CHAPTER6:Conviction are more dangerous enemies of truth than lies.(4)

 それは異変と呼ぶにはあまりに些細な変化だった。

 足音や呼吸音さえ殺して進んでいた四人の間に微かに聞こえた蠅が舞うような甲高い音。

 あまりに微かで、そのまま何も起きなければ見過ごしていたに違いない。たったそれだけの音だった。

 百舌が何かを警戒して、ウサキが直感で反応して後ろへ跳び退ったときには既に、二人の間を歩いていたチョウヂの首から上がずるりと肩を滑って落ちていた。


「何かいる!」


 ウサキは身を屈めて叫ぶ。その目と鼻の先に、チョウヂの頭が転がってくる。自信と余裕に満ち溢れたその顔は、まだ自分が死んだことなど理解していないようで、半ばで断ち折られた願いや意志に、ウサキは胸が締め付けられる。

 だが感傷に浸る余裕はなかった。たとえ残酷だと謗られようと、冷血だと遠ざけられようと、今は仲間の骸さえ超えて、前に進むしかない。

 ウサキはチョウヂの頭を手繰り、首の切断面を確認する。鋭利な刃物で切られたような綺麗な断面。それも業物の日本刀さえ比較にならないほどの。


「お、おおおお落ち着いて、た、対処しましょう。も、もしかすると、えっと、その、迷彩機能ステルス持ちの、どどどどドローンかもしれません」

「あんたが落ち着いて」


 地面に伏せ、頭を抱えているヨクにウサキは冷たく言う。思考を巡らせる余裕を失ったからではない。むしろヨクの推測が誤りであると即断するだけの冷静さは保たれていた。

 何らかの理由で見えないのは間違いないが、ステルスではないことだけは確信できる。たとえ姿を消していても、物体として確かに存在している以上、動けば空気抵抗の発生は免れ得ない。ウサキはともかく、百舌でさえ動作の気配を感じ取ることが出来なかったのならば、姿を隠蔽するドローンという線は薄い。

 だがヨクの推測を否定したところで、何か別案や対策が思い浮かぶわけでもない。

 正体不明の奇襲に晒され、為す術がない現状は動かない。

 ウサキはせめてもの抵抗と、五感を研ぎ澄ませる。再び、また微かに、甲高い羽音が聞こえた。


「また来る!」


 屈んだ状態から跳ね起き、ウサキはさらに後退。百舌は既に反応。ヨクも慌ててつんのめるように起き上がってまた伏せる。見えない刃が紙一重で擦過。左の頬が浅く切れ、裂かれた白髪がはらはらと舞う。

 抜いたネイルガンを左側の虚空目がけてばら撒く。放たれた釘は壁に弾かれ、突き刺さる。手応えは皆無。


「羽音! それが攻撃の予兆よ!」

「そ、そんなもの聞こえないですって」


 ヨクが声を震わせ、百舌もそれに同意を示す。

 もちろん幻聴ではない。二人と違い、一〇代のウサキだからこそ聞くことのできる音。俗にモスキート音と呼ばれる17キロヘルツを越える高周波音は、加齢とともに人の耳には聞き取れなくなっていく。


「分かったわ。わたしが指示を出す」


 ウサキは目を閉じ、五感を研ぎ澄ませる。

 正体不明の奇襲に晒されるなかで目を閉じるのは恐怖を伴った。人間は情報の七割以上を視覚から得る。それを自ら放棄するのだから恐怖があって当然だ。

 だがウサキは脳裡を過ぎった本能的な恐怖を理性で強引に捻り潰す。

 目を開いていたところで何も見えないのだから意味はない。むしろ今は恐怖を抱えてでも目を閉じること、視覚情報を遮断することによって他の感覚を際立たせるべきだった。

 視覚に頼らず、とチョウヂに偉そうに言ったのはついさっきだ。

 そのチョウヂはもういない。

 自由を求めた彼はその死に様さえ自ら選び取ることはできず、たった一度きりのかけがえのない命は無惨にも切り裂かれて終わった。

 こんな思いを、抑圧を、もう誰にも強いるわけにはいかない――。


「ヨク、左!」


 微かな羽音を研ぎ澄ませた聴覚で捉え、ウサキは叫ぶ。ヨクが怯懦の叫びを上げ、だがしかし的確に右後ろへと回避。ウサキの指示と同時に振り返って踏み込んでいた百舌が自らの腕を盾にしてヨクと何もない空間との間に割り込む。

 火花。

 百舌のジャケットの左袖だけが切り裂かれ、鋼の義手が露出。容易く骨肉を抉る刃であっても、特殊炭素繊維を織り込んだ合金の腕は切り裂くことができない。

 百舌はそのまま強引に腕を薙ぎ払い、壁に腕を叩きつける。波状に亀裂を走らせた壁から、粉塵に混じって何かが床を転がった。

 それはまるで糸だった。

 目を凝らして注意を向けていなければ見えなくなってしまいそうな、極細の糸。慎重にそれを拾い上げたウサキの掌が、あまりの鋭利さに浅く切れる。


「ワイヤーワームか」


 ウサキは百舌が発した聞き慣れない言葉に首を傾げる。


「暗殺用の小型殺傷兵器だ。糸のように見えるのは分子機械が高密度で連結しているからだ。持ち運びなどでは分離状態で専用のケースに収められているせいで検知器などに引っ掛からず、一度連結してしまえば命を切り取るなど造作もない暗器になる。まさかな共同体でこんな代物に巡り合うとはな」


