CHAPTER5:Beyond a certain point there is no return. This point has to be reached.(6)

 無窮の暗闇に薄ぼんやりとした光が灯る。

 長い時間をかけて少しずつ結んだ焦点は、灯った光が蛾の集る電球だとまだ朧げな意識に理解させる。ゆっくりと深く吸い込んだ空気は、塩辛いような生臭いような嫌な味がした。

 おれは一体――

 アクタはそう呟こうとしたが、喉の奥が焼けるように痛み、声の代わりにみっともない呻き声が出るだけだった。痛んだのは喉だけではない。身体を起こそうとしては腕や背中が古びた椅子みたいに軋み、脚に関してはまるで全ての筋肉が鉛にでも変わったかのように重い。

 アクタは身体を動かすことを諦め、明確になりつつある視界で天井を見つめる。肉体に反して、思考は思いのほか明瞭だった。

 まず曖昧な記憶を辿った。

 台風接近のせいで雨が降るなか、アクタは近所のスーパーマーケットに向かった。そしてセルフレジでの会計中、ウサキと名乗る白い髪の女に銃を突き付けられた。

 そう、銃を突き付けられたのだ。

 だが問題はそれに止まらない。撃てない拳銃のブラフを気取ったアクタは隙を突いて逃げ出し、警備用ドローンに助けを求めた。しかしどういうわけかアクタは知らないうちに〈CLASS1〉へと転落していて、拘束を勧告された。アクタはウサキとともに逃げるほかなく、追跡用の軍事ドローンまでもが追い駆けてくるなかを必死になって逃げた。

 逃げ切れたの、だろうか。

 アクタが悪寒を感じて息を呑み、想定できる状況の最悪に思わず眩暈を感じたそのとき。答えは向こうのほうから訪れた。


「目、覚めたのね」


 忘れもしない冷たい声。続いて電球とアクタの間にぬっと入り込んで顔を出す女。見下ろす薄茶の瞳には初期設定で侮蔑が組み込まれているのではと思いたくなるような酷薄さが宿る。アクタを巻き込んだ張本人であり、高慢さの塊のような嫌な女。


「安心していいわ。ここはわたしたちのアジト。少なくとももうハウンドは追ってこないから」


 ハウンド――首のない鉄の猟犬。その名前を聞いただけで、不気味なフォルムと駆動音が蘇り、アクタは身震いする。


「……逃げ切った、のか?」

「そう言ってるわ。何度も言わせないで」


 ウサキは突き放すように言った。


「……そんなことより、早く服着たら? いくら夏でも、さすがに風邪引くと思うわよ」

「……は?」


 アクタは間の抜けた声を出し、恐る恐る自分の格好を確認した。全身に走る激痛など関係なかった。最悪の場合、痛みよりも遥かに大きなダメージを受ける。それこそ曲がりなりにも思春期の男子として、立ち直れなくなるくらいのとびきりのやつを。

 果たして自分の状況は最悪だった。

 簡素なベッドの上。腕や胸には治療したらしい包帯が巻かれているが、最も隠したい大事な場所は何も隠れていなかった。つまり胸より下――主に下半身が丸出しだった。


「な、なんでっ――ぅぐっ、っだか、なんだよっ!」


 半ば咳き込み混じりに、叫んだせいで胸に走る疼痛にも耐えながら、アクタは叫んだ。顔は火が出そうなほど熱く、反してもう一人のアクタのほうは何とも元気も威勢もなく頭を垂れていた。ウサキの眼差しは感情を微塵も感じさせない冷徹で、アクタの羞恥心は必要以上に膨れ上がる。


「雨で増水した川にトラックごと突っ込んだでしょ。下着までドロドロだったし、怪我もしてたから仕方なかったの。それにもちろんわたしがやったんじゃないわ」

「ったりめえだろ!」

「なに怒鳴ってるの。みっともないついでに早くその情けない身体を隠しなさい」


 強烈な、アクタの精神を完膚なきまでに叩き潰す言葉の暴力だった。


        †


 綺麗に洗濯された自分の服に着替えていると、出て行ったウサキの代わりに誰かが部屋に入ってくる。

 ひょろりと高い上背に、長い手足。茶色がかった赤毛のオールバックを左手に持った櫛で丁寧に整える。瞳は煮込んだ飴のような琥珀色で、どこか浮世離れした、まるで古い映画に出てくる吸血鬼のような出で立ちだった。


