アジール・キッチン
ふわふわたまごとぷりぷり海老のチリソース炒め
千歳視点より。
ひと月に一回の二人暮らしのお話です。
__________________________________
るぶけー...ヴェルミールブケッタ、が、たべたい、かなあ。
夕食のリクエストを訊ねたとき、机の上にくたあっとのびながらそう告げた梓苑に、千歳は目を見張った。ルブケッタ、は、彼女の故郷の言葉で海老を指す。生まれ故郷が海の近くであり、何か理由があってこの街へと引っ越してきた彼女は、海のものを食したいと告げることはほとんどない。もうあそこにはかえれないから、とわらった彼女が故郷の味を欲しがるのはーーとても疲れているときか、なにかに傷ついたときだと、千歳は知っていた。どちらも綺麗に隠してしまうのに、時々綻んで見せてくれるようになったことがうれしくて、でもそれは自分がそばにいれない間に彼女が傷ついているということで、その事実が悔しくもあるけれど。
でも仕方のないことーーお互いにお互いの事情が、そして自分には彼女に明かしていない秘密もあったので。そしてそれは彼女にも言えることだった。いまこうやって月に数日一緒に暮らせるだけで、充分すぎるほど恵まれているとふたりともが知っている。
「食べたことがないのですが...どういう味付けなんです?」
「ん?食べたことないよ?」
え、と思わず聞き返すと、ええ、と頷かれる。
「ないんですか」
「ないです」
「と、特徴は」
「なんか赤かったきがする」
「あかい」
「とろっとしてた」
「とろっと...?」
「気がする」
「きがする」
これは久々に難題が来たぞ、と頭を抱える千歳の横で、まだ机に突っ伏したまま梓苑が若干申し訳なさそうな顔をしている。その表情を伺いみれば、なんで言っちゃったかなあ、と若干後悔しているような微妙な顔つきだった。
「べつの、ものでも。千歳のごはんはなんでも美味しいし」
そういって視線をそらす彼女に、そっと手を伸ばしてその頭を撫でる。偶にしか会えないのだから、そのあいだは出来得るかぎり甘やかすと決めているのだから。気にしないでほしい、とそんな想いも込めて掌を滑らして頬へ、もう片方の掌と合わせて軽く頬を揉みこんで。
「食べたいものを美味しく食べるのが一番良いから。大丈夫です、でもちょっと買い出しに時間かかるかも。伊終さんのところに寄ってきますね」
昨晩はすこし無理をさせたのもあって、彼女の頬から伝わる温度はまだほんのりと高めだった。一緒に行く、と言って聞かないのを言いくるめて、最後は実力行使で布団の中に押し込む。なんだかんだ寝転がるとその瞳を眠気に蕩けさせる彼女にそっと自分のカーディガンを渡すといそいそと腕の中に抱き込むのが愛おしい。
「気をつけて、おはようおかえり」
「うん、いってきます」
額に口づけをひとつ落として、目を瞑った彼女の寝息が落ち着くまでそっと見守っていると、数分後にはゆったりとした呼吸になっていたから、もう一度唇を落としてそっとそばを離れた。かわりに彼女のショールを借りることにして、手早く身支度を整えて戸締りを確認してから、まずは市が賑わっているであろう街の中央へ向かうことにした。
何はともあれ、海老を手に入れなくては話が進まないため、市の中でも北の区域へと向かう。北区域は建物の屋根がすこしせり出している屋台が多く、海産物などはここに集まることが多い。ちょうど昼網が上がったようで、どの店も澄んだ目の魚たちを氷屑の上に並べていた。あまり馴染みの店はなかったけれど、一店舗ずつ丁寧に覗いていくと、いくつかの店舗で少し溶けかけの氷におおきな黒々とした海老がぎっしりと呻いているのを見かける。彼女のいった料理はきっと火を使うものだから、出来れば大きいものが好ましい。好ましいのだけれど、片手くらいの大きさがあるものはできれば遠慮したかった。わさわさ動く彼らの足は、いっとう苦手なものを思い起こさせるので。
