幕間
ひとりふたりぼっちの神様
ゆめまぼろしにひのともる>>哀をかさねて藍よりかなし
010まで、教会のシスターからみたふたりのこと。
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ねえ、こんにちは。いいえ、こんばんは、かしら?もしも少し余裕がおありでしたら、わたしの話をきいてくださいませんか。とてもとても、うれしいことがありました。どうか、遠いところへ旅立ったあのかたにも届けてくださいな。
貴方が見守っていたあのこはこんなにも、きれいにわらうようになりましたよ、ってね。
初めて出会ったときには、あのこはもう教会でオルガンを弾いていました。オルガン弾きとして働きはじめたばかりのようで、毎日たくさんの曲を練習していました。此処は東の小部屋にピアノが、西の小部屋にはオルガンがあるけれど、朝早く来ると、あのこが指慣らしに弾いているカノンが聴こえてくるんです。いっとう早く来た日しか聴こえなくて、しかも時間もまちまちだから…聴けた日はとても良い日になる気がするの。
もちろん教会ですもの、たとえカノンからはじまったとしてその日に誰かの弔いをすることだってあるけれど、そんな日でもいつもよりいい意味で凪いだ気持ちでいられます。だって、祈りを届ける側が泣いて思いを濡らしてしまったら、声も字も滲んでしまうでしょう?此処に来た最初はよく引きずられて泣きそうになってしまって…あのこの音にはとても助けられました。お守りみたいにしていた、…いいえ、いまもしているわね。もちろん今は泣いたりしないけれど、いつもよりも指の先まで、すっと澄み透るあの音がとても好きです。
ああ、すこし話が逸れました。もとに戻しましょうか。
そう、あのこがいくつもの曲を毎日弾いているのをずっと見守っていたのはあのかたでした。いつもは決して廊下を走ったりしないのにね、時折、ちいさな薬箱を片手に持って、講堂や西部屋まで走っていくの。こっそりついていったら、あのこの手を冷やして、腕に薬を塗って。最後に頭を撫でていたわ。あのこは不思議そうにあのかたの指と顔を交互にみていました。手当が終わってそのまま練習が終わる日も、そのあと数曲続けて弾いてから終わる日もあったけれど、いつも最後は決まった曲でした。きっと大切な曲なのね、だって他の譜面を弾く時と違って、あのこは目を閉じて弾くんだもの。
いちど、たずねてみたことがあるのよ。どういう時に薬箱を持っていくのって。そうしたら、あのかたは少し無理しいの音になったときかな、と苦笑していました。むりしいのおと、というのがよく分からなくて当時は首をかしげていたけれど、いまはわかるようになりました。あのこの音が、とてもとてもやさしくなるのよ。あまりにもあまりにも、やさしくなるの。そのぶん自分の腕を傷つけてしまうほどに。指先を引き攣らせてしまうほどに。
あのかたのように薬箱を持っていくことをわたしはできないから、そんな音が聴えてきたときには、お使いを頼むようにしています。おやつの買い出しが多いかしら。あと大広間でお昼寝をする子供達にブランケットをかけてもらったりだとか、…ああ、お花を買いに行ってもらうことも多いです、あのこが優しくなりすぎないように止めてくれる場所のようだから。
……実はね、だんだん聴きとれるようになったわけではないのです。あのかたがいなくなって、あのこが一匹の猫と一緒に来るようになってから、一時期すごく音が荒れたのね。荒れたというか、なんといえばいいかしら、だんだん、ほんとうにやさしくなったのです。真綿のぬくもりのように。微かに残った自分の体温を惜しみなくひとに渡して、自分は冷え切って、端から崩れ去っていくように。気付いたときにはあのこの腕はぼろぼろになっていました、隠していたようだから何も言わずにいたけれど。…違うわね、今更気付いた自分を、なにもできない自分を直視したくなかっただけ。だって、気付いていたのよ、あのかたがいなくなってから真剣に譜面を睨む表情とこちらが伝えることに頷くその真面目な表情しかみていないこと。なによりもあのこが泣くことのできる場所を喪っていたこと。今更後悔しても、もう仕方ないのだけれど…懺悔のようなものかしらね、ごめんなさい。
その、やさしすぎる音はある日を境にだんだん元の音に戻っていきました。だからね、ある程度ならわかるようになったの、無理しいの音。きっとあのかたよりは気付けていないけれど。表情も少しずつやわらかくなっていったわ。微笑む姿もみるようになりました。毎日譜面をみて、弾いて、最後にいつもの曲を弾いて。弾いている最中は近付かなかった猫がだんだんと近付いて、やがてあのこの膝の上でうたた寝するようになった、……そして、あのこが泣くことは、あのかたがいなくなってからはなかったの。
それでも時が過ぎて、そうね、猫を膝に乗せてオルガンを弾くあのこが珍しくなくなった頃だったかしら。いつもの花屋のご主人ではなくて、ひとりのおんなのこが花を届けにきたのね。和やかな笑顔と煌めく瞳が特徴的なそのこは、きっと遠いところからこの街にやってきたのでしょう。すこし片言のまま、どうぞ、と花を差し出してくれました。差し出したその手の冷たさと、その瞳の煌めきの鋭さが気になって、ちょうどお八つ時を過ぎたころだったからお茶に誘ったの。紅茶を飲んだのは初めてだ、といって笑っていたわ、甘いものは苦手だったみたいで、クッキーをひとつ口にしてとめていたけれど。
そうしていたら、そのうちあのこが毎日弾く時間になっていたのね。その音を聴いて、そのこは、一筋だけ涙を流しました。そして、うたいやすい音を奏でるのね、でもやさしすぎる音だわ、と言ったの。驚きました、だってね、あのこの音をある程度聴きわけられるようになっていた私は気付かなかったのです。言われてみれば、ほんのささくれをあのこの指先につくるような、そんな音でした。それを、まだこの街に来たばかりのそのこが聴き分けたの、おどろいたのと、口惜しかったのと、…すこしほっとしたことをおぼえています。
それからときどき、そのこは花を届けてくれるようになりました。言葉も上手になっていって、此処にきてくれた時にはお喋りを、時間があえばお茶をするようになって。さらに時間があえばあのこの音をこっそり二人で聴くようになって。そのこに今日の曲はどうだったかを聴くようになりました。回数を重ねていって、そのこがいつかあのこと話してみたい、と呟くようになった頃、気付いたことがあるのです。あのこが、あのこを傷付けるやさしい音を奏でるときに、そのこの瞳の煌めきがゆっくりと烟ること。そして、あのこの音があのこを傷付けないときには、そのこの瞳の煌めきがゆうるりまるくなること。だからね。いつかのおり、そのこがうたうことは好きなのだと言っていたのをきいて誘ってみたんです、時々、此処でうたってみませんか、って。
私としては、うたってくれませんか、といった気持ちでした。あのこの曲は誰かのための曲で、どうやっても自分のために弾くことはないの。聴き手の、なによりも合わせるうたい手の、ほんのすこしの揺らぎを感じるとそれを包み込むように弾くから。それはきっと悪いことではないのでしょう、むしろ教会という場所であるからこそ褒められたものなのかもしれません。それでも、嫌だったの。ただ、完全に聴き取れるない私はどうしたって役不足で、なのに中途半端に聴きとれるものだから、包まれた瞬間だけはわかるのね。ああ、またやってしまった、と何回も思いました。でも、そのこなら。
そのこの煌めきを緩められるあのこは、そのこのこころを聴きとることができて。
あのこの音を聴き分けられるそのこは、あのこの音に声で寄り添うことができる。
それはきっと、素敵なことだと思ったの。
そのこは、私でよければ、と言ってくれました。まずは譜面を渡してみたのだけれど、一週間後にはすべて憶えたから、と、歌を披露してくれました。それは、とてもとても綺麗な声でした。うたい終わったあと、私があまりにも惚けていて、そのこが心配そうに、直した方がいいところはどこですか、とたずねてきたくらい。もちろん、あなたのそのままの声が良いわ、と慌ててお伝えしました。そういっても、本当にこのままでいいのか、と心配そうに眉をひそめるから、主観だけれど、と、前置きをしてから、想いをつたえてみました。
とても綺麗だとおもったこと。この場所での歌声は祈りを捧げる意味を持つけれど、それを先導するうたい手は、あるがままに、祈りを捧げる人々の声を包み込む役割を担うこと。だからこそ、声に嘘はつかないでいてほしいこと。そして、すべての祈りを支えている旋律に、うたい手までもを包み込もうとするあのこの音に、むずかしいとは思うけれど、できれば寄り添ってほしいこと。
