CHAPTER8:Living is not breathing but doing.(4)

 目的の織香早蕨を見つけるまでに、時間はかからなかった。三階最奥の私室へ辿り着くよりも手前、何気なくチェックしただけの子供部屋にその姿があったのだ。

 その再会に劇的な要素は何一つとしてなかった。

 ただごちゃごちゃと散らかった室内には、子供たちの色々な泣き声が響いていた。咽び泣く子がいれば、啜り泣く子がいた。泣き喚く子がいれば、涙を噛み殺す子がいた。頭を抱えてがたがたと震えている子がいれば、あらゆる感情を削ぎ落したような無表情で頑なに心を守る子がいた。侵入者のなかにリクを見つけ、必死になって何かを泣き叫ぶ子がいた。

 そしてそのどれもを包み込むように、余すことなく守るように両腕を左右に広げた早蕨がアクタたちを見上げていた。

 アスマが油断なくネイルガンを向ける。抵抗すれば撃つと、言外に告げる。子供たちの泣く声が一層激しさを増した。


「そんなもの、下げてください。子供たちの前です。私たちに抵抗するつもりはありません」


 早蕨は言って、左右に広げていた両手を頭上へと掲げた。百舌がアスマの掲げる銃身を掴み、ゆっくりと下げさせた。早蕨は安堵に胸を撫で下ろし、視線をアクタへ、そしてリクへと向ける。


「この短い期間で、ずいぶんと顔つきが変わりましたね」


 早蕨は微笑んだ。前にアクタたちを出迎えたときと変わらない、完璧に作り込まれた慈愛の微笑み。まるで早蕨は、慈しみと優しさを向ければ、どんな相手であっても手を取り合えると頑なに信じているようだった。あるいは今となっては、まるで笑顔を作ることしか知らないような、そんな物悲しさを感じさせるようでもある。

 だが何にせよ、早蕨の微笑みが意味を得ることはない。立ち止まることも、引き返すことも、もう叶わない。

 リクが前に進み出る。今度は百舌も止めたりはしなかった。


「織香早蕨」


 名を呼ぶ声には、育ての親を慕う響きはなかった。リクは凍てつくような冷めた眼差しで、微笑む早蕨を見返していた。


「貴女にはぼくたちと一緒に来てもらう。共同体という時代とともに在り続けた貴女に相応しい、最後の役目がある」

「それがリク、貴方の選んだ答えなのですね」


 意外にも抵抗せず、得心いったように頷いた早蕨に、しかしリクは首を横に振った。


「答え……なのかどうかは分からない。でも今一度問う必要がある。いや、本当は常に考え、問い続けるべきだったんだ。ぼくらは何かに自らの意志と選択を、委ねてしまってもよかったのか」


 それ以上、誰も何も言わなかった。

 状況を理解できない子供たちだけが感情に任せてわんわんと泣いていた。

 どれくらいの時間そうしていたのかは分からない。一時間にも一瞬にも思えたが、きっと実際は数分くらいだろう。早蕨が挙げていた両手を下げた。


「皆、よく聞いてほしいの」


 無防備にもアクタたちに背を向け、子供たち一人一人の顔をじっと見つめた。子供たちはぴたりと泣き止み、無垢な瞳のなかに早蕨を映す。

 だが早蕨が口にするのは決別の言葉だった。


「私はこれから、リク兄とそのお友達と一緒に出掛けなければならないの」

「すぐ帰ってくる?」


 子供の一人が聞いた。確かリクにリエナと呼ばれていた少女だった。

 早蕨は首を横に振った。


「分からない。少し時間がかかってしまうかもしれない。でもね、リエナ。たとえ私がそばにいなくても、いつも貴女たちのことを思って、幸せを願っています」

「やだぁ、いかないでグランマ」


 別の子供が言って、瞳にぶわぁと涙を貯めた。それが溢れ出すより早く、早蕨は子供たちを抱き締めた。子供たちは涙を堪え、早蕨の言葉に耳を傾けた。


「大丈夫です……っ。たとえ何があっても、あなたたちは正しい道を進んでいける。だって私の愛する子供たちだもの」


 早蕨が立ち上がる。足元に縋ろうとする子供たちから目を逸らし、決然とした表情でリクへと向き直った。早蕨の背に、子供たちの悲痛な叫びがぶつかって弾けた。


「……行きましょう。この社会を統べる、女神のもとへ」


 スカートの裾を掴む子供たちの小さな手を振り解くように。早蕨は一歩、また一歩と足を前へと進めて、アクタたちとともに部屋を出る。溢れ出す涙と哀しみを閉じ込めるように、早蕨は自らの手で部屋の扉を閉めた。


