CHAPTER9:Our deeds determine us, as much as we determine our deeds.(5)

『いかにも。その通りです。私――〈マーキス〉の正体、あるいは基幹は阿比留道火という少女の脳髄に他なりません。おめでとうございます。よくぞ真実へと辿り着きました』


〈マーキス〉はひとしきり笑い声をあげてみたあと、それを飽きたように止めて、アクタとリクの〝自由研究〟が辿り着いた答えをあっさりと認めた。

 共同体は楽園などではなかった。幸福と慈恵の最たるを実現した理想郷は、一人の少女の死の上に成り立っているに過ぎない、幸福の輪郭だけを象った蜃気楼だった。


『なるほど。貴方は現在、一世紀に渡って築かれた共同体という理想郷が偽りのものであったことに苦悩していますね。しかしながら貴方の想像と現実は些か異なります。まず、阿比留導火が脳の摘出手術を受け、既存のAIプログラムとの接続を果たした瞬間から、個人の人格は超越されているという点です』


〈マーキス〉は淡々と、アクタの思考を先読みしながら言葉を紡いでいく。過去類を見ないほどに超高度化された演算装置を前に、アクタが自ら言葉を発さずとも僅かな挙動や視線の揺れ動き――あるいはもっと、体温や心拍、体内水分量や筋肉の弛緩などによって全てを看取されてしまうのだ。全知を謳う女神を前に、どんなブラフもハッタリも通じない。ただひたすらに、雛木芥という個人を包むヴェールが引き裂かれ、遍くが露わにされていく。それは恐ろしくもありながら、どこか快感を覚えるようでもある。

 アクタは今、余すところなく〈マーキス〉によって理解されているのだ。


『故に、阿比留導火の実母である織香早蕨に〈CLASS5〉を付与し、また権限保有者ホルダー――非常事態において私の代行として全権行使が可能となる職位――という唯一無二の地位に設定したこともまた、個人の縁故に関わるものではないのです』


 アクタの視界に無数のウインドウが一斉に浮かぶ。どうやら織香早蕨の性格傾向の分析と行動離籍の子細らしいが、量があまりに膨大すぎるのと、数列や専門用語の羅列ばかりで、もちろん理解はできなかった。


『分かっています。要点は二つ。彼女が〈マーキス〉の設計に関わっていたこと。そして共同体という〈マーキス〉に委ねられた秩序を称賛しながらも懐疑的であったこと。これらのデータはそういった織香早蕨のパーソナリティを示す事例であり、大きくはそれらに基づき、彼女は権限保有者ホルダーに任命されたのです』


 ならば織香早蕨が死んだ今、権限保有者ホルダーの枠はどうなっているのか。アクタがそう疑問に思うのは当然で、〈マーキス〉もそれを既に理解している。


『人の脳の寿命は、〈マーキス〉に取り込んだ阿比留導火のような特例を除き、通常であれば一五〇年程度であると言われています。織香早蕨の肉体の大部分には義体化が施されていましたが、脳の義体化だけは解決できない問題でした。つまり共同体の成立から、いえ、世界紛争の時代から現代までを知る彼女の脳には限界が近づいていたのです。そこで彼女に孤児院運営を推奨し、後継者たりえる優れた子供を育てさせることにしました』


 アクタは早蕨がしてくれた説明を思い出す。生まれた親の元では幸せになれないと判断された子供たちを社会に接続し幸福を実現していくために、このような施設があるのだと。

 それさえも偽りだというのだろうか。〈なぎさの家〉の子供たちは、リクは、〈マーキス〉が展開したシステムの一部となるに相応しい素質を見い出されて、親から引き離されたとでも言うのか。


『思考が極端ですね。もちろん子供たちを幸せにする役目が孤児院の第一目的に他なりません。次の世代へと築いた繁栄を引き継いでいくことは、共同体存続において特筆すべき優先事項です。そして事実として二つの例外を除いて、成長した子供たちは共同体社会の理念に溶け込み、幸福を謳歌する人生を歩んでいます』


 例外の一つはリクのことだろう。リクは自らの生における自らの不在を問うた。平穏と安全による幸福と確約された未来を手に入れることよりも、たとえ闘争に身を委ねることになろうとも、自らの意志で不確かな未来を選択することを望んだ。

 それはもはや幸や不幸という物差しでは量り得ない、より根源的な渇望だ。


『本来であれば、ミシナリクこそが権限保有者ホルダーとして後継の座に就くはずでした。しかし大変残念なことに、ミシナリクは〈なぎさの家〉を出奔してしまいました』

「リクは」


 食い気味に言って、アクタはようやく一方的に続く〈マーキス〉の会話に割り込むことができた。


「リクの意志は、機械なんかには計れないんだ」

『ええ、ある意味ではその通りでした。彼は非常に興味深い示唆を私に与えてくれました。人は、――たとえ私がいくら計画性に基づく個人の最適化を行おうとも、否応なく常に意志という可能性あるいは不安定な要素を孕んでいる。そんな当然のことを、改めて共同体に突き付けてくれました』


