第二部 アルケイデスの選択
CHAPTER5:Beyond a certain point there is no return. This point has to be reached.(1)
閉めきった窓越しに、蝉の声が聞こえる。
世界紛争の時代は、たとえ夏であっても荒涼と静かだったというのはアクタには少し想像し難い。もし本当だとしたら、鬱陶しい蝉の声も少し愛らしく思えるような気がしたし、一度根絶やしにされかけてここまで復活した種としての力強さには素直に称賛を贈りたい。
蝉が忙しなく自らのつがいを探して日照りのなか声を枯らす一方で、アクタはクーラーの効いただだっ広いリビングで流れる時間を怠惰に消費し続けている。
もし出張続きの父がいたとしても持て余す大きさの三人掛けソファの背もたれに足を乗せ、座面に寝転がる。手を伸ばせば届く距離にあるサイドテーブルには、溶けかけたアイスと食べかけのスナック菓子の袋。
〈メーティス〉から帰って以来、アクタはずっとこの調子だった。
ついこの前まで寝ても覚めても胸の真ん中に巣食っていた熱っぽい感覚は靄に絡め取られて見当たらなくなっていた。月並みな言い回しだが、心にぽっかりと空虚な穴が空いてしまったようだった。
リクとともに薄氷の上を渡るような危険を冒し、紙一重の幸運で〈マーキス〉の対話用インターフェース〈トーカ〉の元へと辿り着いた。そして繰り広げられる対話のなかで、〈マーキス〉がどれほどに優れた統治機構であるかを見せつけられた。振りかざされる正論に、アクタたちが反論できる余地はなく、その有用性と人類社会への献身は認めざるを得なかった。〈トーカ〉が消えたあと、指示通り〈ポーン〉の誘導で〈メーティス〉から脱出したアクタたちは、交わす言葉も少なく、帰路に着いた。
あの日以来、リクとは連絡も取っていない。
まるで泡沫の夢でも見ていたような気分だった。
あの日、屋上でリクの手を取ったことも。
そして社会を統べる
全てが遠い昔の、ともすれば見聞きしただけの作り話や絵空事のように、急速に色褪せていくようだった。
「くそっ」
手に取ったアイスが棒から崩れ落ちて皿に残る。アクタは横たわったままの情けない格好で、苛立たしげに吐き捨てる。代わりにめいいっぱいに伸ばした手でスナック菓子を鷲掴みにし、口へと放り込む。そして今度は、味と呼ぶには控えめな水で薄めたようなほのかな塩味に内心で毒づく。
アクタの〈パラサイト〉上では、ずっと〈マーキス〉推奨の公営放送が流れている。いつものデッドコンテンツではなく、公営放送を流すくらいにはアクタは無気力で、無感動になっていた。
最初にやっていたはずの退屈なコメディ番組はいつの間にか終わり、ウインドウのなかでは織香早蕨がアナウンサーやタレントに囲まれて何かを話していた。話の内容は耳に入ってくるはずもなく、ただウインドウ上で流暢な会話を交わす早蕨を見ながら、自分がこの人物に会い、対話をしたという事実がどんどん現実味を失っていくのを感じていた。
「リク、どうしてっかな……」
アクタの呟きは何か具体的な行動に移されることもなく、微かに聞こえるクーラーの駆動音にさえかき消されていく。
†
残りの夏休みも瞬く間に過ぎ去り、二学期が始まった。
アクタはいつも通りの時間のバスに乗って学校に向かう。自動運転のバスは時間に一切の狂いなく、アクタたち乗客を目的地へと送り届ける。学校の近くのバス停で降り、あとは歩く。まだ和らぐことを知らない夏の暑さと長い休みへのノスタルジーを引き摺りながら生徒たちが登校していく波のなかへと混ざっていく。
若く黄色いざわめきのなかには退屈な時間だけが広がっている。アクタは小さく溜息を吐き、重い足を前へ、前へと進める。
学校に行かなければならない理由などこれと言ってなかった。
でもリクに会わなければいけなかった。
会ってどうするのかは分からなくとも、会わなければいけないような気がしていた。
アクタが自分を取り巻く視線の奇異さに気づいたのは、ちょうど校門を抜けようとしているときだった。
何もアクタに怪訝な眼差しが向けられることは珍しいことではない。
共同体の標準からは大きく外れた出で立ちに目つきの悪さ。言動は粗暴で、いつもデッドコンテンツを漁っては退屈そうに眺めている。おまけに構成員同士の紐帯を重視する共同体において、孤独を好み、誰とも深く関わろうとはしない。
そんな人間がいれば嫌でも注目の的になるし、多少大げさに言ってしまえばアクタは校内でちょっとした有名人なのだ。
だから人に注視されることには慣れていた。
そして慣れているからこそ、いつもとは違うそれにはっきりと気づいた。
気味悪がられているのでも、敬遠されているのでもない。
嫌悪と忌避でも、哀れみと蔑みでもない。
好奇心と不安が入り混じるような複雑な感情が、向けられる視線には込められていた。
当然心当たりはない。真っ当な構成員はアクタのような人間を哀れみ、善意を押し付けることはあっても、興味を抱いたりなどしない。もちろんアクタが積極的に相手を害そうとすることもないので、不安がられるような理由もない。
アクタが居心地の悪さを感じて歩調を早めようとすると、いつの間にか目の前に立ち塞がっていた学級委員の女子生徒にぶつかりそうになる。
「……危ねえな。んだよ」
アクタが一応そう聞いたのは、彼女が明らかに物申したそうな顔で仁王立ちになっていたから。もちろんアクタには彼女と言葉を交わす気もなければ、何か話題があるとは思えない。もし向こうに一方的な都合があるとすれば、それは絶対にアクタにとっては面倒事に違いない。
「ちょっと、雛木くん」
躱して校舎へ向かおうとすると腕をぐいと掴まれ呼び止められる。前を向いたままの学級委員の表情には、珍しく露わになった怒りが宿っている。
「一体、どういうことなの」
「どういうことって何が」
「知らないとは言わせないわ」
「だから何を」
「これよ、これ!」
ビンタされるのではと思いアクタは肩を強張らせたが、学級委員がものすごく乱暴に〈パラサイト〉を操作しただけだった。
動画が流れ始めて間もなく、アクタは息をするのを忘れた。血液が沸騰したように身体のなかが熱くなり、それに引っ張られるように心臓が激しく脈打った。それなのに一瞬で冬が訪れたかのような、不気味な寒気が背筋をなぞった。
ウインドウのなかで空色の髪が靡く。僅かに後ろの透けるホログラムの少女が完璧な微笑を浮かべ、こちらを見ている。
「……〈トーカ〉」
『その通り。私は〈マーキス〉。ですが正確には、人工超知能搭載型超高度演算装置。貴方がた共同体構成員には〈マーキス〉の名で親しまれています』
アクタは聞いたことのある声と響きに、それが〈メーティス〉の深部で起きた出来事を克明に記した映像であることを遅まきながらに理解した。
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