CHAPTER5:Beyond a certain point there is no return. This point has to be reached.(7)

 部屋のなかは薄っすらと靄がかかったように煙たく、よからぬものを燻したと言わんばかりの悪臭に満ちていた。どうやら香の匂いや一朝一夕で立ち込めたものではなく、幾年も、それこそ壁の奥底まで染みついたような臭いのようだった。

 まずソファがあり、ガラステーブルがあった。棚や鏡なども一通り揃えられていて、簡素なベッドが置いてあっただけのアクタが目覚めた部屋とは大違いだ。人が生活できるだけの設備はあるものの、肝心の誰かが生活しているような気配は一切ない。塵の一つさえ落ちていない部屋は、臭いだけを除けばモデルルームか何かのようだった。

 アクタは部屋の奥にある扉へと向かう。それが正しい行動かは分からなかったが、アクタは扉をノックする。どうやら大きく不正解ではなかったようで、入れ、と野太い声が響いた。アクタは扉を開けた。

 まず目に入ったのは対角線上の壁際に立っているウサキの姿だった。白髪はつはつと美貌のせいか、物言わず立っているだけだと精巧な人形のように見えて不気味だ。

 一瞬睨まれたような気がしてアクタはすぐに視線を逸らす。黒塗りの机の上に浅く腰かけて煙草を燻らせる、偉丈夫の姿を見つける。

 白髪交じりロマンスグレーの長髪を後ろで結わき、右眼には黒の眼帯。垂れた前髪越しの左眼は碧玉サファイアのような青色で、希望と絶望を均等に混ぜたような複雑な光を宿していた。肉体は頑健、まさに巌そのもので、アスマよりも一回り大きい。ジャケットの上からでも分かる分厚い胸板は、単なる飾りではなく闘争のための筋肉だと、動物的な直感で理解できた。


「何ボケッとしてるの。早く座りなさいよ」


 立ち尽くしていたアクタを見かねてか、ウサキが睨む。まだ何か追い討ちとなる言葉を吐こうとしていたが、男が左腕を上げ、ウサキを止める。

 そこでようやくアクタの意識はウサキが見やったソファに向かう。ゆったりと腰掛ける後ろ姿に、アクタは安堵とともに平静を取り戻す。


「リク」

「やあ、アクタ」


 話したいことは山ほどあったが、交わす言葉は少なかった。ただ名前を呼び合うだけで、リクがこの男との対話を求めていると、アクタは理解した。小さく頷き、リクの隣りに腰を下ろす。


「さて」


 男が口を開く。威圧的な風貌とは裏腹に、思わず聞き入りたくなるような安心感のある声。


「まず謝罪する。特にヒナキのほうだ。手荒な真似をして悪かった」


 男は頭を下げる。いきなりの謝罪に面を食らったアクタたちは、咄嗟には返す言葉が出て来なかった。


「俺たちの正体について、きっと勘づいているだろうし、直接聞いたりもしただろう。俺たちは〈銀色の翼イカロス〉。俗にいう、革命派のフリーター集団だ」


 男の声には真摯な響きがあった。


「そして俺はそのリーダー。百舌もずと名乗っている」


 男――百舌はそう言ったが、もちろん彼の横に浮かぶ〈COde Me〉には彼の本名が記されている。どうしてそんなコードネームを使うのかは分からなかったが、アクタはひとまず男を百舌と、名乗られた通りに認識することにした。


「君たちの〝自由研究〟について、興味深く拝見させてもらった。どういう手口であそこまで辿り着いたのか気にならないわけではないが、まずは素直に称賛したいと思っている」

「運が良かった。もし説明するならそれに尽きますよ」


 不敵で獰猛な笑みを向けた百舌に、リクが穏やかに返答する。


「それに、こうして招いて頂けて実に光栄です。ぼくらからすれば、貴方たち〈銀色の翼イカロス〉は命の恩人です」


 アクタはちらとリクを見やる。リクの〈COde Me〉もまた、アクタと同じ〈CLASS1〉を示していた。


「それはあくまで偶然だ。俺たちはお前たちが〈CLASS1〉だろうと〈CLASS5〉だろうと、同じように迎え入れたさ。――それは俺たちが、お前たちの力を必要としているからだ」