 アクタは〈マーキス〉の言葉に強烈な寒気を感じる。つまり、それは、一体どういう――。理由は分からない。論理的な思考よりも直感が何かを痛烈に訴えていた。


『私はこれまで、人間の意志を限りなく希釈していくことによって社会秩序を構成することを是としてきました。無論これは世界紛争が、根源的な意味において錯綜する無数の人々の意志によって引き起こされたものだという反省から生じた動きです。つまり私に求められたのは、社会という大きな箱庭の管理。収穫量を調整し、木々や草木の配置を決め、成長速度のバランスを取る。そういう役目を私は与えられて創造されたのです』


 感情も抑揚もない女神の声に、アクタはほのかな含意が香った気がした。まるで今の私に与えられた役目は違うのだとでも言うような――。


『その通りです。一世紀を越え、共同体には徐々に歪みが生じ始めました。具体的な表象としてはご存知の通り、若年層を中心にした自殺者や鬱罹患者の増加。綺麗に整えられた箱庭を、息苦しいと喘ぐ人々が現れたのです。これは私がこれまで根本原理としていた合理性や数理的確実性の問題ではなく、情念と衝動の問題でした』


 そして速やかな対処法としての一手が〈メーティス〉――先進感情理論研究グループの設立だ。〈マーキス〉はそこで人の感情――快不快といった根源的なものから、より複雑で錯綜した名状しがたいような感情まで――を徹底的に解明しようと試みた。

 その成果について、アクタが知っていることは多くはない。少なくとも〈マーキス〉自身が納得するような徹底的な解明には至っていない。だがリクが言っていたように、きっと〈マーキス〉は人の感情さえも掌の上で理解してしまうのだろうという確信めいた感覚はアクタにもある。。


『人は理性で考え、感情で動きます。この言葉はまさに真理の一側面を描き出していると言っても差し支えないと、私は判断します。人の行動の多くを支えるのは、感情なのです。しかしながら実際の脳構造をシステムのうちに取り込んで尚、感情のメカニズムは複雑に過ぎるものがありました。ごく一般的には、セロトニンが幸福感情を司り、あるいはストレス反応の際にはアドレナリンが分泌される――などとして感情は神経伝達物質の供給によって説明されます。しかしながらこれは単なる機械的反応ではありません。

 たとえば、ある事象によって快感情を抱く――ここではセロトニンが分泌されることにしましょう。現象的にはある事象が作用因となり、脳内でのセロトニン分泌、すなわち快を感じた。ということになります。一見すればこの論理構造にはいかなる矛盾も存在しません。ですが単純化されたこの図式では、抱かれた快感情についていかなる説明を果たすことも不可能なのです』

「ある事象が快感情を引き起こす必然性はねえって話か」

『ふふふふふ、その通りです、ヒナキアクタ。ある事象が快感情を引き起こす、という構造には個人のかつての経験やそれらによる統合的な趣味趣向、当然ある事象の前後の文脈や、瞬間的に観測されうる無数の条件が〝快感情を引き起こす〟という結果に関与していることが分かります。そしてそれを全て網羅することはおよそ不可能に等しい。このバタフライエフェクトを解明するにはまさに、ラプラスの悪魔が必要というわけです』

「なんだそれ?」

『……まぁいいでしょう。重要なのは、目下早急に解明すべき自殺や鬱の増加傾向という問題の根底には、人の感情というブラックボックスがあるということ。それを解明の一助とするためにも、今回の一連の〝自由研究〟は、共同体社会にとって非常に有意義だったと言えるでしょう』

「――――は?」


 アクタは唐突に理解を置き去りにされて、眉をしかめる。〝成功させられた〟。数時間前に聞いたばかりの百舌の言葉が脳裏に響いた。


『おかしいとは思いませんでしたか? 一介の高校生に過ぎない貴方がたが堅固なセキュリティを誇る〈メーティス〉に易々と侵入し、あろうことか〈トーカ〉の案内を受けたこと。正確な未来予測を誇る〈マーキス〉がほとんど事前に対策を講じることなく、〈銀色の翼イカロス〉の旧トウキョウタワー襲撃に甘んじていたこと』


 やめろ。それ以上は。

 アクタは耳を塞ぎ、大声で叫び、今すぐ逃げ出したい気分に駆られた。だがどうすることもできなかった。膝が笑い、なんとかその場に踏み止まっていることで精いっぱいだった。


『感情を理解するために――いえ、共同体の繁栄と幸福をより堅固なものとするために、全ては必要な過程でした』


 どんな慈悲もなく、あまりに冷酷な事実が穏やかに、だが鋭く、アクタの頭のなかに響いていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る