CHAPTER3:If you gaze for long into an abyss, the abyss gazes also into you.(2)
「昔はね、食事は
真夏の炎天下。アイスを片手に並んで歩きながら。火照った身体に滲みていくようなアイスの冷たさと甘さに唸るアクタに、リクが言った。アクタはツンと痛んだこめかみのあたりを指で押さえながら、リクをちらと見やる。
「なんだよ、そりゃ」
「そういう本があったんだ」
「へぇ。昔の人は面白れぇこと思いつくな」
アクタは頷く。リクがその頭のなかに持っている膨大な知識や深遠な思索の多くは、デッドコンテンツによって養われたものらしい。それは古い書物であったり映像であったりと媒体は様々だが、リクの頭脳は下手なアーカイブサイトより遥かに優れた質と量で失われた叡智を記憶している。
煩悶とした共同体社会への不満をやり過ごすための浪費ではなく、リクにとってのデッドコンテンツは血であり肉であり、そして己を研ぎ澄ますための武器だ。
「美味を礼賛するという幸福は、共同体が削ぎ落してしまった幸せの一つだろうね」
「いまいちイメージが湧かねえよな。食べるなんて当然のことで、幸不幸があるなんてよ」
「ちょっと周りを見渡してごらん?」
リクに言われ、アクタは周囲を見回す。自動運転の自動車が行き交う。サラリーマンが汗を拭いながら懸命に歩き、仲睦まじい親子が手を繋ぎながら軽やかに行く。あるいは彼らは大学生だろうか。楽しげに言葉を交わしながら、溌剌とした笑顔を振りまいている。
「見たぞ」
「アクタはさ、肥満って言葉知ってる?」
「……リクな、二人きりのときはまだしも、こういうおおっぴらなとこでとんでもねえ単語口にするのなんとかしろよな」
体型は行動の結果だ。もちろんそこには遺伝的要素もしかと存在する。しかし〈マーキス〉が個々人に示す正しい食事に正しい運動、正しい生活をしていれば標準体型を下回ることも、上回ることもない。共同体において、痩せていることも太っていることもれっきとした悪徳の表れなのだ。
アクタは忠告のつもりで言ったが、リクがちゃんと聞いていたのか表情からは分からなかった。いや、おそらく聞いていなかったのだろう。その証拠にリクはもう一度、今度は少し強調気味にNGワードを口にする。
「肥満はさ、見ての通り社会から駆逐された。昔はね、ぽっちゃり系なんて言われて人気があったりしたんだよ。太っていることは一つの個性でもあったんだ」
アクタは忠告を聞き流されていることはひとまずとして、得心いって頷く。見渡せと言われて眺めていた街の風景を行き交う人々のシルエットは、背丈と性差に僅かな違いこそあれど、おおまかには似通っている。まるで工場のベルトコンベアに並んで移動する何かの製品のように、同じだ。
「逆もまたしかり。かつて痩身であることは憧れの的だった。モデルの多くはストイックに節制をして体型を保っていたし、多くの人がそれを美と称賛して憧れた。不健康であると言われるようになって、大手の雑誌が痩せ型のモデルは使わない、なんて公式に発表して騒がれたりもしたんだよ」
リクは、でも、と言葉を続ける。
「見てごらんよ、今の社会を。今の人を。みんな同じ。そこに個性はなく、その是非を問うこともなく唯々諾々と機械知性の指し示すものに従うだけ。引かれたレール、正しいとされたレールから逸れることを極度に恐れ、あるいは嫌悪し、ぼくらはゆりかごから墓場まで一直線に歩んで消える。そんなものに、いかほどの価値があると言うんだい?」
「だからおれたちは選ばないといけない……」
リクが再三にわたって説いてきた自由研究の理念に、今初めてアクタは心の底で共感できたような気がした。鋳型に押し込められて一様に管理されるだけのこの社会で、これは他の誰でもない、自分自身の生きた道だという証が必要なのだ。
もし自由研究の果てにあるのが〈マーキス〉を受け容れるという、これまでと何も変わらない結論だとしても、それはただ無思考に〈マーキス〉に頷くしかできない他の構成員の在り方とは根本的に異なるのだ。
探して、求めよ。
そして選択せよ。
意志を示すことにこそ価値がある。そこにかけがえのない自分が存在する。
「せめてアイスくらいは満足に食える世界を、選びてえよな」
アクタは外れだったアイスの棒切れを咥えながら、冗談交じりに言ってみる。
「アクタはさ、やっぱり共同体を管理社会だと思うかい?」
「まあそりゃあな」
「でもね、それは共同体の一側面に過ぎないんだよ」
リクは食べ終えたアイスの棒切れをビニール袋のなかに仕舞う。アクタも咥えていたそれを摘まみ、リクの持つ袋のなかへと突っ込む。
「共同体は多くの自由を代償に、それこそ近代以降の長い間尊んできた意志さえアウトソーシングして、安心と安全を実現することに躍起になっている。共同体、ないし〈マーキス〉は社会に蔓延していた不安定性を限りなく恒常へと置き換えたんだ。ポストモダンと呼ばれる時代においてはさ、こうした不安定性の解決は急務だった。人は何にでもなれると言われながら、何者にもなれない時代が続いた。立ち返ることのできる故郷や拠り所はなく、辿り着ける未来もない。人はただ、不安定な足場の上でバランスを取りながら、いつか必ず崩れ去るだろうそのときに怯えていたんだ。そういう意味で、共同体社会は成功したと言えると思うし、ある種の到達点だと言われていることもあながち間違いではないんだ」
「確かにな……。ルーインネットで昔の映画よく見るけどよ、誰も彼も悩んだり、躓いたり、哀しいくらいに生きづらそうだ。それを考えれば、確かに今はいくらか平和なんだろうな」
アクタは行き交う人々にぼんやりと視線を投げる。彼らの混じりけのない表情に、悩みや苦しみと言った感情は感じられない。誰もが幸せになれるはずの社会で、無用に生きづらさを感じているアクタのような人間こそが、共同体では少数派なのだ。
「自由と安全は共存しない。そして自由を代償に安全を実現した共同体の、徹底した管理に基づく繁栄と平和に、ぼくらは少しずつ耐えられなくなっている」
「おれたちのように、か?」
アクタが訪ねると、リクは首を横に振った。
「ぼくらはまだいい方さ。今の社会にはもっと思い詰めた人たちがいる。聞いたことないかい? 実はここ数年、自殺者や鬱罹患者が右肩上がりで増えているって話」
「そうなのか」
「うん。それもぼくらと同年代を中心にね。だからこそぼくは知りたいんだ。この社会が、一体どんな未来へと進もうとしているのか。……さ、着いたよ」
リクは言って、正面を壁にして立ち止まる。アクタは意味が分からず、だが必ずあるだろうリクの言葉の意味を推し量ろうとして眉を寄せた。
「ぼくらの使う〈パラサイト〉は世界を個人に最適化する。たとえばほら、こうやって本来はあるはずの道をぼくらの意識の外へと追いやって、見えなくするんだ」
リクは壁に向かって踏み込む。壁にこまやかなノイズが走り、リクの身体は半分まで壁の向こう側へと消える。
「まじかよ」
「ああ、まじだよ。さ、行こう」
アクタは差し出されたリクの腕を取り、引かれるままに踏み出す。
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