自分で扱え、かつ大きめのものを扱っている店主に挨拶と共に声をかけると、気前のいい声で返事をしてくれる。
「どれくらい保ちます?」
「獲れたてだ、そりゃあ保つには保つけどよ。新鮮なうちっつーと少なくとも氷が溶けん間かな。それまでに〆た方がいい」
「そうですよね...どうしようかな」
今すぐ購入すると、この後周るところがある間に氷が溶けてしまうだろう。かといって他の買出しを終わらせてからもう一度この店を訪れたとしても海老が手に入るかは微妙なところで。あまりにこちらが思い悩んでいるのを見兼ねたのか、店主は遠くから来てんのかい、と訊ねてくる。
「ええ、少し外れから。この後少し寄るところがあって」
「そうかい、待っててやれたらいいんだがなあ...俺も品が捌けたらはよ帰らにゃならん。すまんな、兄ちゃん」
「いえいえ、こちらの都合ですし...というか店頭で悩んですみません」
いいってことよ、と笑い飛ばしてくれる店主にもう一度礼を言いつつ今後の予定を組み立てようとするけれど、中々上手くいかない。家に一度帰るというのも手ではあるけれど、きっと彼女は起きて今度こそ一緒に行くというだろう。家にある食材のみで副菜を作れたならまだぎりぎり持ち帰ることができるかもしれないが、主菜の味付けもわからずに副菜を定めるのは出来れば遠慮したい、云々。
ぐるぐる考えていて注意力散漫になっていたのか、背後であとろうともいつもなら気付く距離に人が立っていることに気が付かなかった。
「さあてと、そのお困りの御兄さん。助けてしんぜよう」
千歳にしか聞こえないだろう小さな声でそう告げて、店主の前へと進み出た男性は、その目を伏せたまま先程よりもゆったりとした声音で、こんにちは、と話しかけた。ふたりは顔見知りのようで、海の様子などの話が弾んでいる。
「今日のおすすめはなんでしょう」
「そうだな、今日は大きいのより細いのがいい。鯵と海老がさっき揚がったばっかりだ」
「そうですか...では鯵をいただけますか」
「おうよ、いつもありがとなあ」
「こちらこそ」
そういって男性が持っていた竹の籠を開けると、其処にはすっぽりと収まるように透明の器が入っていた。その片方に水ごと小魚が入れられると彼らは一瞬驚いた素振りを見せたもののその中でゆうるりと泳ぎはじめている。
なるほど、そういう器を持ってくればいいのか、と思いながら彼らの会話を少し離れて見守っていれば、勘定を済ませた彼がそのままもうひとつの籠を差し出して、彼の分も入れてください、と告げたものだから。驚いて慌てて近付くと、そっと見えないように袖を引かれて止められた。
「なんだ、知り合いかい」
「ええ、この後店まで来てくれる予定で。こちらのことは伝えていたのですが持ち帰り方までは伝えてなくて...すみません」
「いいってことよ。兄ちゃんよかったなあ、おいしく食べてくれよ」
そういって、店主は同じように奥からしゃこしゃこと足を動かす海老を一籠ほどその器に入れてくれた。籠の中はあまり直視しないようにして勘定を済ませ、それぞれ籠をひとつずつその腕にぶら下げてその店から遠ざかる。
店から距離がとれたのを確認したのか、隣の空気がすこし砕けたものになったので、小声のまま話しかける。
「助かった...視えたのか?」
「お店の前でうろうろ困ってるのがね。まあ買い出ししなきゃならんかったし気にすんな」
「どうも。...しっかし猫被りすごいなお前」
「助けた恩人になんつーことを。年齢不詳のマスターらしかったろ」
「伊終が年齢不詳とか笑える」
「おいこらお前より年上だっつーの」
そんな他愛もない会話を小さく繰り広げていると、街中央の十字路にさしかかった。海老は預かっとくよ、という彼の厚意に甘えることにして、籠を預ける。結構な重量だが大丈夫か、とたずねると、これでも男の子だからなー、と軽く笑われた。
「先に野菜とか買っといでよ、唐辛子対策の副菜をお勧めするぜー」
「....どこまで視たんだよ...」
「夕食を食べているふたりがちらっとね」
「さようで」
「視えちまったもんしょうがないっしょ」
そういって微笑んだ彼にまた後で、と告げて別れ、野菜市の方へと脚を伸ばした。伊終のアドバイスを参考に、付け合わせの野菜たちを購入していく。野菜市の方は来なれているから、特に問題なく買い物を進めていく。
ぴんとへたののびたトマトを4つ。たまねぎは皮がよく乾いたまんまるのものをふたつ。小さめのじゃがいもを3つ。ちいさなレタスをひと玉、少し悩んだものの、ほどよいかたさのすももをひとつ。最後に夏みかんはふたつ放り込んだころには買い物袋はほどよい重みで満たされてきていたから、乳製品は帰りに買うことにして伊終の店まで向かった。
時間はそろそろティータイムが終わるかといったところで、喫茶店としては夕食の準備などだんだんと忙しくなる時間帯だった。こちらとしても店の売り上げに貢献できるほど時間の余裕はなかったものだから、どうやって伊終と連絡を取ったものかと首を傾げているちょうどそのとき、店から出てくる彼の姿が見えてそちらへと足を向ける。白シャツに黒いスラックス、タブリエを身に纏って先程とはがらりと雰囲気を変えた彼は、そっと目を伏せたまま本日のメニューを書いた黒板を裏へと向けていて、それによれば今日のサラダは海老のカクテルサラダと鯵のマリネだそう。今日はよく海老と縁があるものだと考えながらその背後へ立つと、彼はそっとこちらを振り向いた。
「おつかれ、寄ってく暇はないんだろう?」
「うん、ごめん」
「気にしなくていーよ。まあ次あれだ、ふたりで食べに来てよ」
「あー、考えとく」
「よろしく。…といっても、こっちも今から仕込みだからさー、ちょっと時間厳しくて」
「だろうな…急にごめん、海老を受け取ったら帰るよ」
これ以上彼の時間を消費するのは申し訳なかったので、もう立ち去るつもりだった。もうひとり、食の知識に精通している知り合いがいるから、帰り道がかなり遠回りになるけれどそちらに当たってみようか、などと考えつつ伊終の方を見れば、そういうと思った、と苦笑している彼がいる。
「そんな可能性も考えたので対策はしてあるのだよ」
「え」
「ほーれほれほれ、裏にまわれー。試食作っといたからさ。使った調味料とか書いたメモはカイさんに預かってもらってるから報告がてらどーぞ」
ってそろそろクッキーが焼ける!じゃ!といって忙しなく店に戻っていく彼に苦笑と目礼をひとつずつこぼした。視野の広い彼のことだ、きっとみえていることだろうから、声を出すことはせずに。店の横、細い路地を通って回り込んだ先にある裏の扉は、不用心とでも言うべきか、ちいさな小石を挟んで開いていた。それでも一応、軽いノックをしてから押し開けると、そっと店の中の声がやんわりと耳に届く。よく来た、と頭上から降ってきたその声を見上げれば、眼鏡をかけたままの槐がこちらを見下ろしていた。どうやら、わざわざ部屋から出て一階へと降りてきてくれたらしい。
「出迎えとかめずらしい」
「失礼な、いつもして」
「ないでしょう」
「…いないな」
「はい」
「してほしいのか」
「いや別にどっちでもいいです」
「そうか」
「はい」
出迎えてくれてありがとうございます、と告げると、いやなにいつもの癖だ、と返されたので、思わず惚気か、と呟いてしまった。もとい。彼が降りてくる途中だった階段を今度は二人で昇っていく。その途中でいつもどおり、日常であったことを彼に話していった。森にもそろそろ白梅雨がやってきそうだということ。動物たちの様子。新しい芽が大きく育ってきていること。雨が降ると数カ所崩れそうな場所があって、それは気を付けてみていること。ひと月に一度出会うちいさな少女と黒猫の様子。
