはなおも申し開きをしようと口を開きかけたが、皇帝がくれた一瞥は冷たく、あからさまな蔑みと嫌悪の情が宿っていた。

「この上は潔く罪を認めよ。それとも、余が与えた一命をあえて投げ出さんとするか。これでも、今は亡きそなたの父王に対する友誼を込めた判決のつもりなのだがな。死を望むというならば、聞き届けなくもないが」

 さすがにアルケラオスの口は半ば開かれたまま、閉じることもそれ以上動かすこともできず、両脇を衛兵に抱えられながら、舞台そのものから退場せざるを得なくなった。


 アピウスの屋敷は壮麗だったが、マーニウスの趣味には合わなかった。執政官まで務めた人物の屋敷を皇帝から下賜されたもので、その人物を追い落としたのもアピウスだといううわさがあった。

 クレニオのシリア総督再任が正式に決まり、その出発を祝って開かれた宴には、元老院の過半数はいるのではないかと思われるほどの人数が集まっていた。マーニウス自身も、クレニオをシリア総督としてユダヤに送るという案に賛成の票を投じているので、断るわけにもいかず、十五才になる息子を伴って仕方なくこの宴に出席していた。

「マーニウス、元老院での君の助力に心から感謝するよ。かの地の混乱を治め、人心を安からしめてこそローマの威光は世界に輝くのではないか、とね。いや、あの名演説には心が震えたものだ。私の提案など、議場では手続きに過ぎなかったものだ。ああ、きちんと紹介をできていなかったな。彼がクレニオ、この度、我々の懸案事項であったユダヤ地方の統治の問題を解決してくれる英雄だ」

「アピウス殿からご高名はお伺いしております。クレニオと申します」

 差し出された手はたくましく、いかにも歴戦の勇士のそれであり、質朴な軍人の飾らない言葉とまっすぐな瞳に、マーニウスは束の間惹きこまれるような気がした。

「これはクレニオ殿。光栄です。ここにおりますのはわが息子で、ピラトと申します。ようやく十五才になりました。後学のためにと、厚かましくも連れてまいりました。英雄にお目にかかることができて、連れてまいった甲斐があったというものです」

「過ぎたお言葉を。私など退役目前の老骨です」

 クレニオは深いしわの刻まれた顔をピラト少年に向けた。

「ピラトか。よい目をしている。いつか君のような若者に活躍してもらえるように、かの地の地ならしをしてこよう。将来のことは頼んだぞ」

 そう言ってクレニオは、どちらかというと華奢な少年の肩をがっしりとつかんだ。父に似て、学問については才能を見せ始めているものの、体を使う事はあまり得意でも好きでもない少年は、シリア総督などにさせられてはたまらないと思いながら、応じた笑顔をひきつらせるのだった。

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