CHAPTER5:Beyond a certain point there is no return. This point has to be reached.(3)

 長雨が窓を打っていた。ニュースは大型台風の接近を伝えている。この調子で進めば週明けにFEC3の南側を掠めていくらしい。〈マーキス〉がどれだけ繁栄と平和を築こうとも、こういう自然の脅威だけはどうしたって拭い去れないのが摂理らしい。

 アクタはソファの背もたれに身体を預け、〈パラサイト〉の中央に浮かぶ一枚の画像を眺めている。

 作られた表情ではなく、自制された笑顔ではなく、溢れ出る感情をそのまま表に出したような淀みのない真っ直ぐな笑顔。自らの肉体を機械に置き換え、社会への献身を誓うよりも前、一人の個人――母親としての織賀早蕨。

そしてその娘。とびきりの美人というわけではない。だが素朴な愛らしさのなかに、親しみやすさが滲むようで、きっと誰からも愛されるような人生を送っていたのだろうとアクタは思う。

 そう、それこそ共同体社会の統治機構〈マーキス〉がそうであるように。

 阿比留導火。彼女は一世紀以上前、確かに生きていた。だがその存在を示すほとんどの公的記録は消されている。

 彼女はどこに消えたのか。なぜ消えたのか。

 辿り着いた目的地が、新たな疑念を、問いを提示する。

 リクの言う通りだった。

 アクタたちの〝自由研究〟はまだ終わってなどいないのだ。それどころか、ここが本当の意味では始まりなのかもしれない。すぐ背後にまで迫りつつある嵐の予感が、静かに、だが確実に緊張感を高めていた。

 アクタは気を紛らわすように両腕を頭上へ伸ばし、ソファから立ち上がる。大したことはしていなかったが、頭を使ったら腹が減ってきた。キッチンへ行って冷蔵庫を漁るも、夏休みの終盤にかけて怠惰に引き籠っていたせいか買い溜めてあったはずの合成食品は切れていた。


「仕方ねぇな……買い行くか」


 アクタはちらと窓の外を見やり、深く息をつく。



 住宅街のはずれにある自宅から歩いて一〇分と掛からない場所にある、比較的大きなスーパーマーケットにアクタは向かった。雨足は徐々に強まっていて、到着――マーケットのネットワークにリンクした〈パラサイト〉に歓迎のテロップが流れるころにはすっかり濡れ鼠になっていた。

 アクタは速やかに目的を果たすべく二階の食品売り場へと向かう。スーパーマーケットは楕円状で中が吹き抜けになった構造になっていて、エスカレーターに乗りながら施設全体をぼんやりと見渡すことができる。台風が近づいているというのに、あるいは近づいているからこそなのか、どの売り場もそれなりに人で賑わっていた。

食品売り場に着いたアクタは、合成食品なんてどのメーカーであっても大して変わらないので、最初に目についた銘柄のそれをてきとうに掴んでかごに入れていく。

 合成食品というのは北海道全域の穀倉地帯で生産される加工麦をベースとして作られた万能食品であり、FEC3に流通する食品のほとんどがこれを基本とした加工食品になる。要は共同体以前でいうところの米やパンであり、同時に肉や魚、野菜などの天然食品としての役割も持っている。合成食品は非常に高い栄養価と長い保存期間がうりなのだが、ある程度しっかりと味付けをしないと食えたものではない。アクタとしてはカカオやサトウキビをメインに加工している菓子類のほうが好みだが、あまり余計なものを買い込んでいると出張から唐突に帰ってくる父に叱られるのでおいそれと買うわけにもいかない。

