第2話 誕生
「まだかなあ」
シモンは、戸口に座り込んで、拾ってきた木の枝で地面を掘っていた。もっとも、本人としては絵を描こうとしているのだが、うまく形にはならないので、結果として単に溝を穿っているだけということになってしまっている。昨日の晩、母ちゃんが急に苦しみだした。だけどシモンには分かっている。あれは病気じゃない。赤ん坊が生まれるときにはみんな、あんなふうに苦しむものだ。マルコのところで子羊が生まれるところを見たことがある。それに、母ちゃんが大きな腹をさすりながら、この中にはお前の弟か妹がいるんだ。お前ももうすぐ兄ちゃんになるんだよ、と言っていた。
大人たちは皆忙しそうだった。シモンはまだ三歳なので、手伝えることはないらしい。でももう三歳なので、誰も構ってはくれない。兄ちゃんになるのだから、大人しく待っていなければならない。ちょっとくらい寂しくても、平気だ。それにしても、母ちゃんの苦しそうな声はいつまでも変わらない。
「まだかなあ」
何度目かのつぶやきを口にした。
やがてシモンが待ちくたびれて、そのままうとうとと夢見心地になったころ、母ちゃんのうめく声と大人たちのざわめく声に混じって、聞きなれない声が耳に届いた。赤ん坊の泣き声だ。
シモンは跳ね上がって、家の中に駆け込んだ。そして、木の枝を持ったままだったことに気付き、大人たちに見とがめられる前に一旦外に出て枝をそっと戸口の横に置き、今度こそ母ちゃんがいる場所に向かった。
近寄ると赤ん坊の泣き声はいよいよ大きく響いていたが、大人たちがたくさん立っているために、まるで様子が分からない。シモンは一生懸命伸び上がったり飛び上がったりしてみたが、もちろん、届くはずもない。
「見えないなあ」
指を口に持っていこうとしたとき、大きなごつい手にがっちりとつかまれ、抱き上げられた。父ちゃんだ。小さなシモンの目線はたちまち大人たちの肩より上に躍り出た。
母ちゃんが汗びっしょりで横たわっているのが見えた。その横に、布にくるまれた赤ん坊が寝かされ、元気よく泣いている。マルコのところのばあちゃんが、目を細くして話しかけながら赤ん坊の顔のあたりを拭いていたが、くりくりの髪の毛はまだぬらぬらと濡れている。シモンは赤ん坊を見て、つぶやいた。
「ちっこいなあ……」
子羊よりも子ヤギよりも、ずっと小さい。
「お前の弟だ。アンデレと名付けた。兄ちゃんがしっかり守ってやらなくちゃ、だめだぞ」
と父ちゃんがシモンの頭をがしがしと撫でながら言った。
「そうだ。俺が守ってやらなくちゃ。だってこの子は、こんなにちっこいんだもの」
シモンはその小さな弟を見つめながら、守ってやるんだ、と決めた。
ヘロデ大王の死から六年が経っていた。後継は決められず、三人の息子たちが、ユダヤを分割統治していた。それは、何百年かぶりのこの国の王位を守るために、ふさわしい者を見極めてから決めさせるという、周到で慎重な遺言に基づくことではあった。ヘロデ自身が手を尽くしてようやくローマ皇帝から認められ、四十年あまりの間守ってきた王位だった。しかし、その息子たちは、大王の狙い通りには、それにふさわしい能力を示せないでいた。それで、大昔から王国の都が置かれていたというエルサレムを含むユダヤ地方は、長男のアルケラオスが引き継ぎ、次男のアンティパスがガリラヤの地方を、そしてガリラヤ東岸の地方は三男のピリポがそれぞれ引き継いだ。
為政者たちのそんな動きをよそに、ガリラヤ湖は大王の在世時となんら変わるところはない。そして、そのガリラヤ湖で漁師をしているヨナたちの暮らしも、変わることはない。
ヨナは漁師仲間のゼベダイとガリラヤ湖の岸辺で網を洗っていた。
「まったくよ、跡継ぎひとつ決められないなんざ、ばかばかしい話だなあ。王宮てのは、賢い人間の集まりなんだと思ってたんだけどなあ。俺んところなんかは下のガキが生まれたばっかだけど、シモンが跡継ぐって決まってるぜ」
「まあ、お前んところは跡継ぎっても、このぼろ舟がひとつだけだろう。俺ん家ももちろん同じだ。俺たちと比べたら王家の引き継ぐものは、色々あってややこしいんだろうよ。まあ、おかげで少しは楽になったけどな」
ゼベダイは見つけた網の破れ目をつまみあげ、愉快そうに笑いながら言った。二人ともこの町で生まれ育ち、代々続く漁師を家業として受け継いで暮らしてきた。代々続いた、といっても何らかの財が蓄えられているわけではなく、舟と網の他には、わずかな家畜を郊外の羊飼いたちに任せてあるくらいである。
ガリラヤ湖は彼らが暮らしていけるだけの魚を十分に与えてはくれるが、ローマ帝国の力を背景にこの地方を支配するヘロデ家が、その半分を税として取り上げてしまう。ことに、ヘロデがローマ元老院から何百年ぶりにユダヤの王と認められた後は、カイザリヤと呼ばれる町の建築をはじめ、ローマに気に入られようとしていくつもの事業に莫大な費用を遣い、これを捻出するために税負担は厳しくなった。
しかし、アンティパスがこの地方を治めるようになってからは、やや、事情が変わってきていた。ヘロデ大王の三人の息子たちは、いい意味でも悪い意味でも、彼らの父親のようにはユダヤ王国について考えなかった。同じように散財しようとしたが、それは政治的な野心を持ってではなく、単に彼らの射幸心を満足させたいがためだけのことであった。とりわけ、アンティパスはその三人の中でも最も派手であった。身につける物や音楽や踊りなどに特に強い関心を示した。畢竟、その方面で散財をしたが、ヘロデ大王のような、町や神殿や王宮の建築などという大事業に比べれば、たかが知れている。そしてその内容についても、するどい審美眼を持っているというよりは、ローマへの阿りも多分に含まれているという愚かしさを、民衆は皆知っていた。徴税人たちがいくら威張ろうとしたところで、その権威の源が軽蔑されていたために、通用しなくなった。税が安くなったわけではなかったが、なかば黙殺することで、実際に搾取される額は減っていたのである。
「だけどよお、大王なんて呼ばれているけど、結局ローマのご機嫌取りが上手かっただけだろう。要するに怖がりだったんだな」
「だからあんなことを、しちまうんだろうよ」
ゼベダイが、眉をひそめて言った。
「あんなこと?」
「なんでえ、知らねえのか。ほら、ベツレヘムでよ、男の赤ん坊を皆殺しにさせてしまったって事件だよ」
そのことならばヨナもよく知っている。預言されてきたユダヤ人の王様が生まれたという話を聞いて、自分の地位が危ないと感じたヘロデ大王が、町中の二歳にならない男の子を根こそぎ殺させたといううわさだった。
「ああ、あれあ、ひどい話だったなあ。ユダヤ人の王様って、キリストのことだろう」
「そうさ、昔の偉い預言者様が皆言っていたんだ。子供たちを殺させた後、ヘロデ大王はずいぶん惑乱していたらしいな。そりゃあそうだろう、あんなことをさせておいて、何にも感じないとしたら、人じゃねえよ」
言いながら、ゼベダイは網の破れたところを器用につくろい終えた。
「今のヘロデ家にろくな跡取りがいないってのも含めて、天罰だって話だけどな」
シモンの目に映るアンデレの姿はいつも新鮮で面白かった。まだ寝返りもできないのに、常に手足をじたばたと動かしている。動いているかと思うと、ふいに止まってすやすや寝入っている。母ちゃんのおっぱいを口に含んだままで、力尽きて眠ってしまうことも度々だった。シモンは飽きもせずに日がな一日、アンデレの様子を眺めていた。もっともおっぱいだけはシモンも少しうらやましくて、そんなアンデレのことを見ながら自分の指をくわえてみたりもしていた。それを見た母ちゃんに一度、お前も呑んでみるかいと言われ、口にしてみたことがあった。けれども思っていたような甘いものではなかったので、すぐに離してしまった。
「おかしいなあ……ついこの間まで俺も呑んでたはずなんだけど、ちょっとの間にずいぶん味が変わってしまったなあ。おっぱいの味は子供によって変わるのかなあ」
などと考えたりもした。
はじめてアンデレを抱っこした時のことは、シモンにとって忘れがたい思い出になった。
「お前も抱っこしてみるかい」
母ちゃんからそう言われたシモンは、力一杯うなずいた。
「手を、こう伸ばしてごらん」
と言われるままに差し出した腕の上に、母ちゃんがそっとアンデレを乗せてくれた。おっぱいを呑み終わって機嫌の良かったアンデレは、大人しくシモンの腕の中に収まった。
その体は、想像していたよりもずっと軽くて、温くて、やわらかだった。
「どうだい」
母ちゃんがやさしく尋ねる。
「やわらかくて、あったかいな。それに、思っていたよりずっと軽いや」
シモンは、揺らしたり落っことしたりしないように、体中に力を入れて、注意深く見守っていた。
「そんなに力入れてなくても、大丈夫だよ」
母ちゃんが目を細くしてシモンの背中をさすった。それだけでシモンは少し安心し、改めてアンデレを見た。その時、シモンの腕から懐にかけて、アンデレの体の温かさとはまた違う、生暖かさが広がっていった。どうやら、おしっこをしたようだ。
「えうわわあい」
びっくりしたシモンは悲鳴を上げた。母ちゃんはその様子を見て、腹を抱えて笑い出した。そして、アンデレもシモンのことを見上げて、溶けるような笑顔で、にっこりと笑った。
よちよちと歩きだし、乳離れするころになると、アンデレはシモンの後を、どこに行くにもついてくるようになった。小さな体の中でどんなことを考えているのかはよく分からなかったが、大抵は一人でおしゃべりをしながら、両手を上げたり下げたり、うなずいたりいやいやをしたりで、常に動いているように思えた。
しかし、シモンが移動をすると必ずそれらの動きは中断し、追いかけて来るのだった。シモンはそんなアンデレを心から可愛いと思っていたし、だからいつもアンデレのことを気にかけながら遊んでいた。時折、思う存分に駆け回りたくなることがあったが、ついて来られないと知るとアンデレは火が付いたように泣くので、シモンなりにそれは我慢し、アンデレがすやすやと昼寝をしているのを見計らっては駆けだすようにしていた。
兄の後をついて回っていたからだろうか、アンデレは三歳になるころには結構しっかりしていた。地面に、いびつながら丸や三角を描くことができるようになっていたし、おしゃべりもしっかりするようになっていた。持って生まれた性格だからだろうか、ものの取り合いなどをすると決して引かず、かえって三歳年長のシモンを泣かせてしまうことも少なからずあった。しかし基本的にはシモンのことが大好きで、兄ちゃん、兄ちゃんと言ってはついて回ることを止めなかった。
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