静かに相槌を打って応えてくれる彼へ話し続けているうちに誘導されたのは、とてもちいさなキッチンとカウンター、小さな食器棚のみが在る伊終の自室だった。それは、多くのひとびとに料理をふるまう彼が、たったひとりのために。そしてそのたったひとりが彼のためだけにその腕を振るう場所だということは知っていたから、カウンターの中に立ち入ることはせずに彼が冷蔵庫からひとつの器を取り出して火にかけるところを見守る。ふつふつと沸く音とともにごま油の香りが鼻にしみてきて、次いで甘くもどこかつんとした唐辛子の香りが立ち込めてきた。しばらくして鍋敷きのうえにそのまま置かれた小さな琺瑯鍋の中には、とろりとした赤い衣をまとった海老がきらきらと光を反射しながら艶めいていた。
「俺も試食していいらしい」
「…お腹空いたんですか?」
「それなりに」
「ふたつくらいは、食べたいかな」
「承知した」
割り箸を受け取り、彼が菜箸のまま料理を口にしたのを確認してからひとつ海老を口の中に放り込む。衣はふんわりもっちり、中から顔をのぞかせる海老は火が通り過ぎることなく弾力とみずみずしさを保っていた。ソースはとろみのあるもののゆるく口に含めば果実のような甘酸っぱさを感じる一方で、飲み込むと喉に刺激をおぼえる。胸の間あたりがぽかぽかしたころでもうひとつ、と口にいれると、辛さが増したような感覚があった。赤いのは衣で、ソースのみだと若干色づいているものの、ほとんど透明なようだ。こちらがゆっくりみっつほど食べている間に、槐が残りを食べきっていて、それはもともと彼の食い意地が張っているというのももちろんあるだろうけれど、それに加えて、きっとこの赤の一皿は表の厨房ではなくこのちいさなキッチンで作られたのだろうということがわかる。本来二人しか受け付けることのない場所に、そのふたりから立ち入ることを許されていることが、面映ゆくもあり嬉しくもあった。
事前に書いておいてくれたと思われるメモには、海老の下処理の仕方から大体のレシピが書いてあった。背綿を取らなければいけないこと、臭みの取り方。彼女が求めた料理である「ヴェルミールブケッタ」は、この街ではチリソース炒め、というらしい。
「すいーとちりそーす、だったか。あまり流通していないといっていた」
「そうなんですね。…どうしようかな」
レシピは簡単で、できれば、難しい調味料を含まない――言うなれば、その場にある調味料で出来るものが好ましい。なかなか会えない間、梓苑がこっそりとふたりで作った料理を作っていることを知っていたので。そして、彼女が作るのは素朴な家庭料理であり、シンプルで体に沿う料理であることも知っていたので、できるかぎり、それに沿ったレシピを残しておきたかった。
「すこしだけ、わけてもらってもいいですか?味見用に」
「使う分だけ持っていけと言っていたが、…ちいさな小瓶分しか要らんといった顔だなそれは」
「正解です」
彼女と二人で味見をして、その時の反応で味の調製をしようと梓苑のちいさな片手でもすっぽりと握ってしまえるようなちいさな小瓶にソースをわけてもらう。割れないようにと槐が朝の布でくるんでくれたそれはポケットの中に入れ、預けっぱなしだった海老をぎっしりと敷き詰めた氷の上に敷き詰めた。最後にメモを受け取って礼を言ってから扉をあけると、ふわっと夕暮れの香りが漂ってくる中、そっと人の波に乗りながら梓苑が待つ家へと進んだ。
街のはずれにある見慣れた扉を静かに開けて、ただいま、と呟けば、大きな刷り硝子を嵌めこんだ扉の向こうで、なにかがもそり、とうごめく気配がする。その気配はいとおしい彼女以外の何物でもないことはわかっていたから、そのまま洗面所で手を洗ってお風呂に湯を溜める準備をしてから、音をたてないように扉をゆっくりと押し開けた。備え付けのキッチンと、その横の小さな冷蔵庫の照明をつけて、手早く食材を片付けていく。最も傷みやすい海老たちは冷気の溜まる下の段に。この二日の為だけにしまい込んだ大氷が解けてきているから、明日の朝にはかき氷にしてしまってもいいかもしれない。二人分には少し足りないけれど、冷たいものを食べてすぐ頭が痛くなる彼女と食べるなら、ちょうどいい量だろう。