 アクタは一週間分の合成食品と一食分のスナック菓子を買ってセルフレジへと向かう。


「――随分と味気ない食事ね」


 バーコードを一つ一つ読み込ませていると、すぐ後ろから冷ややかな女の声がした。ささやくように小さいが、はっきりと耳元で。


「そのまま手を動かして」


 アクタが反射的に振り返ろうとすると、鋭いささやきでそれを制される。声と一緒に、アクタの肩甲骨の少し下に冷たくて硬いものが突き付けられる。

 それが銃口だと直感的に理解できた。アクタの背筋を、嫌な汗が伝う。


「一体、何なんだよ……」

「質問には答えない。貴方にできるのは、ただ従うことだけよ。そうでないと、わたしの人差し指に変な力が入りかねないわ」

「変な冗談はやめろよ。大体、どうやってそんな物騒なもん――」

「冗談は嫌いなの、わたし」


 ぐり、と銃口が押し付けられる。アクタは諦め、命令されるままに全ての商品のレジを通し終える。〈パラサイト〉に浮かび上がった支払い認証に指で触れ、口座からの自動引き落としで支払いを完了させる。


「殊勝な態度だわ。目の前で起きる現実に対して従順、疑いを持たない姿勢は、実に優秀な構成員ね」


 女が小さく笑う。その嘲るような、侮るような乾いた響きに、アクタは内心で舌を打つ。


「そんなもん突き付けられりゃ誰だってこうなるだろうよ」

「レジを抜けたら右に二二歩。そして二時の方角に一七歩」

「は? 何言って――」


 言いかけたアクタの背後で、問答無用と言わんばかり銃の撃鉄が起こされる冷たい音。アクタは続く言葉の代わりに深く息を吐き、言われた通りに歩き始める。

歩数を数えて歩きながら、自分が置かれた状況を整理する。

 アクタは単に買い物にやって来ただけ。もし誰かに狙われる心当たりがあるとすれば、それは〝自由研究〟について以外にあり得ない。だが具体的に誰がどんな目的で狙ってくるのかと考えれば、それは全く見当がつかなくなる。

 そして現在、本物か偽物か拳銃を背中に突き付けられている。相手は女だし、一対一で真正面から挑めばそう簡単に負けはしない自信はある。だがアクタが振り返るよりも女が引き金を引くほうが何倍も早いに違いないし、もし何かの幸運で女を制圧できたとしても彼女の仲間が隠れていない保証はどこにもない。

 今は大人しく従っておくしかない。

 分からないこと、おかしなことが多すぎるのだ。

 そもそもどうして周囲のスキャナは何も反応しないのだろうか。マーケット内には支払い時の生体認証のみならず、無数のスキャナが設置されている。これはセキュリティ上の理由もあるが、それ以上に客の移動経路やテナントの混雑状況をリアルタイムで監視することで区画の整理や今後の商品展開の参考にするためだ。だがそれは死角なしと言っていいほどであり、他人に拳銃を突き付けるような輩がいれば、リンクする警備用のドローンが反応して然るべきなのだ。

 スキャナだけではない。すれ違う人々も、誰もアクタを助けようとはしなかった。スキャナが感知しない状況は当然〈マーキス〉も知らない。つまり誰の〈パラサイト〉も、アクタを助けるという行為に最適化されることはない。

 アクタはそこまで考えてゾッとした。

 共同体社会の模範的な構成員であればあるほど、〈マーキス〉の指示なしに誰かに手を差し伸べたりはしないのだ。助けるべきも、寄り添うべきも、全て機械仕掛けの女神あってのものなのだ。


「止まって」


 女の声でアクタは立ち止まる。もっとも女が何を言わずとも立ち止まるほかにない。目の前に、通過には従業員IDか入館証の読み取りを必要とする扉が厳然と立ち塞がっていたからだ。


「行き止まりだぜ」

「黙ってなさい」


 アクタの挑発的な言葉にも、女は強情な態度を崩さない。そして間もなく、扉上部のランプが赤から青へと代わり、扉が左右に勢いよく開く。もちろんアクタたちはIDなど持っていないし、反対側にも誰の姿もない。


「……まじかよ」


 アクタは銃口で背中を押され、従業員用通路のなかへと入っていった。

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