 百舌の声が鋭さを帯びた。懐に容赦なく切り込んでくるような。だがそれでいて強引さは欠片も感じさせない。

 だがここまではアスマの話で想定できる範囲内。目の前の男を、あるいはこの男が作る組織を見定めるために、冷静であることを言い聞かせる。


「俺たちは革命のために集まっている。生きるという行為を、人の手に取り戻すため。意志と自由を称賛し、研磨と衝突を繰り返すことこそ、人間の生だと思っているからだ」

「革命。甘美な響きですね。共同体に馴染めないでいる若者を乗せるにはもってこいの言葉だ。ですが、具体的には?」


 リクも一歩も退くことなく言葉を返す。言葉の内容とは裏腹に、リクは百舌の提案に乗り気であるように思えた。


「それはまだ言えない。全ての計画の実行には万全を期す必要がある。まだ同志ではない奴に、おいそれと話してやるわけにはいかない」

「それもそうですね」


 リクが頷き、百舌が眉を動かす。吐き出された紫煙が広がって消える。

 アクタはそこでようやく二人の会話に割り込むことができた。


「待ってくれよ。あれは実際の会話を繋ぎ合わせた作り物フェイクだ。何も、〈マーキス〉は個人の幸福を軽視しているわけじゃない。むしろ社会の繁栄の前提に、個々人に最適化された幸福の実現があるとすら考えてる。〈マーキス〉は、おれらが思うよりもずっと――」


 だがアクタはそこで口を噤んだ。百舌という反〈マーキス〉を掲げる組織の頂点に向かって、おれらが思うよりもずっと、理想的な統治機構だ、とは口が裂けても言えるはずがなかった。


「ずっと、何だ?」

「……いや、何でもない」

「そうか。だがヒナキ、俺はもちろんあれがフェイク動画であることなんて知っている。それを承知で革命の志を続行し、お前たちの協力を欲したんだ。だから重要な問題はそこじゃない。さらに今お前が口にした〝幸福〟ってやつでもない。俺たちが問題にすべきは、自由と意志の問題だ」

「自由と意志……」

「そう、俺たちは今奪われている。自ら考え、悩んで迷い、そして全ての結末を引き受ける覚悟をもって選択するという行為を。もちろん俺たちに〈マーキス〉のように未来を見通すような演算はできない。だから間違えるだろう。あるいは間違いだと分かっていながら、感情などに振り回されて不合理な選択をすることだってあるだろう。それはきっと幸せなことだけじゃない。むしろ苦しいことのほうが多いかもしれない。だがな、俺はそれが生きるってことだと思っている。用意されたレールの上を、流れていくだけの人生に、果たしてどんな意味があるとお前は思うんだ?」


 そんなものにはクソ程度の意味もない。だから世界を引っくり返す。百舌の獰猛な双眸が、そう何より雄弁に語っていた。

 与えられるだけの人生や幸福に意味がないことなどアクタだって知っている。知っているからこそ苦しみ、満たされない思いを抱えたまま過ごしていたのだ。

 そして共同体で生きる以上、〈マーキス〉の慈愛に背を向けることは全てを失うも同然だ。真正面から立ち向かうなど以ての外で、子供心に夢想することはできても、実現しようと行動するなど狂気では足りない。

 少し考えてみれば分かることだった。

 覆せなどしない。従順も反逆も、空虚で無意味で、救いがないのだ。


「無理だ、と思っている顔だな」


 百舌はアクタの心を読んだかのように言った。


「もちろん簡単にいかないことは分かっている。多くの犠牲を払うだろう。誰も彼もが傷つくだろう。だがそれでも、俺は自分の人生を自分の意志で生き抜きたい。そう思ったからこそ、お前たちは〈マーキス〉の対話用インターフェースを探したんだろう? ならば答えなんて、とっくに出ているはずじゃないか?」


 アクタは百舌の問いに口籠る。この男の言うことの全てがその通りで、だからこそ返せる言葉が見当たらない。あるいは何か返してしまえば、それこそ本当に取り返しのつかないことになってしまうような予感がしていた。

 長い沈黙が流れ、やがて観念したように百舌が肩を竦めて沈黙に終止符を打った。


「まあいい。答えは今じゃなくてもいい。お前たちにはまだ、俺たちを見定める時間が必要だろう。どんな結論だろうと、それが自分自身の意志で選んだものならば俺は尊重する。だからよく考えてみてくれ」


 百舌はフィルターぎりぎりまで短くなった煙草を灰皿で揉み消し、新しい煙草に火を点ける。

 隣りに座るリクは、アクタよりもずっと先の、全く別の何か見ているかのように、その眼差しに興奮と緊張を湛えていた。

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