「よう、着替え終わったらちょっと顔貸してくれ。うちのボスが待ってんだ」


 声には聞き覚えがあった。スーパーマーケットに突っ込み、精密かつ荒々しい運転でアクタとウサキを救出したあの運転手だ。

 アクタはほとんど染みついた習慣で運転手の頭の横に浮かぶ〈COde Me〉を見やる。名前と〈CLASS2〉であること以外は全て白紙ブランクだった。

 露骨に警戒したアクタに、運転手はやれやれと肩を竦める。


「そういやぁ、まだ名乗ってなかったな。俺っちはアスマ。飛鳥馬・フォン・イェンクナー。よろしくな、アクタ」


 アスマは言って右手を差し出す。アクタは数秒躊躇い、だが助けてくれた恩があることを思い出して恐る恐るアスマの手を握り返した。



 アスマに案内されて部屋を出る。

 建物はどうやら古いホテルか何かのようで、左右に伸びた廊下には真正面に重ならないようジグザグに、同じような扉が何枚も並んでいる。部屋にも廊下にも窓はなく、明かりは等間隔で並ぶ電球だけ。どこから入り込んでくるのか、やはり廊下の明かりにも蛾が集っている。


「一体何が目的なんだ……」

「おいおい、そんなビビるなよ。お前さん、〈CLASS1〉になっちまってんじゃねえか。あの状況で俺っちらが助けに入らなきゃ、今頃とっ捕まって透明人間だぜ?」

「あんたらが絡んできたせいだろ」

「やれやれ。このクソったれ社会にそんな忠誠心示すようなタマじゃねえだろ? それに心当たりくらいあるっしょ。俺っちらの目的」


 前を歩くアスマが肩越しに自分の背中を指差す。漆黒のワークジャケットの背に白銀の糸で丹念に施された、剃刀のような翼の刺繍。


「分からねえから聞いてんだよ」


 アクタが吐き捨てると、アスマはやれやれとまた肩を竦めた。


「どうやら首謀者はお友達のほうみてえだな。冷静で適応力は高いが、どうにも察しが悪い」


 アクタはアスマとの距離を詰め、思わずその肩を掴み、背から壁に押し付けていた。


「リクがいるのか? あんたら、リクも攫ってきたのか?」


 ほとんど詰め寄るような口調。頭一つ分は背の高いアスマを下から睨み上げる。アスマは堪忍したように両手を挙げる。


「おいおい落ち着けって。そうだ、ミシナリクも連れてきてんよ。もちろん何も手荒なことはしちゃいねえよ。もっとも向こうはすんなり付いてきたおかげで、あんな派手な有様にゃなってねえみてえだが」


 アクタは息を吐いた。リクが散々な目に遭っていないことへの安心か、それとも一寸先が闇のこの状況でリクが一緒にいるという安堵か、よく分からなかった。


「そもそもだ、俺っちらはお前らの敵じゃねえ。むしろ味方でいたいとさえ思ってる。それを選ぶのはこれからのお前らなんだが、少なくともこっちに敵意はねえ」

「そんな言葉、信じろって言うのか?」

「逆に訊くが、公共性はまずお隣さんを信用するとっから始めるって、学校で習わなかったのか?」


 アスマはお道化るように、初等教育で耳が痛くなるほど聞かされ深層意識にまで刷り込まれる共同体的道徳の決まり文句を口にする。アクタは苛立たしげにアスマから手を放す。

 そこからは二人とも無駄口を叩かず、張り詰めた空気のなかを歩いた。

 もっとも張り詰めているのはアクタだけで、その苛立ちを刺激しないようにアスマのほうが口を噤んでいたに過ぎない。

 階を二つ下り、突き当たりを右に曲がって進んだ最奥で、ようやくアスマが立ち止まる。扉をノックしてアスマがアクタを連れてきた旨を伝えると、返事の代わりに解錠音が聞こえた。


「……最後にもう一度言うが、俺っちらはお前らの味方だ。信じるも信じないも、選ぶも拒むも、お前次第だがな。俺っちらはお前らの決定を、選択を、意志を、尊重する。だからアクタ、お前は自分自身にだけ従えばいい」


 アスマは扉に手を掛けたまま、念を押すようにアクタに言った。そこまできて、ようやくアスマやウサキが何者であり、どんな経緯とどんな目的でアクタとリクを連れてきたのかを悟る。

 少なくとも、アクタたちにとってこの出会いはそれほど悪いものではなく、アスマの言葉も信じるに足るものに違いない。


「さ、俺っちら、つまりは超イカしたフリーター集団――〈銀色の翼イカロス〉のボスがお前を待ってるぜ」


 アスマは言って、勢いよく扉を開く。

 もうどこにも引き返せないことを知りながら、だが後悔よりも言い知れぬ興奮を胸に抱いて。

 アクタはゆっくりと一歩を踏み出した。

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