CHAPTER3:If you gaze for long into an abyss, the abyss gazes also into you.(1)

 雲一つない青空から降り注ぐ灼熱の太陽。教室の窓から見下ろすグラウンドで走る運動部連中の姿が蜃気楼に溶け出す。

 アクタはと言えば、怠そうに頬杖を突いたまま、見ているだけで茹だってしまいそうな暑さに深い深い溜息を吐く。


「溜息を吐きたいのはこっちだよ、雛木さん。せっかく夏期休業中の特別講習だっていうのに、そんなあからさまな溜息を吐かれちゃぁ胸が痛いよ」


 教卓に浅く寄り掛かりながら、公共社会という科目担当の教師である手塚が言った。構成員らしくきちんとアイロンの掛けられたワイシャツに、特徴のないグレーのスラックス。教室のなかは空調が効いていて肌寒いのか、薄手のカーディガンを羽織っている。

 まばらに座席が埋まっているだけの教室で、騒めきのような控えめな笑い声に冷ややかな視線。


「すいません……」


 アクタはとりあえず謝り、自分の〈パラサイト〉上に一切のテキストが展開されていないことに気づく。慌ててツールボックスからテキストを引っ張り出す動作に、もう一度控えめな笑いが起きている。

 テキスト類は公開設定ヴィシビリティで展開しておくのが一般的で、当然ながら科目担当の教師は生徒が真面目にテキストを展開して授業を聞いているのかを目視することができる。つまりアクタがひどい受講態度で授業に臨んでいたことはしっかりとバレている。おまけに溜息と頬杖である。心象は最悪と言ってもいい。もちろん教師もクラスメイトたちも、場違いなアクタを必要以上に咎めたりはしない。それが共同体的な態度だ。


「雛木さん、ちゃんと聞いておいてね。この〝公共的意識〟への理解度は〈マーキス〉も非常に重要視している項目と言われているから」


 アクタが曖昧にだが頷いたのを確認し、手塚は授業へと戻っていく。今度は周りに気づかれないように、アクタはもう一度深い溜息を吐いた。

 結論だけで言えば〈マーキス〉の素晴らしさを延々と説くだけの公共社会の授業はもちろん退屈だ。手塚の教師としての力量云々ではなく、誰がどう教えようともアクタにとって公共社会の科目は退屈で、ともすれば苦痛でしかないのだ。しかしわざわざ退屈な授業に向けて溜息を吐いて、いらぬ注目を集めるほどアクタも愚かではない。

 アクタの溜息は他でもない自分自身に向けられたものだ。

 この特別講習は強制参加ではない。学生の、特に高校二年生の夏休みと言えば、部活に恋に遊びに忙しいのは今も昔もさほど変わらないのだ。

 もちろん〈マーキス〉によって参加が促される場合がほとんどなので出席する生徒は多いが、任意参加であることを示すように、教室のなかにリクの姿はない。

 学年でもトップの成績を収めているリクのことだから、〈マーキス〉が特別講習など必要ないと判断したのかもしれない。でもきっとリクは〈マーキス〉の推奨を無視して、その〈マーキス〉に突き付けるための焼け付くような知性を今も研ぎ澄ませているに違いないと、アクタは思った。

 暑い、怠い。

〈マーキス〉にあれこれ指示されるだけの人生がどうしようもなく息苦しい。

 たった一度のこの人生に、自分という魂の居場所がない。

 特別講習にも、共同体社会にも、文句や不満はいくらでも思いつく。

 だけど思いつくだけだった。

 内心では社会に対して斜めに構え、フリーターへの進路を希望するなんて言ってみたりしながら、何か具体的な行動に移したことなんてない。意志を、行使したことなんてない。

 こうして座席に座っているのが何よりの証拠だった。

 結局のところ、〈マーキス〉の従僕しもべとしての構成員根性が染みついてしまっている。

 その事実がどうしようもなく恥ずかしく、どうしようもなく情けない。

 アクタは三度目の溜息を吐く。

 鬱屈と吐き出された息は、教室の誰に気づかれることもなく溶けて消える。


   †


 講習が終われば、お預けになっていた夏休みが生徒たちの元へと帰ってくる。大きく伸びをしたり、ほとんどない荷物を手早く纏めたり、だがいずれの生徒も講習が終わった安堵と達成感、そして束の間の享楽へと意識を向けていた。

〈マーキス〉が推奨する友人と〈マーキス〉が選んだ娯楽施設へ。

 あるいは〈マーキス〉が認めた恋人と〈マーキス〉が決めたデートスポットへ。

 そこには解放感など、一片たりとも存在しない。

 アクタはクラスメイトたちに背を向けて教室を出て行く。講習は午前中のみなので、時間はまだ13時前だ。他人を寄せ付けない早歩きで階段を降り、昇降口の脇にある売店の前で速度を緩めて止まる。

 外に出れば暑いことは分かっている。おまけに退屈な授業をたっぷりと聞かされ、心身ともに疲労困憊だ。そうなればおよそ必然的に冷たくて甘いものが欲しくなってくる。

 アクタは売店で販売されている夏季限定のアイスクリームを手に取る。しかし触れるや〈パラサイト〉の真ん中に注意Caution!が浮かぶ。詳細を見れば、何やら昼食摂取前の糖分過多と一日の摂取カロリー規定値の逸脱への警告らしい。

 アクタはアイスをつまんだまま硬直。健康体を保てという〈マーキス〉の託宣と自らの欲望とを天秤にかけて、思考を巡らせる。


「――三時間分の授業による消費カロリーはおよそ300キロカロリー」


 背後から突然に聞こえた声に驚いたアクタは、肩を強張らせて振り返る。すぐ後ろには、校内だというのに開襟のシャツにジーンズ姿のリクが立っている。


「そのアイスは一つで342キロカロリー。もちろん数字は君が真面目に授業を受けていたことを想定しているけれど、どちらにせよ、君は今日これからもたくさん頭を使わないといけない。多少の糖分補給くらい、躊躇うことはないと思うね」


 リクは淡々と述べ、でも、と言葉を続ける。


「そのアイスを買うのは止めておいたほうがいい。さすがに昼食前に二つもアイスを食べることになるのはおすすめできないからね」


 言って、右手に下げていたキオスクのビニール袋を掲げる。半透明の袋ごし、二本並んだソーダ味のアイスがほのかな冷気を放っていた。

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