そのこは、私の瞳をみて、わかりました、といってくれました。その瞳の煌めきは相変わらず鋭かったけれど、会った時と比べると、ほんの少しまあるくなっていたから安心したの。時間はかかっても、きっとだいじょうぶ、とわかったから。
はじめてのときは、わたしが表の謡い手をつとめるところに裏の謡い手で入ってもらいました。前日の打ち合わせの時、緊張する、といっていたから、私にとってのお守りもお裾分けしました。聴けるかどうかは運だったのだけれど、当日の朝はとてもいい具合に力が抜けていたから聴けたのでしょうね。そしてとてもうたいやすかったです、あのこの音に相変わらず包まれてしまうけれど、同時に声で支えてくれるの。情けないけれど、とても助かったことを憶えています。
ふふ、そろそろ飽きました?ごめんなさい、まだ続きます。ここから本題なの、どうか片耳でも傾けてくださるとうれしいわ。
この間、急な弔いのご依頼があったんです。本当に急で、しかも参列される方も多い大きな式でした。準備におおわらわで、あのこには式を飾る花の調達を頼みました。実はその日、私がぎりぎりわかるぐらい、あのこの音はやさしい音だったの。弔いの式はどうしても謡い手も参列される方も揺らぎやすくて、そのぶんあのこの音はやさしくなってしまうから、ほんの少しでも元の音に戻るように、お昼も外で食べておいで、と送り出しました。けれど、なかなか帰って来なくて、今までそんなこと一度もなかったから探しに行こうか、もう少し此処で待っていようか、とても迷っていたの。
そうしたら、あのこが帰ってきて。それだけじゃなくて、そのことふたり、手を繋いで帰ってきたのです。
街で出会ったのですって。そのこが、引き留めてしまってごめんなさい、と言っていたけれど、きっとお互いに引き止めあったのでしょうね。そうでなくちゃ、あのこの瞳が、あんなにゆらゆらしているわけないもの。でもそこには触れてほしくなさそうだったから、そっとしておくことにして、譜面をふたりで確認しておいてね、と送り出しました。本当は講堂の飾り付けも手伝ってもらおうとおもっていたのだけれど、それよりも思いついたことがあったから。
今日の式で、そのこに表の謡い手をしてもらおうと思ったの。
一種の賭けでした。もしかしたら、あのこの揺らぐ瞳が崩れてしまうかもしれない、とも思いました。いつもどおり、私が表に、そのこが裏にいけば、きっとあのこはやさしい音を奏でて、そして時間の流れでまた癒していくのでしょう、だけれど。それは、もう終わりにしようって。勝手でしょう?でもね、賭けは賭けだけれど一応勝つつもりはあったのよ。ふたりで手を繋ぐとき、そのこが手を繋ぎにいって、あのこが握り返したの。そして西部屋に向かっていったんです。あのこが自分から手を握り返したのは、あのかた以降いなかったから、だからだいじょうぶって思ったの。充分すぎるでしょう?
そして式は無事に終わりました。私は裏の謡い手だったから式の途中のことは詳しく憶えていないけれど、ひとつだけ。
はじめて、あのこの旋律を包みこむことができました。はじめてでびっくりしたのでしょうね、その瞬間ほんの少し揺らいだあのこを、声で支えることができました。声を持たないあのこの祈りを、全部とは言わないけれど、一部分だけでも、送り出すことができたの。とても、うれしくて、……やっぱりすこし、くやしかった。わたしじゃ、あのこはくるめないから。
全部の片付けが終わったころには、もう太陽は丘の向こうへと姿を消していました。時間帯はちがうけれど、いつもどおり、あのこが数曲弾いているのを聴きながら、一息ついていたの。いつも流れるように最後の曲までつづけて弾くのに、その日は最後の曲の前でいちど曲が終わったんです。どうしたのかしら、と思って、こっそり講堂まで見にいったのだけれど、階段を登っている途中で聴こえてきた最後の曲は、前奏が終わったあと、声が寄り添っていました。
やさしい、こえでした。
あのこをまもる、やさしいうたでした。
あのこの傷を癒すためだけの、そのこの祈りがこもったうたでした。
