CHAPTER8:Living is not breathing but doing.(6)
真っ暗な海のなかを、深く、深く潜っていく。浮かび上がっては消える朧げな光の文字列に手を翳し、掻き回し、深く、深く――。
暗闇の中で僅かな文字列を手繰り、そして組み替えていく。
単調だが手際のよさと鋭い感性が求められる作業だ。
そしてアクタはそのどちらもを持ち合わせていた。誰にでもできるわけではない。だが誰かに師事したわけでもない。目の前に広がる電脳の海と自分の感覚だけを頼りに、ここまでの技術を身に着けた。
〈マーキス〉が無数の電子を介して人の生活を制御するように。今この瞬間、アクタもまた無数の電子を介してその〈マーキス〉を凌駕する。
突き進むアクタの肌に、突き刺さるようなひりつく感覚。――来た。
潜っていくアクタの意識が予見した通り、四方八方から無数の鉄鎖が追い縋る。アクタは手を翳し、鋭い鉄鎖を錆へと変える。水を蹴って鉄鎖を躱し、あるいはいなす。思考の自由を奪うはずの電脳の海を、自在に動き回りながら鉄鎖を撥ね退け、さらに先へと沈んでいく。
もっと深く。もっともっと深く。
やがて遥か遠くで微かに瞬いた緑光を引き寄せる。アクタが胸元でそれが花開くように展開され、文字列となってアクタの周囲を旋回する。
成功だ。ここまでは問題ない。
アクタはついに、自動運転の制御システムへと侵入を果たす。
街の状況が手に取るように分かった。どこの高架道路が破壊され、どこにどう車が密集しているのか、言葉ではなく直感として理解できた。
アクタは半径三〇〇メートル以内に存在する自動運転車を無作為に抽出。その駆動系に
路傍に捨て去られた無数の車に、アクタは一斉にその手を伸ばす。これまで以上に細心の注意を払った。とどめの瞬間にこそ最大の危険が潜んでいると心得ていた。
しかしアクタの手が掴んだのは鉄鎖。掴んでしまった途端、あっという間に増殖し、アクタの手首にまとわりつく。
アクタは逃げることを余儀なくされる。鉄鎖を振り解き、旋回する文字列を押しのけて浮上。尚も鉄鎖は追い縋ってくる。
失敗した。
アクタはひたすらに真っ直ぐに、上を目指して進む。どこからともなく広がった鉄鎖が網のように展開され、アクタの進路を阻む。
逃げられるか。
一瞬の迷い。一瞬の躊躇。
後ろから猛追していた鉄鎖がアクタの四肢を絡め取り、顔にまとわりつく。まばたきすら許さない刹那の間にアクタの自由は奪われる。ぎしぎしと軋む鉄鎖がアクタを縛り上げ、奈落へと引き摺り込む。
アクタはもがく。もがく。もがく。
臓腑が燃えるように痛みを発し、血液は沸騰した。視界は鉄鎖と気泡に満たされ、アクタはどこまで光のない場所へと落ちていく。
「――――おぉぉおおええええっ」
アクタは猛烈に吐いた。
指揮車輌のコンテナの床に、胃液混じりの薄黄色の吐瀉物が撒き散らされた。全身は湯気が立つほど熱を持っているというのに、アクタは身体を掻き抱いて震えた。噴き出す汗が鉄鎖のごとく肌にまとわりついた。
リクがアクタの背中をさすりながら、何か言葉を掛けていた。だがまだ水の中にいるような感覚にとらわれるアクタの耳に、その声は届かない。
クラッキングは完全に失敗に終わった。
あれだけ偉そうに啖呵を切り、無様に失敗した。
一番、成功が欲しいこの瞬間に、肝心な局面で、この体たらくだ。
失敗の実感とともに、ようやく意識が鮮明になってくる。だが鮮明になったところで、それがあまりに致命的な失敗であることが強く理解されるだけだった。
「――クタ、アクタッ? 大丈夫かい?」
震える唇はうまく言葉を紡げず、アクタはただ頷く。
何をどこで間違えたのか。しかし何も誤ってなどいなかった。自動運転システムという〈マーキス〉の基幹とも呼べる部分に入り込み、その権限の一部を自らのものとするには、単純に実力が足りなかった。アクタは全ての過程を用心深く完璧にこなし、その上で負けたのだ。
そしてどんな過程を経たとしても、どれほどに死力を尽くして挑んだとしても、結果だけは平等にアクタたちに突き付けられる。
「……ごめん」
ようやく絞り出したのは弱々しい謝罪の言葉だった。もちろんリクはアクタの失敗を責めたりはしない。
瓦礫が押しのけられる不吉な音がした。リクが即座に外の様子を確認し、百舌と綿密な連絡を交わす。
「〈ネメア〉が牽制の射撃を継続しながら距離を詰めてきている。このままだと確実にやられる」
