CHAPTER3:If you gaze for long into an abyss, the abyss gazes also into you.(3)
「さ、行こう」
アクタは差し出されたリクの腕を取り、引かれるままに踏み出す。壁にぶつかり、だが何の抵抗もなくするりと通り抜ける。アクタは思わず止めていた呼吸を取り戻し、高鳴っている心臓を押さえるように胸に手を当てながら今まさに通り抜けてきた壁を振り返る。
目線のすぐ先には、何事もなかったかのように淡いクリーム色の壁が静かにある。
リクに引かれて踏み出した一歩は、明確に〈マーキス〉に抗った初めての一歩だ。
「……こんなことして平気なのか?」
「いくら〈パラサイト〉が巧妙にぼくらの意識を誘導していたとしても、こういう事故はありうる。もちろん〈CLASS〉に全く影響しないとは言わないけれど、罪には問いようがないからね。それに多少の逸脱を軌道修正する柔軟さこそ、〈マーキス〉の統治が盤石たる所以だから」
リクは歩き出す。アクタはその背中を慌て気味に追う。
拡張現実で見せられていた壁一枚を隔てただけだとしても、きっとここはもうアクタの知っている世界ではない。好奇心と興奮に勝る不安が、リクから離れるなと警告していた。
とは言え、街並みは何も変わらない。淡い色彩の街路が続き、行き交う人々の背格好もやはり、共同体的に真っ当な規格のなかに収まっている。
やがて少し奥まった路地へと入っていくと徐々に景色が変わり始める。淡い色彩の代わりにコンクリートの灰色が剥き出しになり、派手に彩られたり、異様にくすんだ色の看板が目立ち始める。人の姿は相変わらずだったが、一目で不道徳と分かる街並みにはまるで不釣り合いで急に違和感が立ち込める。
目的地に近づいているのだろうか。少し前を歩いていたリクが歩調を緩める。
「ここは何だ?」
「〈
「ないな」
「まあそうだよね。普通にしていれば、さっきみたいにぼくらは〈パラサイト〉によって辿り着くことすらできないから。〈
リクは前を向いたままだったが、アクタが驚いたのが呼吸の機微で分かったのだろう。いつものようにアクタへと教えを授ける。
「〈マーキス〉はぼくらの行動にまつわる情報を〈パラサイト〉と各所に設置された街頭スキャナによって収集し、個人に最適化された人生計画を立案する。それはつまり、ぼくらは常にみられているということを意味する。そして意識しようがしまいが、見られているという事実は少なからずぼくらの精神に負担を強いる。さっき言っていた……増えつつある青少年の鬱疾患と自殺。この原因は常に見られているという抑圧が原因じゃないかと考えている人もいたりする」
リクの説明は理にかなっているように思える。アクタが昔の映画や小説でつけた付け焼刃の知識でも、かつてはプライバシーが重んじられていたことくらい理解できる。だが共同体社会はプライバシーをほとんど許容しない。あらゆる全てが社会そのものの記憶として蓄積され、個人の行動は〈CLASS〉という共同体において絶対的な物差しへと還元される。
「鬱疾患の増加の原因については諸説ある。明らかなのは幸せを実現しているはずの共同体社会で、何故か自ら命を断つ人間が増えていることと、常に見張られているという感覚は人の心を擦り減らせるものであるという二つの事実。その因果は推測にすぎない」
「つまりよ、なんだ、〈
「正解。もちろん〈パラサイト〉はあるし、観測できないという事実を観測することもできるわけで、〈マーキス〉から完全に自由になるわけじゃない。でも大切なのは気の持ちようで、要はここに来る人間が自由だと感じられるかどうかが重要ってことだ」
「なるほどな。病は気からってやつか」
「よく知ってるね。病気なんてほぼ予防可能だから、罹ったことないだろうに」
「……まあな」
アクタは曖昧に濁し、歩きながら周囲を見渡す。
〈
「〈
アクタは静かに息を呑む。
もしかしたらここまでにすれ違った誰かはフリーターかもしれないのだ。リクが手を差し伸べるまで一歩たりとも動けなかったアクタとは違い、自らの意志で自由を望み、そして不自由を選び取った勇敢なる人々。
「ま、そう緊張することはない。彼もぼくらと何も変わらないただの人だよ」
言って、リクが立ち止まる。その鋭利な視線の先には、雑居ビルの地下へと降りる階段が真っ直ぐに伸びている。階段の脇では罅割れた看板がけばけばしいフォントで、階下のそれがバーであることを示している。
「もしかしてここか?」
「うん。昔からね、後ろ暗い密会はバーでっていうのが相場だろう?」
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