講堂の中にふたりぼっちになったまま、世界を閉じて、ただあのこの為に在ろうとする。そんな声はずっと長続きするものではないけれど、ずっとあのこ以外にしかやさしくできなかったあのこ自身が大切にされることも必要でしょう?だから扉をあけて割り込んでいくのはやめて、部屋に戻りました。いつか開けてくれるだろうから…もちろん、そのこの声が擦れたりだとか、あのこがそのこの声に溺れてしまいそうになる前には扉はこじあけるけれど。わたしだって小さなお茶会を用意することはできるもの、滅多に使わないけれど、たまにはね、先輩命令、なんてのも使ってみせるんだから。
ふたりぼっちの世界にいて、そとに瞳を向ける心の余裕が出てきたのなら。そっと外に出てみればいいと思います。無理に世界をこじあける必要があるときもあるけれど、今はきっとその時ではないから。いってらっしゃい、と、おかえり、をいう役目を誰かに譲る気は今のところないけれど、私以外にも、ふたりにそう告げるひとができますように。どうかどうか。ふたりにたくさんの声が届くといいわね。
ちなみにそのあと。曲が終わってもなかなか降りてこないから、もういちど講堂に行ってみたんです。そうしたらね、オルガンの椅子にふたりでぎゅうぎゅうに腰掛けたまま、互いの肩に寄り添いあって眠っていたの。手を繋いで、隣同士。そっとブランケットをかけておいたわ。四半時ほど経ったあと、いつもはあの子が連れている猫を腕に抱いた男の方がお迎えにきて、仲良く帰ったみたいです。三人の後ろ姿をみてから、私も帰りました。
きっと詞があったこと、あのかたも知らないんじゃないかしら。そう思うと、ほんの少し、あのかたに勝った気分になるわね。…ふふ、だめですか?だって私、ほんの少しだけあのかたにも、嫉妬、ではないし、怒りでもないけれど……ええとそうね、とりあえずもやもやしているんです。
知っているのよ。手紙さえも届かない場所だから、と、わたしたちにはさようなら、と告げたあのかたが、唯一その五文字を言わなかったのがあのこだということ。字を書くのは苦手なんだ、なんて行って何が何でも書類を書いたりしなかったくせに、あのこには、手紙を送っているということ。あのこの譜面をまとめるノートの一番最後には、あのかたからのはじめての手紙がはいっていて、どんな式でもあのこは裏表紙を自分の胸に抱き締めてから、オルガンに向き合うんです。なぜその姿を、あのかたは直接、みにこないのかしらね。手紙が届く距離なんだもの、たまには頑張ってここまでいらっしゃいな、なんて思います。あのこがいちばん慕っていたのがあのかただってこと、あのかた自身もわかっているでしょうに。
……なんてね、素敵な方だったからきっとお忙しくされているのでしょうね。これは八つ当たりだわ、ごめんなさい。
そうそう、これは昨日のことなのです。今日、どんな顔をしてあのこがやってくるのだろうか、とすこし心配だったものだから、朝早くにきて、玄関の掃除をしていたのだけれど。いつもより少しだけ遅めの時間に真っ赤に泣き腫らした目で、でも綺麗に微笑んで。ゆっくりと口を動かして、おはようございます、せんぱい、と言ってくれたんです。それがほんとうに、ほんとうに、うれしくて!
はじめてあのこに先輩と呼ばれたことが、そしてなによりもーーあのこがやっと、泣くことができたのが。とてもとても、うれしかったのです。
うれしくて思わず、朝のお勤めが終わったあと、貴方のところまで来てしまったの。ああ、此処まできいてくださって、ありがとうございます。いつも貴方へ旋律を届けているあのこのこと、いちばんはじめに伝えたかったのです。もしもよろしければ、あのかたにも伝えてくださると助かります。あのこは、百架は。やっと泣くことができました、と。それだけでよいのです。きっとあのこは、手紙にこのことは書かないでしょうから。
長くなってしまってごめんなさい。……ああ、いい時間だわ。このまま、此処に耳を傾けたままでいてくださいな。そろそろ、あのこがいつものように数曲弾いてくれることでしょう。どうぞ聴いていってください。貴方なら聴きわけられるとおもいます、だって、かみさまですもの。きっと、私より聴き分けられるでしょう?璃々よりも、先生よりも、聴き分けられることでしょう。
今日の音は、ほんのすこしだけだけれど。はじめて、あのこにもやさしい音ですから。
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