CHAPTER8:Living is not breathing but doing.(3)

「…………リク、なん、で……?」


 辛うじて絞り出したような掠れた声は、張り裂けそうな緊張を孕んだ空気のなかに一瞬だけ響いて消えた。だがリクは彼女の悲痛な問いをしっかりと受け止めていた。まるでそれが自らの選択が負った責任であると、自認しているように。


「これがぼくの選択なんだよ、カザナ」

「……そう」


 カザナは唇を噛み、それだけ短く言って腰を落とした。パーカーのだぶついた袖から取り出した、刃渡り二〇センチくらいの黒いナイフが握られた。たとえ見知った相手でも、今なお家族同然に愛している相手でも、容赦はしないと構えが告げていた。

 初めてこの家であったときから、カザナの身体能力の高さと大胆なメンタリティは知っている。その証拠にあの百舌とほぼ互角に渡り合っていたのだ。構成員である彼女が戦闘訓練を受けているはずはないので、さっきの百舌との立ち回りは天性のものなのだろう。粗削りだが、カザナは強いとその場の誰もが理解した。


「ならあたしも選ぶよ、グランマと孤児院のちびたちと、そしてこの社会を守る」

「その意志は紛れもない輝きだ」


 リクは満足そうに言って一歩進み出る。これはきっとリク自身が始末を付けねばならないことなのだろう。だがその歩みを、横に差し出された百舌の腕が遮った。


「ウサキ」

「はい」


 歩みを止められたリクの代わり、呼ばれたウサキが進み出た。腰後ろからスタンバトンを抜いて掌で弄ぶ。どちらかと言えば頭脳担当であるリクやアスマ、まして単純に訓練不足のアクタではカザナに勝てるはずがなかったし、百舌は指揮官として離脱するわけにはいかない。ウサキという人選は実力、ポジションともに申し分ない、最も合理的な判断だと言えた。


「任せられるな」

「もちろんよ。すぐに合流するわ」

「あんまり舐めないでよっ!」


 ウサキの視線が百舌へと向けられた一瞬、動物的な本能で機を察したカザナが踏み込んだ。ほんの二歩で間合いが詰まり、低い姿勢からナイフが突き上げられる。

 耳を劈く鋭い音とともに、火花が散った。


「構成員様にしては、随分と物騒な得物ね」


 ウサキは半歩だけ身体を引き、胸を突く寸前のところで刺突を受け止めていた。互いの吐息が触れるほどに肉薄した二人の視線が絡み合う。


「さすがに本物の刃物じゃないよ。特殊なポリマー繊維を溶かして、作ってみたの。見た目も切れ味もばつぐん」

「でも届かなきゃ意味がないわ」


 ウサキが手首のスナップでスタンバトンを跳ね上げてナイフを弾く。同時に繰り出された前蹴りはしかし、わざと身体を後ろへと投げ出し、ウサキのブーツの裏を完璧なタイミングで蹴りつけたカザナが飛び退いての回避。

 傍から見ているだけでは何が起きたのか理解を躊躇するような、予測不能の曲芸じみた立ち回り。

 トリッキーな動きが相手の心理に生んだ隙を突き、カザナが再び跳躍。あろうことか壁を駆け抜けてウサキを素通り――アクタたちへと迫る。

 しかし遅れながらも反応したウサキによるネイルガンの精密射撃。カザナは釘を躱すために宙で強引に身体を捻る。体勢が崩れて床へ落ちたところ、ウサキがすかさず間合いを詰め、背後の壁へとカザナを叩きつける。


「行って!」


 ウサキが叫ぶ。アクタたちは睨み合う二人の横を通り過ぎ、一刻も早く革命を成就させるためだけに先へと急ぐ。


        †


「かはっ……」


 カザナの喉から抑えつけていたウサキの肘が外される。カザナは苦しそうに喘ぎながらも、ウサキを真っ直ぐ見返す。


「抵抗は無駄よ。織香早蕨は百舌たちに捕まる。あなたがここで身体を張る意味はないわ」


 ウサキは冷酷に告げる。しかしカザナの表情には余裕があった。彼女はもしかすると緊張や不安という感情を知らないのではないかと思いたくなるような、超然ささえ感じる余裕だった。


「あなたさ、あの片目の人のこと、好きなの?」

「はぁ?」


 状況とも、会話の文脈とも全くそぐわない問いにウサキは思わず眉をしかめる。だがカザナが意に介する素振りはなかった。


「まぁ、なんか分からなくもないよ。強いし、なんかミステリアスだし、年上ってだけで心惹かれる気持ちは分かるよ~。あ、でもあたしは年下派。で、好きなんでしょ? じゃなかったらあの場面で戦おうとは思わないよね。だってあたしってば強いから。痛いのも怖いのも、誰だってやだもんね。分かるなぁ。あたしも怖いけど、グランマとか、ちびとか、好きだから戦わなきゃって思ったんだもん」

「…………あなたの陳腐な愛情と同列にしないで」

「ちんぷ? 何それ。誰かを大切に思う気持ちに貴賤も優劣もないんだよ? だから今この瞬間、あなたとあたしがぶつかり合うことにも意味があるはず」


 ウサキはこの女の言っている意味が分からなかった。一瞬、思考に空白が生まれ、その言葉の理解に気持ちが囚われる。だがカザナは拘束されるがままに身を委ね、話し続けていた。その余裕がまるでウサキなど取るに足らないと言われているような恐怖心を僅かに煽った。


「だって考えてみて。あなただって根っからの悪人ってわけじゃないでしょ。何か目的があって、あるいは誰かの目的のために、選んでここに立っている。それは立派な愛。あたしと一緒だよ。どっちが良くて、どっちが悪いとかじゃないんだ。白と黒じゃないんだよ。世の中はだいたいみーんなグレーなの。良いし悪い。だからこうやって向き合って、ぶつかってみなきゃいけないんだよ」

「意味が分からない……っ!」


 ウサキは腕に力を込めた。だが今度はカザナからそれ以上の力で押し返され、とうとうウサキは撥ね退けられる。バックステップで後退するウサキにカザナの回し蹴り。後ろに移動していたおかげで衝撃が軽減されるも、的確な狙いで放たれた蹴りはウサキの腹をきちんと捉えている。

 ウサキは痛みを捻り潰し、着地と同時に前に踏み込む。


「百舌は正しいっ! 人は意志を行使するべきよ。そしてそれを奪った〈マーキス〉は悪いっ!」

「善悪はただの概念装置だよ。あたしたちをただ動かすための力。本質的な善も、本質的な悪もない。愛に優劣がないように。ほんとうの世界は、ちゃんど平等なんだ」


 金色の雷光を迸らせたスタンバトンの一閃をカザナは身を屈めて躱す。そのままウサキの脚を払おうと蹴りを見舞うが、読んでいたウサキはステップを踏んで回避する。ならば、とカザナはしゃがんだ状態から反転。倒立する勢いで振り上げらえた脚がウサキの鼻先を掠める。しかしウサキもネイルガンの引き金を引いていた。至近距離での釘は、さすがのカザナでも躱しきれず、右上腕に被弾する。

 両者の距離が再び開く。


「……結果の平等なんて、欺瞞よ。それは誰かに与えられるものでしかないもの。そこに人の意志が介在しない。わたしという個人が、軽んじられている」

「だって、みんな平等だもん。誰かに特別価値があったり、それを理由に優遇したりする理由なんて本当はないんだよ。真の平等はね、無価値っていう虚無とイコールなんだ」

「そんな冗談みたいな、ディストピア、わたしたちじゃなくたって受け容れるわけがない」

「受け容れるよ。それはまだ今じゃないけどね。それが唯一の幸せにつながる道だって、みんなはもう気付いている。古今東西、争いは価値観の相違から生まれてきたんだもん。なんでだと思う? ほんとうは全てが均一イコールだから。価値なんてなくて、みんな平等だから。そういう真理に気づいた第一歩が〈マーキス〉っていう選択なんだもん」


 カザナが床を蹴った。ウサキもほとんど同時に前へ踏み出す。スタンバトンと手製のナイフが打ち結び、火花と雷光を散らす。


「でもあなたも、そしてあたしも、何かを信じたり、何かを愛したりしちゃうんだよね。それってさ、きっと人は幸せにはなれないってことなんじゃないかなって思うんだ」

「なら尚更、〈マーキス〉なんていらないわ」


 ウサキの繰り出した掌底がカザナの鼻梁を穿つ。踏み止まったカザナは拳を打ち出し、ウサキの右頬を強かに打つ。


「いるよ。〈マーキス〉は調整役バランサーなんだよ。価値を持たずに、不平等を見い出さずには生きられないあたしたちが、価値を持ちすぎないように、不平等を見つけ過ぎないように、全体を計画して調節してくれてる。どうしようもなく不完全で不合理なあたしたちを、理解しようとしてくれている」


 ウサキはよろめきながらもネイルガンを放った。狙いを定めずに引き金を引いたが、奇跡的に釘の一本がカザナの膝を撃ち抜いた。

 カザナは小さく呻いて片膝をつく。一緒に手も床についたので、ナイフが手から離れて床を滑った。カザナはそれでも話すことを止めはしなかった。まるで何かの執念に突き動かされるように、その唇は言葉を紡いだ。


「〈マーキス〉は憧れてるのかもしれないね。彼女は不合理でも不完全でもないから。何度だって間違えるあたしたちを知りたいと思い、そして救いたいと思ってる」

「そんなものは、詭弁よ」


 ウサキは地に屈するカザナに歩み寄り、スタンバトンを振り下ろす。脳天を穿たれたカザナは糸が切れた操り人形のように気絶して床に沈んだ。

 ウサキは息を吐いた。

 勝ったというのに胸の奥底で滲む敗北感に、奥歯を強く噛み締めた。

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