CHAPTER2:Revolutions are not about trifles, but spring from trifles.(4)

 アクタたちは早蕨の私室へと通された。

 天板だけの簡素な長机と固い感触の合皮のソファ。塵の一つさえ落ちていない樹脂製の白い床。棚には孤児院の子供たちと撮ったのであろうホロフィルムが置かれ、生活感の削ぎ落とされた部屋のなかで唯一の人間味を放っている。

 部屋の内装のどこをとってもこれと言って特徴はなく、ただ淡い色彩で統一されただけの富と権力の気配を排した模範的な室内だ。織香早蕨という人間は、一分の隙もなく徹底して真っ当な構成員であることを部屋全体が証明するようだった。

 ソファに腰かけて向かい合う三人の間に、カザナが用意したカフェインレスのコーヒーとビスケットが並べられる。室内には妙な緊張感が漂っていて、アクタは息を殺しながら生唾を呑む。


「カザナ、下がっていてもらえますか?」

「りょーかい、グランマ」


 意外にもカザナは二つ返事で了承した。早蕨の顔つきが真剣味を帯びていることを察したのだろう。一礼し、盆を抱えてカザナは退出していった。

 張り詰める空気に耐え切れず、アクタはコーヒーを口に含み、ビスケットを齧る。どちらもほとんど味がないのは、単にアクタが緊張しているからではない。

 態度や言葉に模範的なものが存在するのと同様に、共同体社会ではあらゆるものに〈マーキス〉の規範が存在する。


「それにしても驚きましたよ。FEC3の重要人物である貴女が、本当にぼくらと三人きりで会ってくれるなんて。少し不用心が過ぎるんじゃないですか?」


 リクは目的を果たすべく、対話を開始した。辿り着く先が分からずとも、自由という不吉な言葉が持つ魅力に憑りつかれるアクタは、それに付いていく他にない。


「共同体社会は、すれ違う人々が慈しむべき隣人であることを保証してくれているのですから、警戒なんてものは必要ないのですよ。もし私たちが今日ここで話すべきでなければ、私たちは互いにすれ違い、出会うことはなかったのです」

「よく言えばそうですね。でも実際は出会うべき人々を選別しているに過ぎない。そうでない者は漂白して、あるいは覆い隠して見えなくしただけです。この社会は貴女が思うような性善説には基づいていない。むしろ隠しきれない悪徳を制御するための仕組みが共同体社会ではありませんか?」

「確かにそうかもしれません。でも悪徳を制御したいと、善くありたいと望んだのもまた、人の精神性に他なりませんよ」

「善くありたいという望みを放棄したからこそ、〈マーキス〉に全てを委ねたのでは?」


 リクの言葉には意図的な刺々しさが感じられた。まるで思春期の子供が親や教師に反抗するように、意味もなく相手を苛立たせようとする言葉と口調を選んでいるかのように。

 もしかすると二人の間には何か確執があるのかもしれない。〈なぎさの家〉にいれば保証されていたはずのあらゆる恩恵を捨ててまで、青少年自立支援方針とやらを利用してまで、ここを出て行かなければならなかった理由は推し量れない。そしてそれはどこまでもプライベートでデリケートな問題だ。アクタが踏み込むような余地はなかった。


「そうかも、しれませんね。人の意志は揺らぎやすく儚い。だからこそ、平穏と幸福を願う誓いを決して忘れぬために、女神の手に委ねることが必要だったのです」

「まるで知ったような口ぶりですね。やはり隔たれた時代を跨いで生きてきた悠久の魔女の言葉には重みがある」


 今度こそ、正真正銘の悪意が宿った言葉だった。だがリクの不遜な態度にも、早蕨は微笑みを絶やさない。それどころか、リクの悪意を真正面から受け止めると言わんばかり、掲げた掌の皮膚を剥いた。べろりと剥がれた人工皮膚の内側に、鈍色の機械が脈動している。


「隠しているつもりはないのですよ。この通り、私は共同体の創成から現在に至るまで、脳以外ほとんどの肉体を人工生体に置き換えることで生き永らえています」

「サイボーグってことか……」


 割り込む意図はなく、だが衝撃的な事実にアクタは思わず呟く。サイボーグということにも驚いたが、それだけではなかった。

 織香早蕨は一世紀に渡る時を生きてきた。それは世界紛争の悲惨さと共同体社会の豊かさを、身をもって知っている唯一の人間であることを意味する。自由の横溢による破滅と没落。そして意志の放棄による確約された安心と安全の歴史全てを、自分自身の目で見てきたのだ。