そんなことを考えながら食材の位置をあらかた整えたころには、本棚とその上の緑に隠れたベッドのあたりでシーツを足で撫でる音が耳に届いていた。もともと他人の気配には敏感な彼女なので、そろそろ起きただろうかと棚の向こう側にまわりこめば、布団のなかでカーディガンに顔をうずめながら寝ぼけているさまを見つけて、その可愛らしさのあまり膝から崩れ落ちそうになる。腰元に座り込み、そっと手を伸ばしてその目元に指の背を沿わせると、だんだんと意識がはっきりとしてきたのかまばたきを数回。「おかえり」と言って微笑ってくれた彼女に、心が揺さぶられるまま、布団越しに抱きしめた。できるならこのまま二度寝したいところだけれど、そういうわけにもいかないから、ぎゅうぎゅうにした後に抱き起して、二人連れだってキッチンへと向かう。服の裾をほんの少し握ったまま斜め後ろをついてくる彼女の掌に、冷蔵庫の中に仕舞わず置いておいた小さな瓶をことり、と落とした。
「おみやげ?」
「んー…まあそうかな。あかいの、の正体だそうです。伊終さんからもらいました」
「おおお…きれいだ」
半透明の、まるでゼリーのように煌めくソースは目新しいものだったようで、梓苑は照明に透かしたり掌に包み込んでみたり、くるくると色んな角度から瓶をみている。満足したのか、その動きがゆるんだ頃を見計らってその小瓶を受け取り、ふたを開けて小さな匙ですくいあげ、その口元に寄せると、なんのためらいもなく彼女はくわいついてきた。警戒心のかけらもないその様子に若干の不安を覚えるけれど、それはまあ置いておくとして、その表情の変化を見守ることにする。くるくるとめぐるましく変わるその表情を見守りながら自分の口にもひと匙。
なんとも素敵なそのソースは、とろりとした触感とともに口のなかを甘酸っぱい香りでいっぱいにした。なにか果実を使っているのか瑞々しさを感じるけれど、それがなんなのかまではわからない。甘酸っぱさのあとからだんだんと口のなかが熱くなっていき、飲み込めば喉にぴりりとした刺激が刺さってきて。胃のあたりがじんわりぽかぽかと温まってくる。…と、ここまで異国のソースを堪能したあとで、そういえばこの辛さは彼女にはきついのではないか、と思い立ち、俯いてしまったその顔を覗き込むと、その予想は当たっていたようで、トマトも吃驚な真っ赤っか具合だった。
「大丈夫ですか、…大丈夫じゃないか」
「おいしい…けどからい」
「喉が?」
「のどとくちが。だいふんか」
「そっか」
涙目な彼女には悪いけれど、赤く火照ったその顔がとっても可愛らしかったので、思わず笑顔がこぼれてしまう。そんなこちらをじっと恨みがましく見上げてくる視線に、ごめんね、という気持ちも込めて、小さなカップにミルクを入れて差し出して。こくこくと飲み干せば大噴火は落ち着いたようで、まだほんのりと顔は赤みを帯びて目も潤んでいるけれど、その表情は落ち着いてきていた。見た目はかわいいのに味はかわいくなかった、とカップを抱えこんだままつぶやく彼女に耐えきれず吹き出してしまい、ふたたびその視線が鋭くなるのをみて慌てて華奢な身体を抱え込む。
「…そうやったらほだされるとおもってるでしょ」
「思ってないです、おもってないですよ」
「うそ」
「…」
「ちーさん正直にどうぞ」
「…ちょっとだけ思ってます、けど」
「けど?」
「そんなところもかわいいなって」
「…やかまし」