        †


 カザナを倒したウサキと合流し、早蕨を乗せた指揮車輌が再び走り出す。

 ハンドルはアスマが握り、助手席には百舌が座った。後ろのコンテナにアクタとリクとウサキ、そして拘束された早蕨が向かい合う。


「――この共同体社会に君臨する女神の正体――阿比留導火アビルトウカは、貴女の実の娘なんでしょう?」


 張り詰めた沈黙を切り裂くように、リクが口を開く。アクタは既に推測できていたから驚かなかったが、壁際でいつものように澄ましていたウサキは目を見開いて早蕨を見た。


「……ええ。その通りです」


 やや間を置いての早蕨の肯定に、張り詰めていた空気は別の種類の鋭さを帯びていった。


「私の娘、導火は世界紛争最中に起きたある国のテロ工作に巻き込まれ、瀕死の重傷を負いました」


 ぽつりと呟くように早蕨が言った。外では予報外れの雨が降り出していた。


「酷い状態でした。腰から下は爆発で吹き飛び、残った上半身も焼け爛れていました。今こうして思い出すだけで、あのときの焦げ付いた臭いが生々しく蘇ってきます」

「だけど脳だけは無事だった。貴女は娘の重傷を理由に、阿比留導火の脳を摘出。その脳構造を人工知能――つまり〈マーキス〉の試作プロトタイプのモデルとした。事実、当時既に人間の脳をモデルにした人工知能という発想は多くあったみたいですね。ですが実際の脳を使うことはできなかった。そんな狂気の研究を許容できるほど、社会は狂っていなかった。それなのに貴女は、自分の娘を好奇心の餌にしたんだ」

「言い訳はしません。当時も脳の摘出は違法でしたし、どんな倫理に鑑みても許されることとは思っていません。ですが、彼女を……導火をどんなかたちでも生き返らせたい。そういう親心のもとで及んだことなのです」

「歪んだ親心ですね」


 リクは吐き捨てるように言った。明らかな悪意を込めた正論に、早蕨はただ黙った。


「つまり共同体社会は、貴女が娘に手向けた壮大で個人的な墓標だったわけです」

「それは違います」

「いいや、違くはない。織香早蕨は、この一世紀以上もの間、人類を騙していたんですよ」


 その口調は明らかに苛烈だった。まるで言葉で相手を切り刻むことを意図しているような、そんな鋭さがあった。


「騙してなどいません! 私は、本当に人々のことを思っていた。導火のような犠牲を、私のような哀しみを、これ以上生まないために、人工知能による統治は実現されるべきだった」


 早蕨が初めて感情を露わにした。慣れないせいか引き攣った声は僅かに荒げられ、表情はほんの少し険しく歪んだ。


「それに〈マーキス〉が証明してきた有用性は揺るぎません。一〇〇年もの間、大きな争いも人が無惨に殺されることもなく、各人が各人に最適化された人生を豊かに歩んできました。その事実は、導火が全てを失って尚、この世界に遺したものは、確かにあります」

「でも謳われるような完璧とは、理想郷ユートピアとは程遠い」


 突き刺すようなリクの鋭い一言を追い越して、それまで静かに話を聞いていたウサキが早蕨に掴みかかった。胸座を掴み、思い切り壁に叩きつける。早蕨は苦しそうに呻いた。


「最適化された人生? そんなもの、どこにあるのよ。ふざけないで。〈マーキス〉はわたしたちから自由を奪った。家族を奪った。悩みを奪った。苦しみを奪った。幸せを奪った。個性を奪った。傷つくことを奪った。が遺したものなんて、何もないわ」

「先天性、現実感応障害……なのですね」


 真っ直ぐに睨みつけるウサキの瞳を覗きこんだ早蕨が苦しそうにそう呟いた。


「ごめんなさい。この社会が謳われるほどに完璧ではないことは、知っていました。貴女のように共同体で生きる上で不可欠な〈パラサイト〉を利用できない人が一定数いることも。もちろん若年層を中心に、自殺者や鬱罹患者が増えていることも。ですが私には、私たちにはどうすることもできなかったのです。全ては〈マーキス〉に委ねられていました。人が介入することは、どんな例外をもってしてもあってはならないことだったのです」


 早蕨は涙を流していた。これまで揺らぐことのなかった完璧な微笑みは消え、罪の意識が彼女の全てを苛んでいた。


「孤児院の運営は罪滅ぼしですか」

「そうかも、しれませんね……。私は二つの罪を犯していました。一つは娘を実験台に、〈マーキス〉を生み出したこと。そしてその結果実現された多数の幸福に満足し、こぼれ落ちる人々の苦しみに目を瞑ったこと」


 早蕨の告解にリクが口角を僅かに吊り上げたのを、アクタは見逃さなかった。

 苛烈な口調も、鋭利な言葉も、あるいはウサキが激情に駆られるのも。全て計算だったのだ。早蕨の心を巧みに操り、篭絡するための。

 次の言葉が仕上げだった。


「ぼくらは〈マーキス〉を止め、新しい社会を築く。それは間違いかもしれないし、困難かもしれない。でもぼくら人が、それを選ぶことに価値があると思うんです」


 リクはウサキに視線を送った。ウサキは納得いかない様子だったが、早蕨から乱暴に手を離した。


「貴女は以前言っていましたね。〈マーキス〉の暴走を監視する役目として生かされていた、と。ならば知っているはずだ。〈マーキス〉のシステムを凍結させるコードを」


 リクは微笑んだ。早蕨に寄り添うかのように、口調が和らいだ。


「もう、貴女の娘を解放してあげましょう。きっと安らかに眠りたいはずです」


 早蕨が小さく頷き、口を開こうとしたその瞬間、突如として足元が傾き、浮き上がり、耳を弄する轟音が響き渡る。

 回転する世界のなかで、アクタたちは例外なく吹き飛ばされる。

 不幸にもコンテナ内の機材に後頭部を打ちつけたアクタの意識は、一瞬で真っ暗になった。

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