CHAPTER4:What makes desert beautiful is that somewhere it hides a well.(1)

〈メーティス〉――正式名称〈先進感情理論研究グループ〉。その本拠。

 黒を帯びた群青の水面が雲一つなく燦々と光を湛える晴天とコントラストを織り成すその狭間。

 かつて東京湾と呼ばれていたらしい巨大な湾上に、それはある。

 海面から飛び出し、そそり立つような白亜の建造物。真上から見れば正六角形のかたちをしているらしいが、その意図は知る由もない。

 船が近づくにつれ、側面に四角い穴が見えてくる。どうやらあそこが船の発着場らしい。

 アクタは真正面から吹き付ける生温い潮風に目を細め、落ち着かない様子で船内へと戻る。ラウンジのソファではリクが普段よりもさらに白い顔で額を押さえている。


「……大丈夫か?」

「…………ああ。少し、酔ったらしい」


 少しではないよな、という突っ込みは呑み込み、アクタはリクの隣りに座って背中を擦る。頼みのリクがこの様子では心許ないことこの上ないが、仕方がない。アクタは自分を落ち着かせるべく状況を整理する。

 今日は8月23日。〈マーキス〉の対話用インターフェース〈トーカ〉への道を切り拓く術を揃えたアクタたちは、〈メーティス〉で開かれる見学会に参加しようとしている。

〈メーティス〉は月に一度、こうした一般構成員を招いての見学会を開催している。理由は、感情を分析されることに未だ人は少なからず忌避感を抱くものであり、研究の理解を共同体全体へ広げていくためとされている。リクはよりたくさんの感情を研究リソースとして手に入れるための方便だと言っていたが、実際がどうかは分からない。

 夏休み終盤の開催とあってか、〈メーティス〉直行の船内には親子連れやアクタたちのような学生同士の集団が見受けられた。彼らや彼女らが何を目的にここを訪れているのかは知らないが、少なくともアクタたちと同じ目的でないことは確かだ。

 もちろんアクタとしては〈マーキス〉主導で行われる人間の感情についての先端研究がどんな様相なのか気にならないわけではなかったが、目的は見学会そのものではない。リク曰く、〈メーティス〉のどこかに隠されているという〈トーカ〉への接触が、アクタたちの真の目的だ。

 アクタたちはこれまでに手に入れた織香早蕨おりがさわらびの指紋プリントと馬木戸マキド謹製ウイルス仕込みの〈パラサイト〉を駆使し、厳重な警備を掻い潜って〈マーキス〉にコンタクトを取らなければならない。

 今日この日こそ、〝自由研究〟の本懐であり、最大の山場だ。


「なぁ、本当に大丈夫か?」

「…………初めて乗ったんだ、船。きっついね」


 というのに、リクはこの有様である。

 先行きに思いやられながらも、巡行船は順調に湾を横切り〈メーティス〉の発着場へと到着する。

 アクタはリクに肩を貸しながら、下船の列に並ぶ。乗船前に行った身分照会を再度行い、これまた乗船前に済ませたはずの手荷物検査を行う。加えてX線によるスキャニングとドローンによる身体検査。人間とドローンが手際よく役割分担をし、およそ50名の見学会参加者を検めていく。

 頭を押さえるリクの横で、アクタは緊張に息を呑む。

 身体検査では〈パラサイト〉も正常に作動しているか確認されている。

 人間の目は誤魔化せても、ドローンの目は誤魔化せないかもしれない。

 ふとそんな考えが頭を過ぎってしまったのだ。


「うげー」


 リクはやはり腰を折って呻いている。背中を擦るアクタの手は嫌な汗で湿る。

 間もなくアクタたちの順番がやってくる。身分照会と手荷物検査は難なくパス。問題の身体検査の手前、リクが激しくえづいた。


「うっぷ」


 そこに居合わせた人間の注目が集まる。それに応えるように、ゆっくりとリクの手が挙がる。


「ちょっと、もう、限界なので、医務室行って、いいですか……」


 職員たちは揃ってやれやれという表情を浮かべ、どうするか思案していた。視界が妙に右往左往するのは行動の選択を〈パラサイト〉に委ねているのだろう。やがて一人の職員がリクへと歩み寄る。


「三科李久さんね。お連れの方も、同行お願いできます? ……えーっと、雛木芥さん?」

 アクタは名前を呼ばれ、ドローンの前に進み出ようとしていた足を止めて振り返る。歩み寄り、職員から今にも死にそうな表情のリクを受け取る。


「案内します。こちらです」


 職員の先導に従って、アクタとリクは〈メーティス〉内部へのになんなく成功した。


        †


 一度は嚥下したはずの、医療用のドローンからポストされた酔い止め薬をリクが吐き出す。

 さっきまでの死にそうな顔が嘘のように――いや実際に嘘だったのだが――いつも通りのけろっとした顔でリクはベッドに腰かけている。


「ね、上手く言っただろう?」

「最初から演技だったのか……」

「いいや、途中から船酔いは本当だよ。でも降りてしばらくすれば治る。ましてひどくなることなんてないよ」

「まさかこんな手でセキュリティ掻い潜れるとは思わなかったぞ」

「機械やシステムは優秀だ。馬木戸のウイルスも万全を期しているだろうけど用心するに越したことはないから。それに、人を使って欺くほうが、緻密なシステムに真っ向から挑むよりずっと簡単だしね」

「おれ、色々お前のこと怖えなって思うことあったけど、今のが一番だわ」

「褒め言葉として受け取っておくよ」


 雑談もほどほどにリクは素早く立ち上がる。足取りは軽く、足音はしなかった。


「さて、ここからが本番だ。まず、誰にも見つからないように移動して〈パラサイト〉の歪みを探す必要がある。全てはそれからだね」


 リクはどういう礼儀の正しさか、常駐している医療用ドローンに礼を言って医務室を出る。まるで散歩に行くような足取りなので勘違いしそうになるが、ここからは見つかればただ事では済まない。アクタは呼吸さえ最小限にとどめるように注意を払いながらリクの後へと続く。

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