別の意味でほんのり赤くなった彼女は許してくれたのか、ちいさくこちらの脇腹を小突いたあとにそっと身体を離して、そのまま何かすることはあるかと問いかけてくる。大丈夫だからお風呂に行っておいで、と送り出すと、素直にはーい、といって華奢な背中は扉の向こうへと消えていった。少し間が空いてから水音が聞こえてきたのを確認して、調理を開始することにする。主菜は海老のチリソース炒め、付け合わせのサラダとスープ。味が濃いものが多いから、ごはんはそのままのしろごはんの予定だ。調理過程を組み合わせて、その順に出す食材も頭の中で整理した。
まずはちいさな小鍋にお湯を沸かしておきながら、大きなじゃがいもをふたつほど皮をむき、一口大に切っていく。次に夏みかんを取り出して洗ったあと、薄めの輪切りにして硝子のボトルにレモングラスと一緒に入れて炭酸水を注いだ。しゅわしゅわ、ぱちぱちと弾けるそれに蓋をして氷水につけておく。さっと水で洗った蒸籠には、冷蔵庫から取り出したごはんを一段目に、じゃがいもを二段目にいれて小鍋の上に置き、放置。
冷蔵庫から取り出したレタスを一口大に。さっと水につけてパリッとさせた後、水分を切る。芯の方は薄切りにした後粗めのみじん切りに。冷蔵庫に残っていたきゅうりは塩を振って板ずりした後に斜め切り。レタスときゅうりは冷蔵庫で冷やしておく。蒸しあがったじゃがいもは湯を捨てた小鍋の中にいれて磨り潰し、ほんの少しの生クリームと牛乳で伸ばして塩胡椒で軽く味をつける。硝子の器に濾して注ぎいれ、こちらも冷蔵庫へ。
トマトを2分割、半分はくし切りに。もう半分は細かく刻んで。玉ねぎも2分割、半数は四角く、残りはみじん切りに。生姜と大蒜も刻んでおく。洗った小鍋に微塵切りにした野菜たちを入れピューレ状になるまですりつぶしながら火を通し、味見をしながら醤油、砂糖、豆板醤、白ワインビネガーを。少し煮立たせたあと、ここでポケットに入れたままだったメモを取り出した。存外、彼は丁寧な文字を書くのだなあと思いながら、キッチンの壁に貼り付けて少し右上がりのその文字に従いながら作業を続ける。
海老の背わたをとって酒を少しかけて揉みこみ時間を置いて、その間にフライパンに胡麻油をひとさじ垂らして熱したあと、残りの玉葱と刻んだレタスを投入して炒める。海老は軽く濡れ布巾で拭い、片栗粉をまぶした。ぱちぱち、と軽い音を立てながら踊る玉葱が透き通ってきたところで海老をいれて、そこからはあまりつつかずそのままに。海老が丸く、赤色に染まってきたところでひっくり返し、軽く火が通ったら、鍋に避けていたソースを入れて軽くかき混ぜると、片栗粉でとろみがつき、海老がひとりずつ鮮やかな赤いドレスをまとっていった。
いいにおい、と呟きながら部屋に戻ってきた梓苑に、おあがりなさい、と返事をして、彼女が髪の毛を乾かす姿を横目でみながら仕上げに取り掛かった。盛り付ける二枚の皿にはお湯をかけて温めておいて、ちいさなエッグパンをふたつ取り出してバターはほんの少しだけ、透明の胡麻油を垂らして火にかける。その間に皿を拭き、大きな木のフォークを準備して、十分に鍋肌が寝しているのを確認してから卵を流しいれて、ぐるぐるとかきまぜれば、隠し味にほんの少しマヨネーズを入れているのもあって、卵液は鮮やかな黄色のままふわふわと膨らんだ。火が通り過ぎないうちに菜箸に持ち替えて、端を整えてから皿にのせる。火は消さずに海老のはいったフライパンをあたためて、卵の上に。サラダももう一度水気を切ってから、ボウルに盛って軽く粉チーズを振った。
その間に蒸籠からごはんを器に盛り付けてくれていた彼女が、テーブルの上を準備してくれていた。赤色に沿うようにか、洗いざらした生成りのテーブルクロスに淡虹色のライナーが合わさっている。乳白色のキャンドルを石の器にのせて火をつけてからこちらにやってきた彼女はその手にふたつの大きなグラスを取ったあと、少し悩んだ様子を見せた。どうしたのかと思ってその視線の先を辿れば、食器棚のちいさなグラスに視線が注がれていることに気が付く。どうやら自分用に、ちいさなグラスを用意するかどうか迷っているらしい。こちらの視線に気づいた彼女はほんのりとばつの悪そうな表情だった。