 ウサキはその説明をなんとなく理解し、頷いておいた。

 百舌の生まれはFEC3ではないらしい。らしい、というのは外から共同体に入り込むという芸当が可能なのかが未だに信じられないからで、かつて百舌が溢した昔話を信用していないからではない。

 百舌曰く、共同体社会という平和を実現したのは世界の半分と少し程度らしい。世界の残りはどうしているかと言うと、世界紛争の恨みつらみを引き摺って争っていたり、地獄が生温く思えるほどに荒廃して文字通りの不毛の地に成り果てているそうだ。

 百舌はそうした地に生を受け、ずっと傭兵として戦場を渡り歩いていたのだという。どういう経緯があってFEC3に辿り着き、そして手に入れたはずの安寧を棄てて再び闘争に身を委ねることになったのか、ウサキたち〈銀色の翼イカロス〉のメンバーたちは知らない。

 重要なのは百舌の信念が本物であり、そしてそれを貫くための知恵と力を彼が持っている――自分たちを導くに相応しい存在である、ということだけだ。


「対策はあるの?」

「ああ、無力化する方法はある。だがそれを実現する手段がここにはない」


 百舌があっさりと認めるや、ウサキの耳にまたあの羽音が響く。


        †


 およそ半数にまで減らされたドローンの残りを重要なポイントに再配置し終えたアスマのもとに百舌からの連絡が届いた。


「ワイヤーワーム……。んだよ、そんな隠し玉ありかよっ」

「ワイヤーワーム? さっきの見えねえドローンの話か?」

「ドローンなんかよりずっと性質悪いぜ、こりゃ。暗殺特化のハイテク兵器だとよ」

「暗殺っておい……」


 アクタは呆然と呟く。

 あの日〈トーカ〉は、〈マーキス〉が幸福と繁栄を目指していると言った。

 あの日〈トーカ〉は、個人の幸福を決して軽視することはなく、それでいて社会を繁栄させていく完璧なビジョンを語った。

 あの日〈トーカ〉は、フリーターや共同体に不満を抱くものを包摂していくことの重要性を、アクタたちに示してみせた。

 だが今こうして〈マーキス〉はその判断によって、明確に共同体構成員の命を摘み取っている。

〈マーキス〉が嘘を吐いたのか――。

 完全無謬の存在である機械知性が、人間を騙す嘘を吐くのかどうか分からなかった。だが〈マーキス〉に矛盾や撞着があり得ない以上、これは合理的かつ最適と判断された上で下された判断であることに間違いはない。

 何が起きているのか、理解するのに時間を要した。そしてアクタは自分が思いの外〈マーキス〉を信頼していたことに気づく。

 それは方向性の違いはあれど、人が幸福であることについて、真摯に考え抜いているに違いないという、今となっては的外れの、根拠のない信頼だった。

 もしや〈CLASS〉の低い、あるいはフリーターとして共同体に背を向けた者など、もはや守るべき構成員ではないとでも言うつもりなのか。

 そう思うと、腹の底から怒りが湧いてきた。無造作に人を殺したことに。心の片隅に残っていた信頼を、裏切られたことに。


「――なあ、おいってば!」


 アクタはアスマに肩を揺すられ、一瞬遠退いていた現実に戻ってくる。だが思考を満たす怒りの感情が収まることはなく、沸々と煮えている。


「いいか、あともう一度しか言わねえぞ。それと早く判断して行動しろ。このままじゃ皆が死ぬ。ここで死んだら覚悟も願いもあったもんじゃねえ。ただ死ぬ。それだけは、俺っちぜってえに認めるわけにはいかねえ」


 アスマの声は真剣みを帯びていた。ついさっきまで醸されていた余裕はなく、本当に追い詰められているようだった。


「百舌がこのワイヤーワームとやらの鎮圧にお前を頼れと言ってる。どういうことだ? 俺っちに手伝えることはあんのか?」


 自分が何を求められ、今何をすべきなのか、もう分かっていた。百舌がアクタのについて調べ上げていたことには多少驚いたが、今は些事だった。それにリクならば即座に行動に移すに違いない。

 いけるか――。

 そう自分に問うた。

 答えは分からなかった。怒りに任せて判断するべきじゃないということが、性急な判断が必要だからこそ慎重になるべきだということだけが、分かっていた。

 もし百舌たちを選べば、アクタが越えなければならない壁は見果てぬほどに高い。失敗すれば〈銀色の翼イカロス〉の壊滅と運命を共にすることになるだろう。そんなのは絶対に御免だ。

 一方、きっともしここで逃げ出せば、おそらくアクタとリクだけは助かるだろう。〈CLASS1〉だからと言って死ぬわけではない。たとえ周縁に追いやられようと、まだアクタたちはこの共同体で生きることができる。

 だがアクタのそんな考えを破って捨てさせるように、視界の端にあった施設内部を映している映像に見覚えのある後ろ姿が映り込む。

 その後ろ姿はモニター越しのアクタの視線を感じ取ったとでも言いたげに、立ち止まってゆっくりと振り返る。


「どうして……どうしてリクがそこにいるんだよ……っ」


 アクタの悲痛な呟きがリクに届くことはなく、モニターのなかのリクがゆっくりと右手を差し伸べた。まるであの日――アクタを〝自由研究〟に誘ったあの時を、なぞるように。

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