CHAPTER2:Revolutions are not about trifles, but spring from trifles.(5)
「……もっと重要なことですか?」
「ええ。ぼくらの社会でありながら、その社会が何を目指して未来へと進んでいくのか。〈マーキス〉が描く青地図の一端さえ、ぼくらは知らないじゃないですか」
「知る必要がないのです。それに知ったところで人の身で理解など叶わないでしょう。ほんの数分先の未来さえ見えない私たちに、遙か先の幸福のために為せることなどありません。だからこそ、〈マーキス〉は存在し、私たちは彼女を必要とする」
早蕨の言葉を支えるのは〈マーキス〉に対する狂的な妄信だけではなかった。百年を生きてきた女史は、人の意志がもたらす愚かで悲惨な結末をその身をもって知っている。
だが。それでも。
「なら、おれが、おれがここに生まれた意味は、生きてる理由は、一体どこにあるんだ……」
気が付いたときには、アクタはそう口走っていた。魂から絞り出されるような、切実で今はまだ弱々しい叫び。
早蕨の瞳が穏やかな冷徹さをもってアクタを捉えた。アクタは思わず息を呑むが、一度吐いてしまった言葉は呑み込めない。
「社会のため。公共の利益のため。隣人の幸福のため。それでは不十分ですか?」
一片の曇りもない早蕨の眼差し。だがその無垢な真っ当さが、アクタには狂気同然に映る。
「きっと貴女の言うことは正しいです。共同体的にも、それに、人としても。でもおれの人生は、見ず知らずの誰かのためじゃない、自分自身のために何か価値があるはずだと、願ってはいけないんですか」
「アクタの言う通りだよ、グランマ。この社会には、人の人生が存在しない」
「ならば人の人生とは何でしょうか? フリーターのように、ありもしない自由の虚像を追って暗闇のなかを生きることですか?」
僅かに早蕨の語気が強められた。そこには道を踏み外しそうになっている若者を諭す、年長者の義務のような感情が垣間見える。どこまでも優しく、共同体的な理想を体現していた。
「ぼくたちは〈マーキス〉を否定したいわけじゃない。ただ知って、選びたいんですよ。貴女やぼくたちの祖先が〈マーキス〉を選んだように。自分の意志で何にたった一度の人生を委ねるのか、決めたいだけなんだ」
「それが、リク。いえ、貴方たちの望みだと言うのですね」
早蕨の声は再び落ち着いていた。ゾッとするほどの慈愛に満ちた表情で、リクとアクタを交互に見やる。石にでも替えられたかのように言葉に詰まったアクタとは裏腹に、リクはゆっくりとだが深く頷く。
「〈マーキス〉と、話がしたい。彼女が一体、どんな社会を目指しているのか、確かめたい」
沈黙が、部屋のなかを満たしていった。
風が吹いてやがて過ぎ去っていくように、降り積もった沈黙を払って早蕨が首を横に振る。
「それは不可能です」
突き放すような。それがリクとアクタのためであることを納得させようとするような。
「確かに〈マーキス〉には人と対話するためのインターフェース〈
†††
「当てが外れたな」
手首まで洗剤の泡まみれになりながら、アクタはそう口を開く。
早蕨は客人に洗い物などさせられないと言っていたが、リクがたまにはこういう孝行もいいだろうと強く申し出たので、二人は今シンクの前に並んでティーカップを洗っている。リクの言葉に根負けした早蕨は模範的に深く礼を言って、まだ残っている仕事をこなすために執務室へと向かっていった。
アクタが溜息混じりに口を開いたのは、リクと二人になってようやく緊張から解放されたからに他ならない。
隣りではリクが洗う前のティーカップを握ったまま、固まっている。
「ああ。すまない」
結局、早蕨は最後まで首を縦には振らなかった。本当に手引きができないのか、あるいは早蕨が拒んでいるだけのかは分からなかったが、彼女が無理だと言う以上、アクタたちにはそれを受け容れるしかない。
勢いよく流れる水で泡を洗い流しながら、アクタは気持ちを切り替えるように息を吐く。
「まぁ、そう簡単に運んだら苦労はねえよ。次の手を考えようぜ。今度は、おれも考えるから」
「ありがとう。でも、どうやらその必要はなさそうだ」
「は?」
首を傾げるアクタをよそに、リクは手に持ったティーカップに視線を落としている。
「〈マーキス〉の対話用インターフェース〈トーカ〉は判明している分で三カ所。まず一つ目は国会議事堂。これは〈マーキス〉の手足である政治家がそのお伺いに直接耳を傾けるため。〈マーキス〉の推奨が〝託宣〟と呼ばれるのはこれが理由だ。二つ目はクロノタワー。議事堂が政治の中心ならば、ここは共同体経済の中心だ。それにクロノタワーは〈マーキス〉の技術によって建造されている。だから〈トーカ〉が存在しても不思議ではない」
「……三つ目は?」
突然に饒舌になったリクに、アクタは訊ねる。答えは実に端的な単語一語で、だがしかしアクタにとっては初めて聞くものだった。
「〈メーティス〉」
「メーティス……?」
「
愛や欲求――つまりは感情を根底にもつ行動は、〈マーキス〉が最も御し難い人の行為の一つ。
早蕨が言っていた言葉が、アクタの脳裏を反芻した。
リクが顔を上げ、人差し指で空中を十字に切る動作をする。間を置かず、アクタの〈パラサイト〉にリクからのメッセージが届く。
「情報屋の裏付けもある。行ってみる価値はあると思うんだ」
「行くって言ってもよ、〈マーキス〉がその気じゃないなら辿り着けないんだろう、その〈トーカ〉のある部屋までは」
「大丈夫だよ。もちろん〈マーキス〉がぼくらの訪問を受け容れてくれればそれが一番だけどね。駄目なら駄目で、もう手は打ってある」
リクは散歩しながら天気の話でもするような調子で言うが、それはつまり〈マーキス〉の導きとは無関係に侵入する算段が用意されているということだ。リクの大胆不敵さには感嘆を覚えるばかりだけれど、こればっかりは二つ返事で了承するわけにはいかない。
「ちょっと待ってくれ。そんな先端研究してる施設、セキュリティとかはどうなんだよ。変なことして捕まったりするのはさすがにちょっとな」
「あれれ、少しビビってる?」
リクがからかうように声を潜める。図星なので答えず、アクタは悪い目つきをさらに細めてリクを見る。
「安心してほしいね。だからぼくらは今こうして、三人分のティーカップを洗っている」
「はぁ?」
アクタは全く要領を得ず、眉根を寄せて顔をしかめる。リクの視線が見えるはずのないアクタの〈パラサイト〉上のメッセージアプリのアイコンを指し示す。
メッセージを見ろ、ということだろう。リクは泡塗れの指でアイコンに触れる。メッセージにはデータが一件、添付されている。もどかしいダウンロードを待って、データを開封。視界の中央に浮かび上がったのは織香早蕨の指紋だった。
「これ……」
アクタは絶句する。セキュリティ対策の観点から広く普及している生体認証ではあるが、その無断データ化は当然ながら違法だ。
「〈CLASS5〉の指紋だ。
リクは得意気になるでもなく、事実の羅列を読み上げるような単調さで言う。まるで法や倫理、〈マーキス〉の軛など、歯牙にかける意味もないと言わんばかりに。
「問題ないよ。ぼくらの自由は、誰にだって阻まれない。たとえそれが、秩序を司る女神であってもね」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます