第3話 元老院

 ローマの元老院では、このところ、ユダヤに関する議題が頻繁に取り上げられていた。この地方は、ヘロデを王に任じてシリア州から独立させた形になってはいたが、そのヘロデの死後、かの土地を分割統治することになった三人の息子たちが、そろってヘロデの当時のようには税金を集めきることができないでいた。

 元来、この地方から上がってくる税は他の地域と比べて高額という訳ではなかったが、それにしても半額近くに下がっているのは問題だった。現地で徴税人を立てて集めさせるという仕組みは全く変わっていないにも関わらず、税が上がってこないというのは、ローマ帝国の権威が失墜していることを示している。そして恐らくその原因は、彼ら三人の為政者たちが民衆から重んじられておらず、背後にローマ帝国があるということを、想像させないでいるからだと思われた。

 この地方はローマ帝国の版図の中で東の端に位置しており、それよりも東の諸国及び南のエジプトに対しての、軍事的な拠点としての意味が大きかった。だから税の徴収以上に、ローマ帝国の権威が行き渡っていなければ、いざという時に軍を動かすことが難しくなってしまう。これは深刻な問題だった。

 しかし、自らの領地を満足に治めることもできていない状況にも関わらず、事もあろうに長男のアルケラオスが王になる承認を求めてきていた。しかも、これに対抗して次男のアンティパスもまた、自分こそ王にふさわしいと申し出てきた。元老院はその扱いを巡ってさらに議論を続けざるを得なくなった。

「統治能力の有無を見極めるという前提で分割統治を認めてきたが、税の集まり方一つを取っても、一向に成果が見えぬばかりか悪化すらしている。こんな状況で、しかも二人が対抗して名乗りを上げてくるなど、愚かにもほどがある。この際、彼らをすべて罷免して、かつてのように直轄領にしてしまうべきではないか。いつまでもこんないい加減なことを許したままでは、わがローマの権威が損なわれるというものだ」

 マーニウスはこの件に関しては最も強硬派であった。そもそも征服をしたはずの地方に王位を認めるなど、意味がないではないか。ヘロデはうまく立ち回ることで元老院の許可を引き出したらしいが、それももう四十年以上前の話だ。ヘロデその人がいなくなったのだから、彼らからユダヤを取り戻すのは今が良い機会ではないかと信じている。マーニウスがそうした強硬論を口にすると、決まって慎重な意見を出してくるのはデキムスだった。

「あの土地は古来色んな国が占領し、支配してきたが、しつこく反乱を繰り返しておる。武力も金も大して持たぬくせに、なかなかまつろわぬ厄介な土地柄だ。そのくせ、莫大な利が上がるかと言えばたいしたものはない。労多くして、というやつだ。わがローマには他に力を注ぐべき土地があるだろう。あんな辺境の土地は適当に手なずけておいて、盾にならせたらいいのだ」

 マーニウスにとって分の悪いことに、このデキムスの意見に同意する議員が元老院では最も多い。それに、だれも砂漠が多いあの土地にわざわざ出向いて行こうとはしたがらなかったので、余計に強硬論は具体性も説得力も持てずにいた。

しかし、ヘロデを信任し、なかば面白がっていた皇帝も、ヘロデ自身が死んだあとはさして関心を持たなくなった様子で、今のところ、はっきりとした結論を出そうとしていない。それがこの議論が延々と続けられていて、結論の出ない理由に拍車をかけていた。そして、当然ながらこの地方の問題だけに関わっているわけにもいかないという事情もあるため、いつもこのあたりで議論は打ち切られ、後日また、ということで流れてしまっていた。

「全く、こんなことをいつまで続けるのだ。ヘロデが死んで十年が経ってしまうではないか。このままだと、他の属州に対してしめしがつかぬ」

 マーニウスは、元老院での議論が一向に前に進まないことに対するいらだちを募らせていた。他の仲間から貴族専用の浴場に誘われたが、そんな気にもなれずに自邸に戻ってきた。家の女奴隷が着替えを手伝おうと手を出してきたが、振り払い、しばらく離れているように命じてそのままバルコニーに出た。こんな気分の時には誰にも触れられたくなかった。酒でも呑もうか。そう思って声をかけようとしたが、自分自身が人払いをしたために、近くには誰もおらず、改めて呼び出すことも疎ましく感じたので、それもあきらめて、庭をぼんやりと眺めていた。