 リクに真っ直ぐ捉えていた早蕨の微笑みがアクタへと向けられる。


「月並みに言えば、そういうことになります。もちろん義体化は私個人の意志ではありません。FEC3の繁栄を築くために、〈マーキス〉が下した判断です。彼女はそうせざるを得なかったのだと、私は理解しています」

「せざるを得なかった?」


 横からリクが問いを発する。早蕨は頷き、再びリクへと視線を戻してしまう。


「ええ。この話をするのは初めてですね、リク。……〈マーキス〉の試作型は元々、戦後の復興支援計画を立案し、実行させるための人工知能だったことは学んでいますね。しかし復興がいくら進んでももはや旧時代の支配体制である国家は機能していない。ですが人々はもう、自分の意志で何かを成し遂げようとすることに恐怖していた。国家の再建など悪夢も同然。人類全体がトラウマになっていたと言ってもいいでしょう。そこで見事に復興をエスコートしてのけた〈マーキス〉を改良し、社会の統治を担わせる動きが生まれた」


 早蕨はまるで眠る前の子供に絵本を読み聞かせるような優しい口調で、過去を――共同体社会という一つの到達点の創成を語った。


「しかし人工超知能の全能性に対して懐疑的な研究者グループが存在しました。私はその一人。〈マーキス〉の開発にも関わっていたからこそ、彼女に全てを一任してしまう危険性を感じていた。しかし世界紛争という人類史上最大の後悔に突き動かされたうねりは止めることができなかった。ところが、私の予測に反し、〈マーキス〉は完全に程近い存在となった。その完全性は類まれなる学習能力だけではありません。自らの不完全性さえ客観的に認知するというかたちで、その知性を完全なものへと昇華させようとした」

「つまり、貴女は〈マーキス〉の危険を見張るために〈マーキス〉によって生かされていると?」

「さすがにリクは察しがいいですね。確かに最初はそうでした。ですがこの社会で生きるうちに、私が当初〈マーキス〉に対して抱いていた疑念は消えました。今はただ、他の構成員の方々と同じように、社会と個人の幸福を最大化するために存在しているに過ぎません。ですが、それは私の心持ちの問題であって、当の〈マーキス〉は未だ自ら認識した危険性を解消したとは考えていないようですが」


 早蕨はそこで不自然に言葉を切った。リクは言葉の先を追及しようと口を開きかけたが、早蕨が微笑みの下に垣間見せる痛切さがリクに言葉を呑みこませる。きっと意図しない感情の漏出だったのだろう。早蕨はすぐに模範的な微笑みを取り戻す。

 リクは踏み込もうとした足を引き戻すように、一瞬だけ乱れた会話のペースの軌道修正を図る。


「分からないな。どうして貴女がそう懐柔されてしまったのか。結局のところ、得体の知れない機械知性であることに変わりはない。ぼくはね、どうして皆がああも〈マーキス〉を信奉できるのかが理解できない」

「簡単でしょう。彼女がこの一世紀、ただの一度さえ間違うことなく、平和と幸福を実現し続けてきたからです」

「それですよ、ほら。〝マーキス〟は明らかに男性名なのに。どうしてぼくらは〈マーキス〉を彼女と、女神と呼ぶんでしょう」

「性別など些末な問題です。機械知性である〈マーキス〉に、本来は性別など存在しないのですから。大方、託宣を示す巫女にでもなぞらえているのでしょう」


 早蕨は毅然と言い、リクも鷹揚に構えたままの態度を崩さない。FEC3の重鎮を相手に、一介の高校生に過ぎないリクは壮絶な舌戦を繰り広げている。二人の対話にアクタが付け入る隙はなく、ただ固唾を呑んで行く末を見守る。


「なるほど。確かに些末な問題ですね。ぼくらはもっと重要なことを何も知らずに、平気な顔をして〈マーキス〉に従っているんですから」


 張り詰めた水面に、致命的な一石を投じるように。

 リクの言葉は部屋のなかを、さらには早蕨の窺い知れぬ内面を、ざわつかせるようだった。

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