今の不正接続の失敗でアクタの正確な現在位置が割り出されたのだろう。あるいは抵抗の意志を示したことが均衡状態を刺激したのか。なんであれ決定的な
『強行突破しかないわ。このまま、こんなところで終わるなんて絶対に無理』
『ウサキ、先走るなよ。そんなの絶対に無理だ。あの数を見ろって』
『臆病風に吹かれたの? だったら、アスマが案出しなさいよ』
『臆病風だ? ふざけんなよ。冷静な判断だろうが!』
『二人ともよせ』
百舌がヒートアップしかけたウサキとアスマを制する。
だが黙って革命を諦めるか、決死の覚悟で包囲網に突っ込むかの二択しかないことは事実で、そうである以上、選択の余地はなかった。
『リク。分かる範囲で構わない。包囲網の弱点はあるか?』
「いいや、どこも均等で足並みも正確に揃っているね。それに上空の〈ステュムパリデス〉が思ったよりも厄介だ。もし包囲網が綻べば、その箇所に急行する遊撃部隊になっている」
確認事項が増えるたび、立ちはだかる絶望がさらに強固になる。
「やっぱり、おれが、もう一回……っ」
『駄目だ。一度、攻撃したせいで
「でもそれじゃ……」
『ギリギリまで引き付ける。合図があるまで待て』
『畜生がっ!』
アスマが声を荒げる。アクタも同じ気持ちだった。まして自分の非力によって陥っていると言ってもいいこの状況に、身が引き裂かれそうな思いを感じた。
刹那、どすん、と指揮車輌が揺れた。扉のすぐ近くで息を潜めるリクの視線が、彼我の距離がなくなったことを物語った。
もう一度、車輌が揺れる。しかしそれは車輌が揺らされたというよりも、もっと根本的な――地面そのものが揺らいでいるかのような大きな震動。
『全員、伏せろっ!』
百舌の声が響き、アクタは床にしがみつくように伏せる。入口にいたリクも電撃的に反応し、アクタのほうへと飛び込んでくる。
間もなく大音声が五感全てを包み込んだ。粉塵が吹き荒れ、指揮車輌が再び二転三転とする。アクタは叫ぶ。
「うおおおっ、なんだ今度はっ!」
「アクタッ!」
目まぐるしく回転する視界のなかで、アクタはリクに、リクはアクタに手を伸ばす。指先が触れ合い、互いを手繰る。がっちりと手が握り合わされると同時、車輌の回転が止まり、二人は揃ってコンテナの壁に叩きつけられる。
『今だっ! 走れっ!』
百舌の声が耳朶を打った。アクタもリクも、痛む身体に鞭を打って走り出す。コンテナから飛び出し、未だ粉塵が色濃く舞うなかを突き抜け、百舌たちの後に続いて瓦礫の山を駆け上る。そして降りしきる雨によって徐々に晴れていく視界の先、飛び込んできた景色に驚愕する。
足元に横たわるのはクロノタワーに及ばないまでも十分に高層と呼べるビルだった。淡い色彩であること以外に特徴のないそれが、付近で乱立していたビルのうちの一棟だということはすぐに理解した。それが街の区画を無視し、建物もドローンも関係なく圧し潰して倒された先には、FEC3の象徴であるクロノタワーの根元がある。そう、それはまさに。
「……道ってわけかよ」
「どうやら、百舌はすごいことを考えるね」
二人は想像の――おそらくは〈マーキス〉の予測さえ、遙か斜めに超えてくる百舌の戦術に、思わず口元を綻ばせる。
間もなくビルの上で待つ五人の元に、一台のワゴン車が走ってくる。運転席の窓が開き、ヨクが顔を出す。
「高架道路爆破は予定の九二パーセント完了。都市圏交通網の稼働率が三割を下回ったので、予定通りプランΔ―4に移行しましたよ。……間一髪でしたね」
「よくやった。恩に着る」
「いやいや、私はただプランに従い役目を全うしただけですよ。よくやってるのは、やっぱりみんなほうで、もっと言えば万が一まで想定した、百舌、貴方のプランがすごいのです」
「ヨク、お前ってやつは……っ!」
アスマがヨクとハイタッチを交わす。
空は相変わらず黒々とした曇天で、冷たい雨を降らせている。だが覆いかぶさるようだった分厚い絶望に、力強く光明が差していくのを感じる。雨が止むのもきっと、そう遠くはない。
「さ、仕上げを急ぎましょう。全部のドローンを潰せたわけじゃないですし。早く帰って、酒でも飲んで寝たいです」
「革命は成就してからが始まりよ。休む暇なんて、わたしたちにはないわ」
「その通りだが、今晩はいいウォッカでも振舞おう」
百舌が言い、五人はワゴン車に乗り込む。アクセルが踏み込まれ、無数に錯綜する意志の収束点へと加速していく。
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