「ご主人様。アピウス様がお越しです」

 さきほど追い払った女奴隷が、遠慮がちに声をかけてきた。アピウスはよく知恵の回る男で、ユダヤの件についても自分と近い考えを持っていたが、個人的にはあまり好ましいとは感じておらず、それでなくとも交友関係の少ないマーニウスにとっては元老院の外で会いたいとは思えない相手だった。しかし、わざわざ訪ねてきたものを追い返すわけにはいかない。仕方なく、そのままここへ通すように命じ、ついでにぶどう酒も持ってくるようにと付け加えた。

「ごきげんようマーニウス。クイントスに尋ねたら、浴場にも行かずに家に戻ったと聞いてね。お邪魔だったかね」

 にこやかに差し出されたアピウスの右手を握り返して、一応の挨拶を交わした。この男は一見温和な人となりで誰にでも好意を持たれる。しかしその笑顔の裏側では常に巧緻な計算をしていて、気が付けば周りの人間は見事に利用されている。それに比べてマーニウスはその生真面目な性格が表情にも出ていて、いつも眉間にしわが入っている。その上、冗談や世間話の類を口にすることは殆どなく、常に深刻な話題ばかり、用意している。駆け引きをしたり策を巡らせたりすることは苦手で、そもそもそうしようと考えたこともない。いつも正論を真っ向から述べるだけなので、敬意を払われることは多くても、好意を向けられることは少なく、その境遇はマーニウス自身の特徴をより助長しているのだった。

「珍しいではないか、アピウス。君が私の私邸を訪ねてくれるとは。一体何があったのかね。君のところの奴隷が宝石でも生んだか」

 マーニウスにすれば精一杯の冗談のつもりだったが、アピウスには全く通じなかったらしい。むしろ一瞬笑顔を凍らせたがすぐに気を取り直し、

「元老院での君のご卓見、いつも感心しながら聞かせていただいているよ、マーニウス。実は私も、ユダヤの問題に関しては、元老院がもう少しわがローマ帝国の威厳を示さねばならんと思っているのだ」

 と少々わざとらしく、困ったものだという表情を作って言った。マーニウスはこの男のこういう所が好きになれない。しかし、意味もなくわざわざこんな話をしに来る男でもない。何を企んでいるのか。その腹を探りながら、運ばれてきたぶどう酒をアピウスにも勧めた。

「せっかく来たのだ。いきなり厄介な話を持ち出すのも無粋ではないか。まあぶどう酒でも呑もうではないか。何か果物も持って来させよう」

 不用意に口を開けばどんな言質をとられないとも限らない。この男がどういうつもりで来たのかをまず見極めなくては。

「そう警戒するな、マーニウス。言っただろう。私はユダヤの問題に関しては、君と考えが近い。やり込めて強硬論を封じるなどと考えて来たのではないから、安心してくれたまえ」

 アピウスはずばずばと切り込んでくる。生真面目なマーニウスはこういう駆け引きにはてんで向いていなかった。早々に腹の探り合いはあきらめて、単刀直入に尋ねることにした。

「君と駆け引きをしても太刀打ちできないことは良く分かっている。では私の方も余計な詮索はよしにして、率直に尋ねよう。一体何のためにここへ来たのかね。目的もなくわざわざ私などの家を訪ねてくる君ではなかろう」

「なんだかひどい言われようだが、まあいい。君はヘロデの息子たちを罷免して、かの地を再び直轄領にすることを主張していたと思うが、間違いないかね」

「いかにも」

「では、直轄領にするとして、一体誰がかの地に向かうと考えているのかね」

 いまさら何を持ちだすかと思えば。マーニウスは少々うんざりしながら答えた。

「それが決まらないからこういう事態になっているのではないか。彼らが反乱の常習犯であって、極めて治めにくい土地であるという事実は誰もがよく分かっていることだからな。そんなことを言いだすからには君に妙案があるのか。それとも君自身が赴こうというのか」