「ミルクいるかな、って」
「...辛いときのために?」
「そう」
「だいじょうぶですよ。..,冷蔵庫、あけてみて」
不思議そうな顔をした彼女にひとつ微笑んで、立っていたその場所を譲った。そっと冷蔵庫の中を覗きこんだ彼女の表情がだんだんと明るくなっていくのを横目で確認しながら、手早くドレッシングを作ってサラダと一緒にテーブルへと持っていく。その間に梓苑はそっと硝子の器を取り出して、ふたつのカフェオレボウルに中身をよそってくれた。辛かったときのために、今日のスープは冷製のビシソワーズ。色々な国の味付けがごちゃ混ぜになっているけれど、ふたりの食卓なのだから構いはしない。
それらをテーブルに運んで、そっとクコの実をふたつぶずつ載せれば、夕食の完成だ。
「さすがです」
「いえいえそれほどでもあります」
あるんや、と言って彼女がわらうのに合わせてこちらも自然と笑顔がこぼれる。
(まだまだ知らないこともあるけれど)
あなたについて知っていることも増えてきたんだよ、なんて。胸の中でしか呟かないけれど。
単純なその事実がなんだかとてもうれしくて、いとおしかった。
ふたりで手を合わせて、いただきますをして。ひとくち、彼女が口に頬張るのをうかがった。恐る恐る口に運んだその口がもごもごと動いて、だんだんとその頬と目がきゅーっとすぼまっていくのを若干はらはらしながら見守っていると、飲み込んだ後においしい、と言って笑ってくれたので、その声に安心して、こちらも箸を進めはじめる。彼女好みの味付けは自分にとっては少し辛みが物足りなくもあるけれど、その笑顔と一緒に食べられるだけでより一層おいしさが増すというものだ。ビシソワーズはいつもならばぴりりと黒胡椒をきかせるところだけれど、今日はもったりと甘めにしたのもあって、全体的な味付けとしてはバランスのとれたものとなったのではないだろうか。彼女の箸の進み具合からも口にはあったようだけれど、やはり辛いのか結構な頻度でスープを口に運んでいる。
「やっぱり辛いですか?」
「何個か食べていると、からいかなあ…でもスープもあるからだいじょうぶ」
それならもう少し味付けを変えてレシピを残しておこうか、と思案していると、察した彼女にこのままの味でレシピを書いておいてね、と釘を刺されてしまった。副菜がないと食べにくいでしょう?と告げても、それでもこの味付けのままのレシピがいい、という。
「千歳のごはんの味は、これだもの」
そういって微笑む彼女がいとおしくて、その言葉が胸を締め付けるほどにうれしくてしょうがないので、後で存分に抱きしめることにして。ゆるむ頬を誤魔化しながら承知しました、と少しおどけてみせたら、耳が真っ赤よ、とやり返されてしまった。
「そこは見なかったことにしてください」
「やだ。ちーさんかわいいね?」
「…あとでおぼえておいて」
恥ずかしさのあまり思わずこぼれた恨みごとに、ふふふ、といたずらめいた表情でわらう彼女には仕返しを。食後はふたりでお茶を飲んで、ゆったりした後、ベッドの中で抱きしめるだけじゃなくて、思いっきり擽ってやろう。きっと彼女はやり返してくるだろうから、そのままくたくたになるまでふたりでわらって、手を繋いで眠るといい。
そんなことを思い浮かべながら、もうひとつ、海老を口の中に放り込んで。まだすこし耳が火照ったまま、千歳はゆるりと微笑った。
ゆめまぼろしにひのともる ゐと @cnsrxo
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。ゆめまぼろしにひのともるの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます