お前を岩と呼ぶことにしよう

十森克彦

第1話 プロローグ ~ピリポ・カイザリヤ~

 ヘルモン山の山頂付近の雪解け水が、いくつもの小さな細い流れになってこの泉に注ぎ込み、ここで一つになって、ヨルダン川に続いている。ピリポ・カイザリヤと呼ばれるこの一帯には、泉の水を慕って緑が生い茂り、美しい風景が作り出されていた。

 ヨルダン川沿いを遡るように旅してきた一行は、泉のほとりで休息をとることにした。まだ冷気を失わない水で渇いたのどを潤す者、汗とほこりにまみれた顔を洗う者、泉のほとりにしゃがみこんで、鳥のさえずりや水の音に耳を澄ます者等、それぞれに旅の疲れをいやしている。

 さすがにこのあたりまでついてくる群衆はおらず、久しぶりに落ち着いた時間をここ数日は過ごすことができていた。これまでにも、群衆を離れて彼らだけで過ごす時間を持つことはあったが、大抵は荒野や舟の上であって、このように心安らぐ場所ではあまり経験がなかった。そもそも、彼らの多くはガリラヤ湖の周辺で暮らしてきたので、神殿のあるエルサレムの方面ならまだしも、それとは反対になる北方の、この辺りにまで足を伸ばしてきたことのある者からして、ほとんどいなかった。

水際の岩に腰かけて、遥かなヘルモン山の頂をしばし見上げていた師が、皆の方を静かに振り返り、

「人々はわたしのことを誰だと言っているか」

 と尋ねた。弟子たちは師が口を開いたので、それぞれに過ごしていた休息を一旦中止して、その周囲に集まって来た。そして口々に、

「洗礼者ヨハネの再来だ、という者があります」

「ある人が、かの預言者エリヤが来たのだと言っていました」

「私は、預言者エレミヤだと言っているのを聞いたことがあります」

 などと答えた。師はいつもそうしているように、発言する弟子たち一人一人の顔を微笑みながら見つめ、聴いていた。そして、やがてそれら弟子たちの発言が一通り終わるのを待って、慈しむように一同の顔を見回し、再び尋ねた。

「では、お前たちはわたしを誰だと言うか」

 束の間、沈黙が一同を包んだ。それぞれの胸中にある答えは恐らく一致している。しかし、それを口にすることにはためらいがあった。耳にしてきた噂について、競うように張り切って報告し合った彼らだったが、自らの思うところを求められ、言葉に詰まってしまった。

 皆が、それぞれに口ごもるばかりという中で、アンデレがそっとシモンの背を押した。こういう時には、この兄こそが真っ先に答えるべきであると、アンデレは信じていた。そして一同は、実直なアンデレがそのようにして推すシモンのことを、暗黙の裡に認めていた。

 シモンはそんな弟の思いをしっかりと受け止めながら、進み出て、口を開いた。 

「あなたこそ」

 全員の目線が、シモンに集まる。

「あなたこそ、救世主キリストです」

 弟子たちは皆、そうであって欲しいと願ってきたし、信じてきた。しかし、その言葉は容易に口に出せるものではなかった。それは他のどんな呼称とも異なり、決定的な、そして絶対的な意味を持っていた。彼らの民族が何百年もの間待ち望んできた存在であり、世界そのものを一変させてしまうほどの、重いものである。律法を教えるラビたちに聞かれれば、それだけで冒涜の罪に問われることが間違いなく、発言は命がけのものになると言っても過言ではない。

 この三年半の間、旅から旅の宣教活動に従ってきて、様々な体験をした。師が病をいやし、悪霊を追い出し、嵐を鎮めたかと思えば死者をもよみがえらせるという奇跡の数々を目の当たりにした。何よりもこの師の、汲めども尽きることのない泉のような、限りなく深い慈愛と包容力を、つぶさに見てきた。ある時には罪深い女と蔑まれていた者に身をかがめて語りかけ、憎まれ者の徴税人の家に客となった。また、全身がただれた重い皮膚病の者に触れ、膿にまみれ、臭気のただようその体を抱きしめるようにしていやしを与えたこともあった。

 それらのことを一つ一つ脳裏に呼び起こしながら、シモンは答えたのである。それは、この師に自らの全てをかける、と宣言したに等しかった。事実、その覚悟はとっくに決めていた。他の誰が逃げ出したとしても、自分だけはこの師についていくのだ。ついに言った。後悔はない。むしろ、なにか重大な儀式を終えたような、神聖な気分がシモンを包みこんだ。

 一同は水を打ったように静まった。師はシモンのことをじっと見つめ、小さくうなずいた。それから少しだけ力を込めて、シモンに告げた。

「ヨナの子、シモン。天の父がこのことを示されたのだ。では、わたしもお前を岩と呼ぶことにしよう。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てる。よみの門もこれには打ち勝たない」

 シモンは、師が自らの告白を正面から受けとめてくれたのだと知った。この時の光景を、後に文字通りキリスト教会の礎の岩となったシモン・ペテロは、その生涯を通して忘れることがなかった。

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