 アピウスは、マーニウスから目をそらして、庭の方を見やった。

「いい庭ではないか。こういう庭が作れるのはローマの気候がそれに適しているからだな。私はそういうローマの気候が性に合っている。とてもユダヤで生きていけるとは思わん。……しかし、そういうことができる者もいる」

「できる者もいる、と言ったのか。一体誰のことを指しているのだ」

 マーニウスは思わず身を乗り出した。具体的な候補者がいるなら、話の進め方は全く異なってくる。誰かが自ら名乗り出てかの地に向かいたいと言えば、反対する理由はない。うまく行くなら問題はないわけだし、失敗してもその者が責任を問われるだけのことだから、元老院の意見もまとまりやすくなる。皇帝とて、反対はすまい。

「まあ、そうあわてるな。しかし、私に心当たりがなくもないのだ。実は最近、私のいとこの娘が結婚してね。その婿殿が、まあ、年はそれなりに離れてはいるんだが、大変優秀な男なんだ」

 マーニウスも聞いたことがある。アピウスのいとこというのは貴族ではあるが大人しい男で、その娘の結婚についてアピウスがかなり強引に進めさせた話だとか。相手は確かにずいぶんと年上だったので、アピウスに何らかの思惑があるのでは、と皆が噂をしていた。あれは誰だったか。確か……

「思い出した。クレニオだ。歴戦の勇者として名高い。ああそうか、そういえば彼はシリア総督をしていた時期もあったな」

「その通り。クレニオはシリア総督としてかの地に何年かいた。人口調査に反発して起こった暴動を見事に収めて、軍功を立てて戻って来てから、要職を歴任しておる。かの地の風土にも明るいし、実際に何年も過ごしていた経験もある」

 そういうことか。マーニウスはアピウスの考えを理解した。自分の身内、それも恐らくは意図的に身内にした男を推薦することで、元老院の中でずいぶんと優位に立てる。うまくいってユダヤ地方に自分の一族の影響力を持てれば、その利益は計り知れない。しかもその議題そのものをアピウスが主導すれば、クレニオに恩を売ることにもなる。有力な将軍を自分の影響下に置くことができるというわけである。仮にうまくいかなくても直接の被害はない。議場での論戦だけで物事を進めようとしている自分には到底真似のできないことである。

 わざわざ訪ねてきて手の内をさらすからには、マーニウスに支持に回ることを求めている。間違っても他の候補者を立ててきたりしないように、という根回しだろう。アピウスの政治力に完全に巻き込まれようとしていることに気付きながらも、他に選択肢はないということを、マーニウスは認めざるを得なかった。

「君の言いたかったことはおおよそ分かった。どうやら反対の余地はなさそうだ。この件に関して、誰がかの地を治めようと私には何の異論も利害もない。君の発言を支持すると約束しよう。しかし、税が充分に上がっていないという理由だけで、いきなり乗り込む訳にもいくまい。代役を立てるくらいなら問題はないだろうが、クレニオが赴くということはかの地の自治権を再び取り上げるということだ。何か理由がなければ軍を動かすこともできないぞ」

 マーニウスは自身が頭を痛めていた部分についてもこの際、アピウスの手並みを見てみようという気になった。

「その点は心配ない。私に任せておいてくれ。君の賛同が得られると分かって安心したよ。そうと決まれば色々と調整すべきこともあるので、これで失礼するよ。明日、元老院でお会いしよう」

 アピウスは持っていた杯を干して、退出していった。わずかな時間でしかなかったはずだが、マーニウスにはずいぶん長い時間に感じられた。疲労感が湧き上がってくる。断って帰ってきたのだが、改めて公衆浴場に出かけることにした。まとわりついている何かを洗い流して、すっきりしたい。そう思った。

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